エッセイ
「礼拝音楽の作曲について」
セルゲイ・グラゴレフ神父
(ニーナ原田和子ホワイト 翻訳)
I. あらゆる礼拝芸術にはイコン(聖像)に求められる条件と同じ条件が要求される。正教会の礼拝では教会芸術や建築、詩的に構成された祈り、聖歌の聖なる調べすべてがイコンとして働く。礼拝そのものがその行われる時と空間、場所と動き、視られるもの、聴かれるものとして「キリストのからだ」としての教会を明示し「神の国」を宣言するイコンである。この意味で、正教勝利の日に祝う「イコン復興」は文字で書かれたことばと同様に肉身から発せられることば、目で見るものと同様に耳で聞くものにも当てはまり、さまざまなことばとイメージによって我々の救いを告白し宣言する。礼拝では聖なることばが歌われる。その意味で聖歌は、雲のように我々を取り囲む聖証者たちのイコンと形と機能を共有しなければならない。
まちがいなくイコンは単なる宗教美術以上の何かを認識させる。したがって聖なるイコンの形と機能を共有するならば聖歌も同じ認識へと人々を導くに違いない。たとえば降誕祭のイコンに見出だされ讃えられるものは、この大祭の小讃詞(コンタキオン)でも歌われ、聴かれる。聖歌やそれを歌うことが、降誕祭のイコンや小讃詞が共有すべきものに矛盾することなく、祭日のテーマや喜びを表現するものでなくてはならない。
礼拝音楽においてイコンと同様に認識されるべきことは、その「継続性」と「なじみ深さ」の感覚のように思える。これは創造的な作曲に何の余地もないという意味ではない。14世紀末の偉大なイコン画家アンドレイ・ルブリョフの創造的才能は誰もが認めるところである。しかしこの聖なるイコン画家の作品に見られる祝福された天才性は、時代や様式をこえて一貫してイコンをイコンならしめてきた継続性に矛盾しない。
さて「なじみ深さ」の感覚は丸写しによって得られるものではない。しかし正教会の礼拝音楽では芸術家自身の独自の表現を重んじるルネッサンスの伝統とは異なり、作曲家が作曲を彼自身の自己表現の手段としないことで「なじみ深さ」の本質が守られてきたように思える。「(セルゲイ神父の)聖歌は確かに新しく、現代的で、どこかこれまでの聖歌と違うけれど、何かなじみ深い響きがある」と言われるのは、私にとっては最大の賛辞であり、素晴らしい祝福である。これは私の作曲した聖歌が、正教会の聖歌としての継続性を保ち聖歌として認識されたことであり、私がそれを台無しにしなかったことだけでも、神様は喜んで下さるかもしれない。
II. 作曲を始める際、技術的な力量不足は作曲者の自我と同じくらい邪魔になる。聖歌を歌う時、その曲の様式自体への関心など忘れさせるほどの単純さが必要である。音楽や詩的な歌詞の要素に関して技術的に習熟していなければ、単純さを創造することはできず、ぎこちない旋律線や奇妙なジャンプ、間違ったアクセント、分かりにくい声の動き、非論理的な終止形などを生む。曲が歌いやすいということは、その曲が音楽理論、旋律の理論、詩構成の規則の論理に従って作曲されているからである。どのように、そしてなぜ各声部が動き、メロディがどのように歌詞に結びついているのか、筋が通っていなければならない。筋が通っていれば曲は覚えやすく、歌いやすくなる。
聖なることばなくして聖なる歌は有り得ない。正教会では「純粋音楽」はことばを排除したメロディではなく、ことばのメロディである。作曲にあたっては、礼拝に歌われることばの詩的な構造を理解しなければならない(ことばのリズム、ことばのひとまとまりの構文、行の詩的組み合わせ、節の構造など)。詩のリズムが、そのことばがどのように歌われるべきか、どのような様式にもとづいているかを示唆しているのであれば、ギリシャ語で歌われるべきメロディを模写して英語の構文に詰め込むことはもちろんできない。そこに認められるのはギリシャ語に聞こえる英語に焼き写されたギリシャ版のオリジナルに過ぎない。この場合作曲家の創造性は、オリジナルの旋律の心髄、フレーズ、詩のリズムの論理を理解し、これらの要素からオリジナルの聖歌が認識でき、しかも英語として聞こえる聖歌を作り出せることにある。
