府主教 カリストス・ウェア(翻訳 松島雄一)

「すべての者の救い」に望みをかけるべきか

        ――オリゲネス、ニッサの聖グレゴリオス、シリアの聖イサアクはどう考えたか

  神は悪に報復するお方ではない。しかし、悪を正すお方である。 シリアの聖イサアク

「愛はそれに耐えられない」

 人が、さしあたって今知っている知識によっては、答えられない難問がいくつかあります。答えようがないにせよ、問いかけずにはいられない、そんな問いです。死後の世界に思いを馳せて、人は問います。「肉体を失って、魂はどのように存在できるのか」「死と復活の間の、肉体を離れた魂はどんな性質を持つのか」。「今のこの『からだ』と、来るべき時に義人たちが受ける『霊のからだ』(コリンフ前書15・44)は正確にはどんな関係にあるのか」。そして最後になりますが、決して最小とはいえない問いがあります。「すべての者の救いに望みをかけるべきか」。私がここで集中的に論じたいのは、この最後の問いです。答えられないにせよ、答えられるにせよ、これは、神のこの世に対する関係への理解全体に決定的な影響を持つ問いかけです。神の救いの歴史の最後の最後にはいっさいを包含する和解があるのでしょうか。創造されたものはみな最後には、至聖三者の相互内在性の内に、父と子と聖神の間を永遠に行き交う互いの愛の運動の内に、場所を得られるのでしょうか。

 罪は「逃れ得ぬもの」、しかし
 人はすべてやがてよし
 あらゆるもの、またすべてやがてよし(岩崎宗治訳)

 T.S.エリオットはその「四つの四重奏」の最後で、ノーリッチのジュリアンのこの自信に満ちた断言に賛意を表しました。しかしそう言い切る権利が人にはあるのでしょうか。
 問題をもう少し明確にするためにまず、二十世紀のロシア正教会の一人の修道士の言葉を、次に創世記冒頭の章を取り上げましょう。アトスのシルワン長老の弟子、ソフロニイ掌院が記録した一つの対話が、問題を混乱させている二律背反を要約しています。
 
 「シルワン長老はとりわけ、神から引き離された地獄で、苦しむ死者たちのために祈った。長老にとっては、「外の暗闇」で誰かが歯がみしているなどと考えるのは耐えがたいことだった。長老と一人の隠修士の会話を憶えている。この隠修士は「神はすべての無神論者たちを罰するでしょう。彼らは永遠の炎に焼かれるのです」と満足を隠すことなく言った。
 長老は明らかに当惑して「教えてください。パラダイスに行ったあなたが、そこで見下ろしてみると、誰かが地獄の炎で焼かれている、それを見て、幸せですか」と訊ねました。
 隠修士は答えました。「救いようがないでしょう。彼ら自身が過ちをおかしたからですよ」。
 シルワン長老は悲しげに言った。「愛は決してそれに耐えられません。すべてのもののために祈らなければなりません」。

 ここには最も基本的な問題が正確に提起されています。聖シルワンは神の憐れみに訴えます。「愛は決してそれに耐えられません」。隠修士は人間の責任を強調します。「彼ら自身が過ちを犯したからです」。ここで人は明らかに衝突する二つの原理に直面します。第一は「神は愛である」。第二は「人間は自由である」。

 この二つの原理にどのようにバランスを与えたらよいのでしょうか。第一は、「神は愛である」。そして神のこの愛は惜しみなく、汲み尽くし得ず、限りなく耐え忍び、ご自身の創造した理性的存在者を永遠に愛し続けずにはおられません。彼らの内の最後の者が、おそらく無数の時を経て、彼らの自由意志で進んでご自身に立ち帰る日まで、神は憐れみに満ちた眼差しで彼らを見守り続けるでしょう。しかし、それならば第二の原理「人間は自由である」はどうなってしまうでしょう。神の愛の勝利が必然的なら、「選択の自由」が存在する余地はどこにあるでしょうか。最後の土壇場ではもう選択肢がないなら、人はほんとうに自由であり得るのでしょうか。

