<The Orthodox Church Music、OCA から引用>
アメリカのロシア系教会では四声の聖歌隊が一般的。その指揮者に必要な知識や技術のアドバイス
聖歌指揮者へ
−聖歌指揮者の知っておくべきこと−
デイヴィッド・ドゥリロックとヘレン B エリクソン <両氏ともウラディミル神学校の聖歌教授>
「二人として同じ指揮者はいない」などと言いますが、これは真でも偽でもあります。これを楯にして学生たちが「指揮なんて所詮個人的で主観的なものさ」と、勉強したり学んだりすることはないと思いこんでしまうことがあります。しかし本当は基礎を完全にマスターし、しっかりした技術の基本があって、初めて個性あるスタイルが展開できるのです。もちろん、特定の合唱グループで簡単な曲を十分時間をかけて何度も練習すれば、コーラスをひとつにまとめることができますし、指揮者の振りが見たことのない風変わりな癖のあるジェスチャーでも、成功裏に演奏することができるかもしれません。しかし、経験不足指揮者が他のグループを指揮するとき、リハーサルの時間がたっぷり取れない時、複雑な形式の音楽を演奏しようとするとき、また重要なことですが、メンバーの音楽的な能力を十分に伸ばそうと思うなら、おのずとスタンダードな指揮法のパターンや手続きが必要になります。スタンダードとは長年にわたって用いられ磨き上げられてきたものです。基本なしに「個人的」スタイルを加味しても、意味もない手の振り回しになるだけです。
指揮者は適切な音楽的準備をしなければなりません。教会の歌い手はいい意味でアマチュアですが、だからこそ指揮者に専門的な訓練が必要なのです。知らないことは教えられません。指導するときは、聖歌隊の大半は訓練を受けたことのない歌い手ですが、彼らを伸ばすように、上手に刺激をあたえねばなりません。時として、素人の指揮者でも聖神とその個性と、それから自身の声頼みで引っ張っていくこともできますが、知識と技術がない場合、得られる結果、学習、成長、発展はごく僅かです。遅かれ早かれ指揮者の限界は見えてしまいます。そうなってしまうと、指揮者の能力を認めていなくても大目に見るか、辞めてもらうかどちらかの状況が起こりますです。
では、聖歌指揮者に必要な音楽的素養とは何でしょうか。まず、楽譜を読むこと、音楽理論、和声、それにピアノがいくらか弾けることが最低限必要です。よく訓練された耳も必要です。「間違った」音を見つけるだけではなく、音が正しく歌われているかどうかを聞き分ける能力も必要です。正教会の聖歌には伴奏がありませんから、よい耳を持たない聖歌隊指揮者はとても不利です。ですから、一日20分でもいいですから、耳の訓練を続けましょう。日頃の練習としては、一度ずつ上がる音階を歌う、それから、その音階上の色々な音程をとってみます。やり方は同じで、まず歌って、それからピアノか他の楽器でチェックします。次に今度練習する聖歌の音とりをします。耳の訓練に加えて譜を読む練習をします。各パートの一節でもいいですから、選んで歌ってみます。音楽的能力をつけるために一般音楽の練習テキストを買ってみるのもいいでしょう。
聖歌指揮者はフルスコアが読めなくてはなりません。つまり、どの曲でもすべてのパート(ソプラノ、アルト、テナー、バス)をフォローする必要があります。教会の聖歌譜はオーケストラのフルスコアに比べればずっと簡単ですが、残念なことに四声の譜面の読めない人がたくさんいます。曲を正しく演奏しようと思うのなら、指揮者はすべてのパートを全部知らねばなりません。知りもしない曲をどうやって教えたり指揮したりするのでしょうか。同じくらい重要なのは、歌の途中ではずれてしまったとき、指揮者が自分の声を使って修正する能力です。歌の途中で変になるのは、嬉しくないことですが、頻繁に起こります。地方教会でひとつの聖歌隊が1年中の祭日や斎の歌を全部歌わなければならない場合によくあることです。指揮者がどこのパートでも歌うことができるかどうかで、その歌を維持することができるか、立ち往生してしまうか、結果が違ってきます。
指導は指揮者の一番大切な仕事の一つです。ピアノが弾ける方がいいでしょう。アマチュア合唱団の場合、ピアノは練習の大きな助けになります。指揮者が自分でピアノを弾ければ、いちいち伴奏者を頼まなくても、テンポや曲のスタイルを教えることができます。同じ理由ですが、指揮者は適切な指示をあたえることのできる声がなくてはなりません。プロの歌手のようである必要はありませんが、教えようとするものを適切に歌ってみせることができなければなりません。彼は聖歌隊員の立場に立って、彼等の持つ疑問点、たとえばブレスbreath
control、音色tonal production、発声tonal production、正しい発音proper
pronunciationなどをよくわかるように教えなければなりません。ピアノ譜が読めなかったり、発声の訓練が不十分だと、音楽の指導者としての義務を果たすのに大きな障害になります。
