4.聖大木曜日

<早 課>

始まりは通常と同じ アリルイヤ 8調 とトロパリ(3回)

「光明の門徒が晩餐の濯に照されし時、悪心のイウダは貪の疾に昧まされて、爾義なる審判者を不法の審判者に売り付す。財に耽る者よ、此が為に縊れし者を觀よ、あき足らぬ霊、夫子に斯ることを為すを恐れざりし者を避けよ。衆人を慈む、主よ、光栄は爾に帰す」

カフィズマなし。トロパリが終わると王門開く。輔祭「我等に聖福音経を聴くを賜ふを主神に祈らん」、福音読み(ルカ伝108端の途中22:1-39)「 ……其の門徒も彼に従へり」まで。誦経50聖詠、「主や爾の民を救い」はなし。

ただちにカノン6調、「紅の海は截り分かれ、涛充てる淵は涸らされ」附唱「我等の神や、光栄は爾に帰す、光栄は爾に帰す」をつけて讃詞3つ歌った後、再びイルモスをくり返す。 第3歌頌の後、(カタワシヤはイルモスと同じ)小連祷とセダレン(1調) セダレン「池と河と海を造りし者は」(1調 「光栄は」「爾は慈憐に因りて謙りて、己の門徒の足を濯ひて」(3調) 「今も、アミン」「主よ、爾は己の門徒と偕に食ひて奥密に爾の至聖なる」(4調) 第6歌頌のあと小連祷とコンダク2調

「主を売る者は手に餅を受けて、潛に其手を伸べ、己の手にて人を造りし者の價を受く、而して奴隷及び詭る者たるイウダは悛まらざりき。」
イコスも歌う。「ヘルビムより尊く」なし。第9歌頌のあと、小連祷と、 エクサポスティラリ

「我が救世主よ、我爾の飾りたる宮を見れども、之に入らん為に衣を有たず。光を施す者よ、我が霊の衣を照して、我を救ひ給へ」

讃揚スティヒラ4。「光栄、今も、アミン」スティヒラ2調 誦経「光栄は爾、我等に光を顕わしし主に帰す」平日の詠頌(至高き)を読む。増連祷。挿句のスティヒラ。誦経「至上者よ、主を讃栄し爾の名に歌ひ」、「聖三」〜「天主」、トロパリ「光明の門徒が晩餐の濯に」、重連祷、高声のあと「睿智」「福を降せ」「永在の主」 「アミン、神や国の天皇と ……」続いて1時課 <1時課> (「光栄は」)一時課のトロパリ「光明の門徒」「今も アミン」のあと一時課の生神女讃詞「嗚呼恩寵に満たさるる ……」。預言のトロパリ(3調)「人類の為に頬を批たれて怒らざりし主よ…」「光栄は、今も、アミン」繰り返す。第1のポロキメン1調「願はくは諸民は爾獨主と稱へらるるを知らん」句「神よ、黙す毋れ、言を出さざる毋れ」預言書の読み(エレミヤ11:18〜2512:1〜5 9〜11,14,15)。第2のポロキメン8調「主爾等の~に誓を作して償へよ」句「~はイウデヤに知られ、其名はイズライリに大なり」このポロキメンは読みのあとただちに行なう。「我が足を爾の言に固め」、
「主よ、願はくは我が口は」(歌わない)、
「聖三」〜「天主」のあと、三歌斎経のコンダク2調「主を売る者は、手に」、以下同じ 発放詞「至大なる仁慈に因りて門徒の足を濯う時、謙遜の最も全き路を示し、及び我等に降りて、十字架と葬りとを受くるに至り給いしハリストス我等の真の神は、其の至浄なる母、諸聖人の祈祷に因りて、我等を憐れみ救はん、彼は善にして人を愛する主なればなり」ハリストス我等の真の神は、其の至浄なる母、諸聖人の祈祷に因りて、我等を憐れみ救はん、彼は善にして人を愛する主なればなり」(堂の聖人、その日の聖人の名をあげない)

※注: 聖受難週、光明週間(フォマの主日まで)は死者の記憶は行なわない、 (前院での死者の安息のリティヤはフォマの週間に至るまで行なわない)ティピコン聖大木曜日1項参照
<時課と聖体礼儀>