 問題を少し言い換えてみましょう。聖書の第一ページに「神はその造ったものの全てを見た。見よ、それはまったく善く、美しかった」(創世記1・31 七十人訳ギリシャ語聖書)。すなわち創世の時にはすべては一致していました。被造物は全て創造者の善と真実と美を完全に分かち合っていました。それに対し、最後の時には一致ではなく分裂があると言うべきなのでしょうか。善と悪、天国と地獄、喜びと苦しみの対立が永遠に解決されることなく、存在し続けなければならないのでしょうか。もし、神は世界を完全な善として創造したことを認めた上で、神の創造した理性的存在者の相当な部分が、最後には神から永遠に引き離された容赦ない苦痛に身もだえしなければならないと主張するなら、これは、神はその創造のわざにおいて失敗し、悪の諸力には敗北したことになりはしないでしょうか。そんな結論に納得して、事足れりとしてよいのでしょうか。もしくは、この分裂の彼方に、一致が究極的に回復して「あらゆるもの、またすべてよし」となることを期待すべきなのでしょうか。

 C.S.ルイスはこの「すべての者の救済」の可能性を否定して、こう言います。「…ある者は救われないということになるのです。わたしはできるなら、このような考えをキリスト教から取り除きたいと思います。しかし、聖書は全面的にこの説を支持していますし、特に主イエスご自身のみ言葉がこれを裏書きしています。キリスト教はこれまで常にそう唱えてきましたし、理性もこれを裏書きしています」。ルイスは正しいのでしょうか。「すべての者の救済」論はそれほどまでに露骨に聖書、伝統、理性にそぐわないのでしょうか。

聖書の二本のより糸

 私たちは新約聖書の中に、地獄での終わりなき責め苦の可能性を明確に警告するテクストをたいした苦労なく探し出せます。イイスス自身の口から出た三つの例を取り上げてみましょう。
 マルコ伝九章四三節、四七〜四八節。「もし、あなたの片手が罪を犯させるなら、それを切り捨てなさい。両手がそろったままで地獄の消えない火の中に落ち込むよりは、片手になって命に入る方がよい。…もし、あなたの片目が罪を犯させるなら、それを抜き出しなさい。両眼がそろったままで地獄に投げ入れられるよりは、片目になって神の国に入る方がよい。地獄では、うじがつきず、火も消えることがない」(マトフェイ18・8-9、イザヤ66・24参照)。
 マトフェイ伝二五章四一節(羊と山羊の物語から)。「それから、左にいる人々にも言うであろう、『のろわれた者どもよ、わたしを離れて、悪魔とその使たちとのために用意されている永遠の火にはいってしまえ』」。
 ルカ伝一六章二六節(地獄にいる金持ちへのアブラハムの言葉)「そればかりか、わたしたちとあなたがたとの間には大きな淵がおいてあって、こちらからあなたがたの方へ渡ろうと思ってもできないし、そちらからわたしたちの方へ越えて来ることもできない」。

 暗喩や象徴を用いずに死後のことについて語るのは、不可能ではなくても、たいへん難しいことです。これらの三つの節が暗喩的な絵画的表現を用いているのは驚くにあたりません。ここでは「火」、「うじ」、「大きな淵」という語が用いられています。この暗喩はもちろん文字通りには受けとめられません。しかし、それらの語にはそれぞれに取り除けない含みがあります。「火」は「消えない」「永遠」のものと言われます。「うじ」は「つきず」、「淵」は渡ってゆけません。もし、「永遠に」がじっさいには「いつまでも」ということ以上の何も意味しないなら――すなわちこの今の「時」においていつまでもということであり、必ずしも「来たるべき世」まで続く必要がないなら――、またもし「淵」がたんに一時的に渡れないに過ぎないなら、新約聖書のこれらのテクストはなぜそれを明確に語っていないのでしょう。