アメリカでは、英語で話す時にも共通するが、英語で歌う際に困る点がニつある。第一に我々は「ブロークン・イングリッシュ(不自然な英語)」、または「祈祷のために作られた英語」を使っており、長年の伝統となって染み付いている。第二に聖歌の由来する元来の言語に精通する作曲家、改作者、編曲者がほとんどいないことである。このような問題に対しローマ・カトリック教会は悲劇的にも、少しずつ連続性を保ったまま変えてゆく忍耐ではなく、伝統的な豊かな旋律の放棄を選んだ。その結果、英語というよりアメリカ的な調子よく響く歌が主流となっていった。幸いにも正教会はこの点により注意を払ってきた。なかには歌いやすい英語による斬新な様式の聖歌への移行が遅いことに苛立つ人たちもいる。しかし辛抱強くなくてはいけない。音楽家であり、詩人であり、言語学者でかつ神学者である作曲家を育てるには何代もかかる。中途半端な妥協では何の進展も生まれない。
III. 作曲にあたっては、祈祷における特定の聖歌の機能を神学的に理解する必要がある。特定の聖歌が祈祷においてはたす機能がその聖歌の様式を決める。なぜ「アンティフォン(交唱)」と呼ばれるか、教訓的なステヒラはどのように機能しているのか、祈祷の中で対話形式がある場合はどのように歌われるべきか、祝祭的な歓喜の叫びはどうなのか、なぜいくつかの聖歌は会衆によって歌われるべきで、主唱者や聖歌隊は歌わないのか(会衆唱方式とは異なる)など…。
作曲家は自分自身のためではなく、地域の必要性に応じて曲を作るべきであると思う。地域の必要性に応じる場合、礼拝のコミュニティーの気風(民族精神)を理解し、特定のグループの「祈りの響き」が何であるかを見分ける繊細さを持たなければならない。今日のアメリカ正教会の音楽は折衷的と表現するのが最も相応しい。それは多くの時代や場所から借りてきたものであり、ビザンティン聖歌からカルパティアの単旋律聖歌、バフメーチェフ、そしてボルトニヤンスキーをも含む。私はアメリカ正教会の礼拝のためには一つの聖歌様式のみが相応しいという純粋主義者ではない。我々の驚くべき豊かな音楽的遺産の連続性の中で、アメリカの広範な文化的多様性を反映する多くの様式がある。その多くから最も良いものを借りてきて、我々自身のものであると同時に全ての人々にとって「なじみ深い響き」を育てるべきではないかと思う。
IV. どのようにして作曲を学ぶことができるか。文筆家に聞いてみてほしい。「文学を読みなさい」と言われるであろう。聖歌譜から歌い、聖歌名曲集から口ずさみ、総譜を学習して頭のなかでことばと音楽を聴いてみると良い。録音されたものを聴くだけでは十分ではない。音楽的に学識を積むには、聖歌を読むことによって聴くことを学ばなければならない。音楽的なフレーズをみてみよう。なぜここで効果的であって、あちらではうまくいかないか。なぜこのように書かれているのか。書いた作品を読むことを学ぼう。
最後に語学の知識を習得してほしい。なぜギリシャ語やスラブ語では適用できるのに英語ではできないのかを理解するためには、ギリシャ語、スラブ語、英語の知識が必要である。もちろんこれは旋律形を生かしたい場合であるが。旋律形の内的論理は発音されたことばの性格に関係する。
しかし作曲を試みる者には音楽的技術、言語の知識とともに、祈りに習熟することが重要である。神学者が祈る人であることはこれまでも強調されてきた。故マイエンドルフ神父は「神学は神に相応しいことばを探すことである」と述べている。おそらく聖歌はこれらのことばへの相応しい発音、心の音楽の探求であると言えよう。
(アメリカ正教会ニューヨーク・ニュージャージー主教区の機関誌「ヤコブの井戸」の1997年春夏号に掲載、許可を得て転載。翻訳ニーナ原田和子ホワイト)
聖歌者 セルゲイ・グラゴレフ神父の功績
ニーナ原田和子(ホワイト)
1. アメリカ正教会の正教音楽
1970年代、80年代のシュメーマン神父、マイエンドルフ神父を中心とするウラディミル神学校の教えは今日のアメリカ正教会に方向性を与えることになった。自分の言語によって祈祷を理解し、正教会の神学を理解することはもはやタブーではなくなったとも言える。セルゲイ神父はシュメーマン神父、マイエンドルフ神父から神学を学び、正教会の原点に戻り、祈りとしての聖歌を基本とする今日の「アメリカ正教会の響き」を形成していった。
