祭服十一、肩衣(オモフォル)

斯くの如く爾の光りは人々の前に照るべし、彼等が爾の善き行いを見て、天にいます我等の父を讃栄せん為なり、今もいつも世々に、アミン。 爾の光よろしく衆人の前に輝き、爾の善行を見て、爾が天にいます父に光栄を現さんが為なり、今も何時も世々に、アミン。
(肩衣【オモフォル】着用後、主教品の完装終了の後に唱えられる祝文)

教会の神品職(イエラルヒヤ)は、長い歴史の中で必然的に形成されていったものである。それが人工的・意図的なものではなかったことは、新約聖書を読めばすぐに分かる事である。とりわけ主教品の選立と生涯には、人の判断では計り知れない神の摂理が働いている事をしばしば感じさせる。主教品がまとう祭服は、そこに降り注ぐ神の照管を目に見える形で現しているのである。

肩衣(オモフォル)は、主教品のみが身に着ける、幅の広い、長い帯状の形態を持った祭服である。形態的にはオラリと大変よく似ているが、その信仰的意味は全く異なったものである。肩衣以外の主教品が直接身につける祭服は、同じく機密執行の恩寵を与えられた司祭品のものと重複するものが多い。多少形態が異なっても信仰的意義は共通である。だが、肩衣のみは主教品以外の聖務者が身に着ける事はけしてない。肩衣は主教品の職掌をもっとも顕著に現すものであり、他の祭服にはない多くの意味を含んでいる。事実、主教品はどの公祈祷においても肩衣なくしてたずさわることはない。特に聖体礼儀や神品機密等で主教品の権能が顕れる時、肩衣は顕著な形で用いられるようになる。

肩衣こそ、主教品が聖使徒の継承者であり教会を背負う立場にあることを目に見える形で表した祭服なのである。歴史的に見ても、肩衣は祭服の中で最も古いもののひとつといわれる。肩衣を身に着けた主教品は、羊飼いが羊を肩に背負った姿を現していると言われる。そのため、古い肩衣には羊毛を植え込んで織った物もあった。これは自らを「善き羊飼い」(イオ十:一-二十一)と喩えたイイスス・ハリストスの姿を象るものであり、主教品が神の牧群である教会を背負う者である事を意味する。牧者がいない羊の群れが散り散りになって失われてしまうように、主教品がいない教会もけして存在し得ないのである。聖体礼儀において、主教品は特に主イイスス・ハリストスを象る時にこの肩衣を身に着ける。

主教品が教会においてイイスス・ハリストスを現しているというのは、たんなる象り以上の意味を持っている。それは、主が信者のために神・父に祈りを献じたように(イオ17章)、主教品も自らの祈りと生涯を神に捧げる者である。聖像画の中には主教品と同じ祭服姿の救世主がしばしば描かれるが、これは神・父に対する従順さと言う点において、救世主と主教品がひとつである事を示しているからなのである。直、現在の肩衣には長い物と祈祷中の脱着に便利な短い物の二種類があるが、信仰的意義は全く同じである。前者は聖体礼儀の始まりの完装時に装着され、使徒経の読みの前にはずされる。信者の聖体礼儀において数度にわたって肩衣の脱着があるため、より実用的な短いものを用いるためである。