 しかしそれでも、これらの、また他の「地獄の火」についてのテクストは、別のテクスト、むしろ「すべての者の救い」に指向されている、新約聖書ではあまり頻繁には現れない異なったテクストの光のもとで解釈されることが必要です。
 一方で罪の普遍性を、その一方で救いの普遍性を述べ、その平行関係を認めるパウェルの一連のテクストがあります。もっとも明白なのはコリンフ前書十五章二二節です。そこでパウェルは第一のアダムと第二のアダムの類比を試みています。「アダムにあってすべての人が死んでいるのと同じように、ハリストスにあってすべての人が生かされるのである」。確かに、「すべての」という語は、このテクストの前半、後半の両方で同じ意味で用いられています。ロマ書にも同様の箇所があります。「このようなわけで、ひとりの罪過によってすべての人が罪に定められたように、ひとりの義なる行為によって、いのちを得させる義がすべての人に及ぶのである」(5・18)。「すなわち神はすべての人をあわれむために、すべての人を不従順の中に閉じ込めたのである」(11・32)。パウェルがこれら三つのテクストによって言わんとしたのは、ハリストスはその死と復活によってすべての人にたんに救いの可能性を差し出したということであって、それ以上ではないと論じられるかも知れません。すべての人が救われるであろうとは言われますが、そして救われるにちがいないとは続かないのです。その救いは各人の自由な選択にかかっているからです。すなわち、救いはすべての人に差し出されていますが、必ずしもすべての人がその救いを受け取るとはいえません。しかし実際には、パウェルはたんなる可能性以上のものを暗示しています。彼は自信に満ちて期待します。彼は「すべての人が生かされるかも知れない」と述べているのではなく「すべての人が生かされのである」と述べているのです。このことは、ぎりぎりのところで私たちを「すべての者の救い」へと勇気づけます。C.S.ルイスが、一つの確定的事実として「ある者は救われない」と言い切るなら、パウェルの述べるところに矛盾してしまいます。

 コリンフ前書一五章二八節(オリゲネスが自説の根拠とする箇所でもある)に、同じ自信に溢れた期待をもっとはっきりと聞き取れます。パウェルは言います。ハリストスは支配を続け、やがて「神が万物を彼の足もとにしたがわせ、…万物が神に従うときには、御子自身もまた、万物を従わせたかたに従うであろう。それは、神がすべての者にあって、すべてとなられるためである」。「すべての者にあって、すべて(パンタ エン パシン」という句が示唆しているのが「究極的な分裂」ではなく「究極での和解」であることは明確です。

 「牧会書簡」にもアルミニストとジョン・ウェスレイに影響を与えたテクストがあります。「神は、すべての人が救われて、真理を悟るに至ることを望んでおられる」(ティモフェイ前2・4)。もちろん、この書簡の記者はすべての者の救いの確実性を述べたのではなくたんに、それが神の望むところであると言っているに過ぎないという反論も可能でしょう。しかし、神の意志は最後には満たされないと断定すべきでしょうか。すでに述べたように、すべての者の救いを、少なくとも「望む」ことに、私たちは励まされます。 

 このように、聖書的根拠を求めても一筋縄ではいきません。その複雑さを、まず認めなければなりません。聖書全体が同じ一方向を向いているとは言えないのです。聖書には二つの対照的な「より糸」があります。あるいくつかの章句は私たちの自由に呼びかけます。神は呼びかけますが強制しません。選択の自由があります。神の呼びかけにイエスと応じるべきか、ノーと拒むべきか、選択は自由です。未来のことは定かではありません。私は、私としてどちらの目的地に向かうのでしょう。婚宴には連なれないかもしれません。しかし、聖書には他の章句があって、それらは同じ強さで「神の主権」を主張します。神が最後には打ち負かされるなどということはあり得ません。「すべて、やがてよし」です。そして最後には神は「すべての者にあって、すべて」でしょう。
 一つは私たちひとり一人への「呼びかけ」、一つはゆるぎない「神の主権」、この二つが新約聖書の二つの主要な「より糸」です。どちらのより糸も軽視されてはなりません。