日本正教会と同様に19世紀中頃にロシアから伝道を受けたアメリカ(OCA)正教会は、19世紀ロシアの教会文化の強い影響を受けてきた。セルゲイ神父自身、また指揮者のモロザン氏も幼少の頃スラブ語の祈祷に慣れ親しみ、ボルトニヤンスキーなどのロシア聖歌作曲家の作品を聴き、歌いながら育っている。特にロシアからの移民が多く集まるアメリカの都市や村では、当時は教会と革命前のロシアの文化が不可分であり、ロシアの母教会で歌われていた聖歌でなければ「正教会聖歌」として認められなかった時代でもある。このような環境下で、英語による祈祷、英語の聖歌に対して大きな抵抗があったことは想像に難くない。
セルゲイ神父は、英語による聖歌はそれまでスラブ語で歌われてきた聖歌に英語を無機的に当てはめるべきでないということを、早くから気付いていた。そのためアメリカ正教会ではロシア聖歌のメロディそのものを勝手に変えることのできない「聖域」とせず、聖歌の意味・意義を元に戻って考える環境が整っていったとも言える。もちろん歌いやすく、親しみやすいメロディはそのまま残し、英語のアクセントや抑揚を尊重した形に編曲されていった。セルゲイ神父という神学、語学、そして音楽の才能に恵まれた人材を得て、アメリカ正教会の聖歌は「これでなければならない」という凝り固まった文化に押し込められず、ロシアを越えて「より正教会的な方向」へと自然に戻っていったとも言える。今回、このセルゲイ神父の作品を集めたCDが完成したことはアメリカ正教会にとって意義深い。
アメリカにはロシア系のアメリカ正教会のみならず、ギリシャ系正教会、アンティオキア(シリア、レバノン系)正教会、セルビア、ブルガリア、ルーマニア系正教会もある。正教文化の英語化をいち早く取り入れたのはアンティオキア系正教会とアメリカ正教会である。アンティオキア系正教会ではアラブ語の誦経やアラブの旋律による主唱に混じって、プロテスタント教会の賛美歌的聖歌もある。また教会によってはオルガンを「伴奏」として使用する教会もある。
一方アメリカ正教会は、正教文化のうち何が継承されるべきで、アメリカで土着化するためにどの文化と融合すべきかという点に、非常に慎重である。これは適当なところで妥協しないセルゲイ神父の神学者、音楽家としての功績でもある。確かに正教会の聖歌の米国化をもっと進めるべきという声もあるが、セルゲイ神父の教え、またウラディミル神学校、ティーホン神学校での指導もあり、自然に良い意味で「米国的」になっていくのが適するという共通した理解がある。
2.セルゲイ神父との出会い
セルゲイ神父との出会いは25年前に遡る。ウラディミル神学校での聖歌作曲の初めての講義に出向き、教室の片隅にひっそりと座っていた仙人のような風情の神父と会った。小柄で、ぼさぼさの長い髪、こだわりなく伸ばした髭のセルゲイ神父は、私を含む4人の学生を満面の笑顔で迎えてくれた。フィンランド人、チェコ人、アンティオキア系教会のアメリカ人、日本人という全く背景の異なる4人であったが、神父はそれぞれの文化の違いに深い理解をもって接し、誰をも含み込むような暖かな指導をしてくれた。そして輝いた目で正教会の音楽を止まることなく語った。特に、主の復活やユーカリストを語る神父は、神への感謝に満ち溢れ、時には涙することもあった。
思えばこの最初の講義以前に既にその作品を通して神父に出会っていたことは後になって知った。開講に先立ってウラディミル神学校の小さなチャペルで土曜日の晩祷に初めて参祷した際、晩課の始まりの天地創造の神を称える103聖詠(同CD No. 1: Bless the Lord, O my soul「我が霊よ、主を讃め揚げよ」)を聴き、これまでの聖歌と全く異なる躍動する喜びに満ちたこの歌に、またそれを歌う神学校の聖歌隊、参祷者、子供達の輝いた顔に感動した。晩祷をこんな風に信者が皆揃ってわくわくと始めることにも驚き、18世紀以前のロシアの古い旋律(ズナメニー旋律)が西洋の和声に全く違和感なく「なじみ深い」音楽として融合されていることに感心した。これがセルゲイ神父の作品であることを知ったのはずっと後になってからである。