三、六、九時課は通常通り。カフィズマなし。入堂式(聖体礼儀前の)は時課の始まる前に教役者が行なう。奉献礼儀は「主は爾に呼ぶ」の間に行なう。プロスフォラがたくさんある場合は時課の間に始めてもよい。時課の間に始めて、「主や爾に呼ぶ」を歌う間に終わり、「主や爾に呼ぶ」の決められた時間内に禅堂炉儀を完了できるようにする。 時課のトロパリ「光明の門徒」、時課のコンダク「主を売る者は」 ティピカは通常の歌なしで速く行なうように示されている。「天主」のあとコンダク「主を売る者は」「主憐れめよ(40回)」、「至聖なる三者、一性の」発放詞「ハリストス我等の真の神は、其の至浄なる母、諸聖人の祈祷に因りて、我等を憐れみ救はん、彼は善にして人を愛する主なればなり」。 聖大ワシリーの聖体礼儀は晩課から始まる。始まりの高声「父と子と聖神の国は」を、常例のように福音経を持って宝座で言う。カーテンのみ開ける。王門は閉じたまま。誦経「アミン」「我等の神よ、光栄は」「天の王」「聖三」〜「天主」、「アミン」「光栄、今も、アミン」「来れ」103聖詠、カフィズマなし、続いて王門の前で大連祷(大斎調のメロディで) 「主や爾に呼ぶ2調 歌う。10スティヒラ(5スティヒラしかないので各2回ずつ) 「光栄,今も、アミン」6調「イウダは実に蝮の類の裔」、聖福音経を持ち聖入(「光栄」で王門を開く)「聖にして福たる」、「睿智、粛みて立て」、「衆人に平安」、「爾の神にも」、「睿智、謹みて聴くべし」、誦経者「ポロキメン、第1の調」「主よ、我を悪人の手より救い、我を強暴者より護り給へ」句「彼等心に悪を謀り、毎日戦いを備ふ」、ポロキメンの終わりに王門を閉じる。司(輔)祭「謹みて聴くべし」、誦「主はモイセイに」(出エジプト19:10〜19)
※注 誦経者はポロキメン、読み(パレミヤ)は堂、中央で読む。アナロイを用いてもよい。司祭は至聖所の高所に立つ(使徒経の時と同じ)。司祭は高所で着席。使徒経も同様に行う。読みが続く場合は、第1のパレミヤの読みの最後の音は、第2のパレミヤの最初の音よりも低めに終わる。最後のパレミヤは、いつもの聖体礼儀で使徒経を読むのと同じ方法で。
司祭「睿智」、誦経者「ポロキメン、第七の調べ」、「我が神よ、我を我が敵より援け、我を攻むる者より護り給へ」句「我を不法を行ふ者より援け給へ」司(輔)祭 「睿智」、誦経「イオフ書の読み」「主は大風と雲との中よりイオフに謂へり(38:1-23、42:1-5)」、司祭「睿智」誦経「イサイヤの預言書の読み」司祭「謹みて聴くべし」誦経「主~は我に智者の舌を予へたり」 パリミヤの終わりに王門を開く。小連祷、高声「蓋、我が神よ、爾は聖なり…」、聖三〜天主。

「謹みて聴くべし」「衆人に平安」「爾の~°にも」「睿智」「ポロキメン第七の調」「諸侯相議りて主を攻め、其膏つけられし者を攻む」句「諸民何為れぞ騒ぎ、諸族何為れぞ徒に謀る」、「睿智」、「聖使徒パウェルがコリンフ人に達する書の読み」、「謹みて聴くべし」「兄弟よ。我が爾等に伝へし事は…」「(コリンフ前149端11:23〜32)、「アリルイヤ」読みの終わりに、司「爾に平安」、誦「爾の神にも」、司「睿智」、誦経「アリルイヤ、アリルイヤ、アリルイヤ、貧しき者乏しき者を顧みる人はbネり、患難の日に主は彼を救はん(6調)」聖歌隊「アリルイヤ、アリルイヤ、アリルイヤ」(6調)句「我の敵は我が事を悪言して曰ふ、彼は何の時に死して、其名滅びん」、聖歌隊「アリルイヤ、アリルイヤ、アリルイヤ」句「我が餅を食ひし者も亦我に向ひて其踵を挙げたり」、聖歌隊「アリルイヤ、アリルイヤ、アリルイヤ」 福音の読みはマトフェイ伝(107端)だが、以下のように合成された端。マトフェイ26:2〜20、イオアン13:3〜17、マトフェイ26:21〜39、ルカ22:43〜45、マトフェイ26:40〜27:2、「主は其の門徒に謂へり ……」

以下聖大ワシリーの聖体礼儀、変更は以下の通り。

ヘルビムの歌の代わりに次の歌を、通常晩課で歌われる6調でゆっくり歌う。 「神の子よ、今我を爾が機密の筵に與る者として容れ給へ。蓋我爾の仇に機密を告げざらん、又爾にイウダの如き接吻を為さざらん、乃盗賊の如く爾を承け認めて曰ふ、主よ、爾の國に於て我を記念せよ。」 「神の子よ」は大聖入の行進の前に2回歌い、ポティールとディスコスが宝座に置かれる時、3度めを歌い、終わりにアリルイヤ、アリルイヤ、アリルイヤをつける 常に福の代わりに早課カノン第9歌頌を歌う。

「信者よ、来たりて、高きを仰ぐ智慧を以て、高き處に設けられたる主宰のもてなしと不死の宴とを楽しみ、我が讃め揚ぐる言に教へられて、来たりし言を悟らん。」

キノニクの代わりに「神の子よ」と「アリルイヤ」(「神の子よ」を信徒の領聖中、何度も歌う。最後にアリルイヤ、アリルイヤ、アリルイヤを歌う)

「主よ、願わくは我が口は讃美に満てられて」の代わりに「神の子よ」と「アリルイヤ、アリルイヤ、アリルイヤ」を歌う、 発放詞 「至大なる仁慈に因りて門徒の足を濯う時、謙遜の最も全き路を示し、及び我等に降りて、十字架と葬りとを受くるに至り給いしハリストス我等の真の神は、其の至浄なる母、諸聖人の祈祷に因りて、我等を憐れみ救はん、彼は善にして人を愛する主なればなり」 晩堂小課ではクリトの聖アンドレイ作の第5、第8、第9歌頌を8調で歌う(三歌斎経参照)