宇宙的医師としての神

 ここで目を聖書から教会の伝統の内に転じてみましょう。
 教会史の中で誰よりも「すべての者の救い」に結びつけられてきた著作家は、アレキサンドリアのオリゲネスです。何世紀もにわたって、たいへん褒めそやされもし、また反対にそれに負けず劣らず、罵倒もされてきた人物です。たとえば彼の同僚であった盲目者ディディモスは、彼を「使徒以来の最も重要な教師」と呼びます。レランの聖ヴィンセンティウスは「他の人たちと共に正しいより、オリゲネスと共に間違っている方を望む」と雄叫びを上げています。これと正反対の見方の衝撃的な、しかし典型的な表現がエジプトの地で共住修道の基礎を打ち立てた聖パコミウスの逸話に出てきます。ある日、パコミウスが彼を訪ねてきた修道士たちと話していると、ひどくいやな匂いがしてきました。なぜかわからず、しばらく当惑していましたが、突然その匂いの理由がわかりました。訪ねてきた修道士たちはオリゲネス主義者だったのです。「見よ。私は神の前にあなたたちに証しして言おう。オリゲネスを読み、そこに書いてあることを受け入れる者は地獄の淵に落ちるであろう。彼らが受けつぐのは、泣きと歯がみのある外の闇だ。持っているオリゲネスの書物をすべて川に投げ捨ててしまいなさい」。悲しいかな、余りにも多くの者がパコミウスの忠告を聞きいれ、彼の書を焚き払い、また破り捨てました。その結果、彼の著作は、主著のほんの一部がオリジナルのギリシャ語ではなくかろうじて翻訳で残っているだけです。これは特に「諸原理について」に当てはまります。この書はオリゲネスが最も系統的かつ詳細に終末についての彼の思想を述べたものです。この書に関しても、私たちはルフィヌスによる必ずしも正確とは言えないラテン語訳に頼らなければなりません。

 その名誉のためにも言っておきましょう。オリゲネスは彼の批判者たちの先鋒であるヒエロニムスとユスティニアヌスには必ずしもうかがえない謙遜さを備えていました。彼は神学上の深遠なテーマについての著作で繰り返し、神の神秘の前に敬虔な驚異の念で頭を垂れています。自分がすべてのことについて答えを持っているとは一瞬たりとも、想像すらしません。この謙遜さはとりわけ彼が終末と未来の希望について語るときに顕著に現れます。「これほど難解な事柄を理解するには…、確実な見解を提示すると言うよりは、論究し、探求するという形で、恐れの念を抱きつつ、注意深く述べるつもりである」。

 それでも、謙遜であろうがなかろうが、オリゲネスは西暦五五三年にユスティニアヌス帝が招集しコンスタンティノープルで開催された第五回全地公会議で異端宣告を受け破門されました。彼に向けられた「一五箇条の破門宣告文」の第一条は「根拠のない『霊魂の先在』と、これによって導かれる奇怪なる『万物復興』を主張する者は誰でも、呪われよ」と宣告しています。これは全く明白に述べられた決定的な断罪です。すべての事物とすべての者の最終的な復興(「アポカタスタシス」)への信仰――悪魔も含まれるすべての者の救済への信仰――は正教会にとって教理についての目に見える最高の権威である全地公会議によって異端として明白に、公式的に排斥されました。

 しかし、「一五箇条の破門宣告文」が第五回全地公会議で実際に公式的に承認されたかどうかには、少なからぬ疑いがあります。これらの箇条は主会議が招集される少し前、五五三年の早い時期に行われた小規模な会議ですでに承認されていた可能性があります。その場合、全地公会決定決定としての完全な権威に欠けることとなります。しかしたとえそうであっても、第五回全地公会議に集まった師父たちはこれらの一五箇条を知悉しており、これを無効にしたり修正したりする意図は持っていませんでした。しかし、それとは別に、第一宣告文の文言それ自体は慎重に吟味されるべきものです。そこでは万物復興についてのみ述べられているのではなく、オリゲネスの神学の二つの側面が結びつけられています。第一は彼の始原論、すなわち「霊魂の先在」と「世界創造に先立つ堕落」です。第二は彼の終末論、すなわち全被造物の救いと最終的和解です。オリゲネスの終末論は彼の始原論から導かれるものと見なされ、ひとまとめに拒絶されたのです。