セルゲイ神父の聖歌は、経過音を巧みに使った手法や、言葉のアクセントに矛盾しないリズム感、詞の抑揚をとらえた旋律の動きなど、音楽的な特徴もさることながら、歌っている人を楽しくさせる不思議な魅力がある。前述の第103聖詠の繰り返し部分は覚えやすく、自然に会衆唱になっていく。それ程、一緒に歌いたくなる魅力があるのである。
またこのCDには録音されていないが、第112聖詠(The Righteous shall be in everlasting remembrance火曜日と授洗イオアン祭日の領聖詞)も好例である。日曜学校の指導をしているとき、特に子供達がこの聖歌を大好きなのに気付き、聖詠の句の部分を小学校高学年、中学生の子供たちが唱え、繰り返し部分を幼稚園、小学校低学年の子供たちが歌うという形を教会で紹介した。最初の何回かの繰り返しは小さな子供達が各々好きな声で思いっきり歌うので、参祷している大人の信者は微笑ましく子供達の歌声に聴き入っているが、いつのまにか大人の信者も加わって全員が歌う。それを聞いた子供達はさらに輝いた目で歌い、聖詠の句を読む子供たちも力が入る。200人近い参祷者が一緒になってこの聖歌の繰返しの部分を歌う時、教会は祈りの響きでいっぱいに満たされる。そしてその後皆が一緒にご聖体を頂く。この曲は簡単なメロディやハーモニーからなり、歌詞は矛盾なく英語の抑揚やアクセントに合っている。第112聖詠の詞の意味、この曲の持つ天に向かって開かれた明るさが、老若男女を問わず正教の祈りを一つにする。セルゲイ神父の聖歌の魅力はここにあると思う。
3. 歌指揮者の注意すること
セルゲイ神父は「地方の聖歌隊が何回も何回も練習しなければ歌えないような聖歌は避けましょう」と、私達学生が持ち寄った個性の強い曲を婉曲に諭し、この部分を生かしてこうすれば、と導いてくれた。これは聖歌隊の指揮を務める者にも当てはまるだろう。祈祷の意味や聖歌の歌詞の意味、特定の聖歌が歌われるその機能や役割を理解せず、曲の芸術性、華やかさで聖歌を選曲する教会指揮者は少なくない。それが先行するばかりに、その教会の聖歌隊の特色は全く生かされないことは往々にしてある。
たとえば女声の多い聖歌隊にバスやテノールが音楽的に重要な役割を担う19世紀末の聖歌は不向きである。またチャイコフスキーによる教会音楽のように、教会の祈祷で歌われることを目的として作曲されたものでないにも拘わらず、プロ級のソプラノやテノールを有する聖歌隊の指揮者はそのような曲を祈祷に使いたがることも少なくない。聖歌隊の指揮者は練習を重ねなければ歌えないような聖歌でなく、その教会と聖歌隊の持つ特徴をよく理解し、皆が声を合わせて祈れるような聖歌を選ぶべきであると思う。その中でその教会の響き、その地方教会の祈りの響きが生まれてくるのではないか。それは聖歌の順番を換えることでも、詞を勝手に操作することでもない。聖歌の指揮者は聖歌隊が華やかで技術的に難しい聖歌を歌うための合唱団ではなく、正教会信者の集まりであることを忘れてはならない。信者が聖体礼儀をよく理解し、領聖の準備をし、一緒に祈祷に臨む時、たとえその聖歌が音楽的に華やかでなくとも素晴らしく芸術的にも高尚に聴こえる。そんな時、「音楽は神様からの贈り物であり、私達から神様への贈り物でもある」というアレキサンダー・シュメーマン神父の言葉を思い起こす。
アメリカ正教会では、5月末の戦没者の慰霊をする国民の祝日「メモリアル・デー」に、ペンシルベニア州の山中にある聖ティーコン修道院・神学校で府主教はじめ全ての主教、何百人という司祭、信者が集まって聖体礼儀を行なう伝統がある。今年はその週末には1,500人以上の信者の集まる一大イベントとなり、その聖体礼儀でセルゲイ神父は総勢200人近くの寄せ集めの聖歌隊を指揮した。これは神父の聖歌指導者としての最後の聖歌指揮を記念するものでもあった。全国から希望者が集まり、各地のリーダーの下で1回くらいは練習をしたが、多くはその日曜日の朝初めて一緒に歌う信者ばかりであった。大きな敷地の半分も埋めるように広がった聖歌隊を前に、78才の小柄なセルゲイ神父は終始きらきら輝く目で、全身が喜びに満ち溢れるように指揮をした。セルゲイ神父の顔は正にイコンそのものであった。
セルゲイ神父は80年代90年代アメリカ聖歌の発展の指導的立場にあった。引退後もPSALMなどの活動を通じて後身の育成にあたる。