聖歌指揮者はその聖歌隊の音楽的な成長に対して責任があり、歌い手の音楽的理解を高めるために様々な 努力が必要です。例えば、リズムトレーニングのゲーム(エコー打ちなど)、ウオーミングアップとしてハーモニーをとる練習、初歩的な初見のテクニックなどをやってみるのもいいでしょう。練習のための本はたくさんでています。学校や大学で音楽指導者のための講座や、短期講習会などがあります。音楽指導者ジャーナルの広告や、あるいは大学や音楽学校に直接手紙を書いて尋ねてもいいですね。
初見は、聞き覚えで歌える曲よりもっと難しいを歌いたいと思うようになったときに必要になります。アメリカの学校教育では移動ドでドレミファソラシドの8音の長音階を使って譜を読むことを教わります。ロシアの音楽教育では固定ドを用いてきました。つまりドはCの音、レはD、ミはEです。どちらも一長一短で、音楽教育の専門家の間でも意見の分かれるところですが、教会のアマチュア聖歌隊の練習には移動ドで初見の練習をする方がよいようです。この分野の練習には「コダーイのメソッド」やほかの音楽学校や大学で使われているコースが利用できます。
今日の聖歌指揮者は、上記のような技術を全部ではないにしても、だいたい持ち合わせています。マジメに指揮者を目指すなら、こういった技術の必要なことに異論はないでしょう。
聖歌の指導者としてそれ以上に重要なのは、精神的な準備です。教える者としての能力は、司祭の働きと多くの点で関わりがあります。教会法では教会聖歌の責任者を、神に祈りを捧げるために「叙聖された者」「特別な人」とほとんど同様に扱います。
つまり、指揮者は歌い手に適切な音楽的指示を与えるだけでなく、神学的な教え、深い精神性、奉神礼としての重要性などについて、歌の内容を歌い手に説明できなければなりません。聖歌指揮者がこの点を理解していないと、奉神礼に用いるのにどんな音楽がふさわしいかを議論しても話になりません。1905年のロシアの公会議で、地方の主教たちが教会の再編のために次のような指摘をしましたが、これは聖歌指揮者の精神性の不足を物語っています。
聖歌が「神の祈り」であることに注意を払い、司祭や聖歌指揮者は正教精神にかなった歌だけを用いることを義務としなければならない。昨今は、全く気まぐれで無秩序な選曲が行われ、けばけばしいもの、イタリア歌謡のように大仰に鳴り響き、歌い上げるものが選曲されている。神の宮はミュージックホールとなり、宗教的な祈りに満ちていた大気は、芸術を審美するコンクールになってしまった。
訳注:18世紀、19世紀、ロシアでは宮廷と貴族社会を中心に、西洋音楽の手法を取り入れた華やかな合唱聖歌を導入した。サルティ、ガルッピといったイタリア人作曲家が招かれ、ボルトニヤンスキーはイタリアに留学した。本来領聖詞を歌うように指定されていた領聖を待つ時間は、、合唱コンチェルトの新作発表会の場となり、作曲家と歌手がワザを競い合った。その後、各所で正教会本来の信仰と伝統の見直しの機運がおこったが、革命で中断された。
同じ指摘は今日でもあてはまるでしょう。聖歌指導者に必要なのは、技術的な知識だけでなく精神的な成長であることが理解されれば、この問題の解決が見えてくるでしょう。
まず、司祭がその司牧されるものの手本であるように、聖歌指揮者も歌い手の手本とならねばなりません。正教会の教会法はこの点で大変厳しく、教会の一員として求められる生活上のきまりをしっかり守るように教えています。「斎の規則を守ろうとしない聖歌指導者は親与を断たれる(教会の交わりからはずされる)。賭け事や飲酒にふける聖歌者や誦経者は役割を取り上げられるか、親与を断たれる。聖歌隊員が秩序を乱す大声を上げるときは資格を剥奪し、聖歌を歌うことを禁ずる」としています。教会では聖歌に携わるものは叙聖され教役者と同じように位置づけされており、一般信徒よりも厳しい生活態度が要求されました。聖歌指揮者は教会の中でも外でもキリスト教徒として模範となるような生活態度が望まれ、祈りと礼拝の中で信徒を導くために、教会が選び、指名した「特別の人」とされてきました。聖歌指揮者は、音楽評論家によってではなく、最後の審判の時、神の御前で神によって裁かれるのです。畏れをもって心して受けとめなければなりません。
新神学者シメオンは、これを要約して次のように述べています。
「あなたがカノナルク(聖歌者)として働くように頼まれたなら、不注意だったり、怠惰だったりすることなく、注意深くしなければなりません。あなたは万物の王、ハリストスの御前で、『神のことば』をあなたの声と手を用いて、兄弟たちに運ぶのです。聖歌指揮者としての立場を理解し、可能な限りの精神的修養を自分に課し、目覚め、神を恐れ、信仰を持ち、謙遜であらねばなりません。そして、歌う内容についてだけではなく、何のために神に仕える聖歌者として選ばれたかを知らねばなりません。」