 したがって「一五箇条の破門宣告文」の第一条でて、彼の始原論と終末論が一つの同じセンテンスの中で断罪されていることは、全く了解可能なことです。オリゲネスは、これらの二つの真理が一つの統合された真実を形成していると考えたからです。彼は次のように信じています。そもそもの始めには、物質的世界の創造に先立って、身体のない「精神」としての「ロギコイ」もしくは「ヌース」(理性的な知性)の領域がありました。本来このロギコイは創造者「ロゴス」との完全な一致のうちにあったのです。その後、「世界創造に先立つ堕落」が起きました。一つの例外(ハリストスの人間的魂となった)を除いて他のすべての「ロギコイ」が「ロゴス」から離れ去り、それぞれの逸脱の重さに応じて、天使や人間や悪霊たちになっていきます。彼らはそれぞれにその堕落の度合いに応じた身体を与えられました。天使たちの場合はきわめて軽く気体のような「身体」、悪霊たちには暗くおぞましい「身体」、人間にはそれらの中間の「身体」です。いっぽう終末には、オリゲネスによれば、この断片化の過程が逆転されます。天使であろうが、人間であろうが、悪魔であろうがすべてが同じように「ロゴス」との一致へと回復されます。全被造物の原初の調和が復興し、再び神は「すべての者にあって、すべて」(コリンフ前書15・28)となります。オリゲネスの見方は、このように循環論的なものです。終末には、すべてが始原の状態に戻ります。

 すでに指摘したように、「一五箇条の破門宣告文」の第一条はオリゲネスの「すべての者の和解(救済)」についての教えばかりではなく、彼の救済史全体への理解にも向けられています。すなわち「霊魂の先在」、「世界創造に先立つ堕落」、「最終的な万物復興」(アポカタスタシス)です。これらは切り離すことのできない一つの世界観と見なされました。しかし仮に、彼の終末論を始原論から切り離してみれば、また永遠のロギコイの領域に関する思弁のすべてを捨ててしまえば、さらに「霊魂の先在」などなく、ひとり一人の人間は、母親の胎内で胎児として孕まれる瞬間ないしはその直後に、魂と身体の統一体として存在しはじめるという標準的なキリスト教の見解に愚直に従えば、どうでしょう。その気になれば、「すべての者の救い」の教えを論理的に確実な主張ではなく(実は、オリゲネスはそんなことはしていません)、心からの願望、夢のような希望として肯定的にとらえることで、前向きに進めてゆくことができないでしょうか。そうすればオリゲネスの循環論を回避でき、反オリゲネス主義者たちの断罪を免れるでしょう。この可能性についてはニッサの聖グレゴリオスについて考察においてあらためて触れます。まずはオリゲネスが最終的な万物復興を主張した理由についてもう少し探ってゆきましょう。

 「すべての者の救い」への信仰は、神の愛の最終的な勝利を不可避なものと考えているので、人間の選択の自由に余地を残せなくなってしまうと、しばしば主張されます。オリゲネスはこの異議申し立てに一貫して敏感に反応しています。神の愛が最後にはすべてを凌駕することへの彼の希望がどれほどゆるぎないものであれ、彼は人間の自由意志のきわめて重大な意義を決して損なわないよう慎重に語りました。「神は愛である」ことを断言する一方で、彼は「人間は自由である」という相対する原理への視点を保ち続けます。かくして、すべてのもののハリストスへの、さらにハリストスの神への服従について(コリンフ前書15・28)語るとき、彼はこう述べます。「この服従は一定の方法と教育と期間を通じて達成される。つまり世全体が神に服従せられるのは、何らかの必然性によってでも、強制によってでもない」。オリゲネスはこのようにまったく明確です。強制も力も決してありません。もし神の愛が最後には勝利するというなら、それは理性的存在者の全てが最後には神の愛を自由にそして喜んで受け入れるということでしょう。オリゲネスの万物復興は、たんに抽象的なある論理体系から演繹されたものではありません。それは希望です。

 ここで、この世の終わりでの最終的和解に関する考察に関してばかりではなく、実際に生きているクリスチャンとしての経験の随所でしばしば感じられるある難しい問題が生じてきます。それは、神の恵み(恩寵)と人間の自由を対峙する二つの原理ととらえ、一方は他の一方を排除すると見なそうとする誘惑です。その結果しばしば、恵みの働きが強ければ強いほど、私たち人間の自由の働く余地は小さく制限されると考えられます。しかしこれは誤って立てられた二律背反ではないでしょうか。A・T・ロビンソンはこう言っています。

 「だれでもこういう瞬間を知っていると思う。愛の圧倒的な力が私たちを強いて、感謝に溢れた応答へと至らせた時だ。その時、私たちはこの奇妙な「強制」が自由を侵害し、人格を蹂躙したと感じるであろうか。人はこのような瞬間にこそ、これまでは未知であったあり方で「自分が自分である」ことを、また他者の愛が彼に強いた「決意」に深く関係する、いのちの溢れと統合を手に入れたと意識するのではないか。もっと言えば、自分に覆いかぶさった強制力がどんなに強くてもこれは真実だ。いやむしろ、こう言おう。その強制力が強ければ強いほど、それはより真実なものだ。ハリストスにおける神の愛の強制のもとで、自己実現の感覚はその頂点に達する。これについては幾世代にもわたる多くの人々が証ししている。ほかでもなくここで、奉仕は完全な自由となる」。

 これは、来るべき世における神の愛の勝利に最も当てはまります。勝利を獲得するのは、愛の慈憐の力です。そしてこの勝利は私たちの自由を支配するのではなく強めるのです。
 オリゲネスの慎重さは特に、悪魔とその手下の悪霊たちの救いに言及する際に明らかです。彼はそれが確実なことではなく可能性であることを非常に明白に語っています。「ヨハネによる福音書注解」では、彼は一つの問いかけを提起しているに過ぎません。「人々が悔い改めを受け入れ、不信仰から信仰へと変わるのであれば、同じようなことを霊たちについて言うのを、どうして躊躇するのでしょう」。「祈りについて」という論文では、神は来るべき時に悪魔に対してある計画を持っているが、今は、それがどのようなものであるのかはわからない、と言うにとどめています。「神は悪魔に対してしかるべくお取りはかられるでしょう。しかし、どのようにかは私は存じません」*20。「諸原理について」では問題は読者の判断に委ねられています。

 「悪魔の支配の下に行動し、その悪に従う階級の中でもある者は、自由意志を有しているものとして、来るべき世々でいつかある時、善へと改心することもありうるのだろうか、それとも持続し根づいてしまった悪は、習慣によって、彼らの本性のように固まってしまったのであろうか。この問題の解答は、読者の判断に任せる」。

 オリゲネスはここで二つの可能性を示唆しています。一方では、依然として悪霊たちは自由意志の力を保持し続けています。他方では、もう悔い改めが不可能となってしまう「帰らざる点」を彼らは超えてしまっています。しかし彼は判断を保留します。どちらの可能性も開かれたまま残ります。

 ここで興味深い疑問が生じます。かつて私は四時間のドライブを要する長旅の始めに、ギリシャ教会の大主教にその疑問を呈したことがあります。長旅の暇つぶしです。「もし悪魔が、…とても孤独で不幸せな奴にちがいありませんが、最後の最後には悔い改めて救われるのなら、僕たちは、奴のためになぜ祈らないのでしょう」。がっかりしたのは(その時、他の話題を何も思いつかなかったもので)、大主教はその問題をあっさり、かつキッパリと片付けてしまいました。「君は、自分のことを考えなさい」。大主教は正しかったのです。私たち人間に関する限り、悪魔は一貫して私たちの敵です。祈るにせよ、ほかの方法をとるにせよ、彼とのどんなやりとりも始めてはなりません。悪魔の救いは私たちには関係ありません。しかし悪魔は、ヨブ記の冒頭に読み取れるように、神とも独自の関係を持っています。サタンは神の御前で他の神の子たちの間に現れます(ヨブ記1・6〜)。しかし、この関係がどんなものなのか私たちには正確には全くわかりません。その詮索は不毛です。それでもなお、悪魔のために祈ることは私たちのつとめではないにせよ、悪魔は神の憐れみの外に置かれていると決めてかかる権利は、私たちにはありません。私たちは知りません。ヴィトゲンシュタインの言葉を借りれば、「語り得ないことについては、沈黙を守らなければならない」のです。

 オリゲネスが「全ての者の救い」を主張する際の最も強力な論点は、罰についての分析です。これまで罰を正当化するために説かれてきた三つの論拠を取り上げ、それに対する彼の見解を要約してみましょう。

 第一が「応報論」です。それは、悪をなした者が彼が行った悪に見合う苦しみを受けるのは当然であると、主張します。そうして始めて正義への求めが満足されます。「目には目を、歯には歯を」(出エジプト21・24)というわけです。しかし「山上の垂訓」でハリストスはこの原則をはっきりと拒否しています(マトフェイ5・38)。もし私たち人間がハリストスを通じて、受けた悪に対する正当な報復を禁じられているなら、そう命じた神を復讐や報復をなさるお方であると見なすことは控えなければなりません。至聖三者が報復をするなどと断じるのは、冒涜的です。どんな場合でも、限りのある大きさの悪行に永遠の罰を科すことで報復するなどということは、正義にかなっていません。

 第二は「抑止論」、悪行の抑止のために罰は必要であるという議論です。地獄の燃えさかる火への恐怖だけが、人間に悪を行うことを制止させる、と主張されます。しかしそれなら、こう問われるかもしれません。効果的な抑止手段として、終わることのない永遠の罰が、なぜ必要なのでしょう。将来の悪人に脅威を与えるためには、非常に引き延ばされてはいても終わりのある、神からの苦しい断絶の期間が課せられることで十分ではないでしょうか。いずれにせよ、特に私たちの時代にあっては、地獄の火による脅しは抑止手段としてほとんど効果がないことは、遺憾ながら明白です。キリスト教の宣教が、もし人々に何か意味のある影響を及ぼそうとするなら、必要なのは否定的ではなく肯定的な戦略です。醜怪な脅しはやめて、むしろ人々の驚きの感覚、そして愛の能力を呼び覚ますことに努めましょう。

 残るのは、矯正力としての罰の理解です。オリゲネスはこれを罰に対する唯一道徳的に受け入れられる見方と見なします。罰がもし道徳的な価値を持つなら、それは単なる報復や抑止力ではなく、治療的なものでなければなりません。両親が子供に、また国家が犯罪者に罰を科すとき、その目的はつねに処罰する相手を癒す、またより良く変えることでなければなりません。オリゲネスによればまさにそれこそが神の科す罰の目的です。神はつねに私たちに対し「我々の医師なる神」としてお働きになります。医師は時としては患者に激しい苦痛を与える極端な処置をとらねばなりません(とりわけ麻酔術がなかった時代には)。傷を焼灼したり、手足を切断する場合もあるでしょう。しかし、これはいつも期待されている肯定的な目的のためになされることです。結果的に患者に治癒と健康の回復をもたらすためです。私たちの魂の医師である神も同じです。神はこの世においても、また死後においても私たちに苦難を与えることがあるでしょう。しかし、それは憐れみ深い慈愛、肯定的な目的から出るものです。私たちの罪を洗い、私たちを浄化し、癒すためです。オリゲネスの言葉によれば「神の復讐の怒りは魂の浄化に役立つ」のです。

 さて、この改善と治療のため――これだけが神の科す罰にふさわしい理解です――という罰への理解をとるなら、その罰は終わりのないものであってはなりません。もし罰の目的が癒しであるなら、癒しが成し遂げられれば、もはや罰を課し続ける必要はありません。しかしながら、もし罰が永遠に続くものであるなら、どんな風にそこに治療的、また教育的な目的を見いだすことができるでしょうか。永遠に続く地獄には逃げ場がなく、したがって癒しもありません。そんな地獄にあって罰を科すことは、無意味な不道徳です。それゆえ、この第三の罰の理解は地獄での永遠の責め苦という概念とは両立しません。むしろ、死後の「煉獄」に似た概念を考慮させます。しかしその場合、この「煉獄」は拷問室ではなく癒しの家として思い描かれなければなりません。病院であって、監獄ではありません。宇宙的医師としての神へのこの基本的な見方こそ、オリゲネスが最も説得的に語るところです。

断罪を免れた「全救済」論者

 すべての者の救済へのオリゲネスの渇望は、彼の同時代からすでに疑惑の目で見られていました。それでも彼の霊的な子孫たちにはこの普遍的な希望を保ち続けた人たちがいます。その特筆すべき二人の例が四世紀の末に現れます。ポントスのエヴァグリオスと、聖大バシリオスの弟、ニッサの聖グレゴリオスです。エヴァグリオスは「霊魂の先在」、「世界創造に先立つ堕落」、そして最終的な「万物復興」についてのオリゲネスの全思想をかたくなに支持したことにより、五五三年オリゲネスとともに断罪されます。一方、ニッサのグレゴリオスはオリゲネスの「霊魂の先在」と「世界創造に先立つ堕落」についての思弁を捨てたために、究極的な全救済への信仰を固く保持しましたが、五五三年にもその後の時代にも破門されることはありませんでした。これはその後の正教思想史に大変重要な意義を持つことです。ニッサのグレゴリオスはオリゲネス同様、ゆるぎない確信にあふれて全てが救われる希望を表現しました。彼の言葉は聖使徒パウェルの偉大な宣布「そして、神がすべての者にあって、すべてとなる」(コリンフ前15・28)を思い起こさせます。グレゴリオスは述べています。「これらの長く曲がりくねった道を経て、今は私たちの本性に混ざり合い、合わさっている邪悪さが最終的にそこから追い出された時、また今は悪の中に沈んでいるすべてのものがその最初の姿に回復されるとき、全被造物の内から声を合わせた感謝の歌がわき上がるであろう…。このすべてが神の藉身の神秘に含まれているのだ」。この最終的な回復には、グレゴリオスははっきりと述べていますが、悪魔も含まれます。

 この大胆な主張にもかかわらず、ニッサのグレゴリオスは決して異端者として断罪されず、反対に聖人として栄誉を受けました。どうしてそうなるのでしょう。おそらく、聖大バシレイオスの弟であることで、非難を免れたのでしょう。しかしこうも言えるでしょう。彼が師オリゲネスとは異なった扱いを受けたのは、たぶん師とともに悪に対する善の最終的な勝利への希望を持ち続ける一方で、霊魂の先在説を捨てたことによって、オリゲネス主義者の循環論を回避し得たからだ、と。いずれにせよ、グレゴリオスが異端宣告されなかった事実は実に意義深いことです。このことは、創造に先立つ堕落説を離れれば、厳密な正統教義の内側でさえ、慎重に言葉を選べば「全救済」への希望は受け入れられることを示唆しています。

 ニッサの聖グレゴリオスは私がオックスフォードで携わる教派を超えた研究のための学寮の守護聖人の一人です。個人的にも、そうであることを大変うれしく思っています。

愛のむち

 すべての者の救いに望みをかけた三番目の聖師父はニネヴェの聖イサアク*30です。彼は東方キリスト教世界全体で尊敬され、かつ愛され、「シリアのイサアク」と呼ばれてきました。彼が生きたのは第五回全地公会からおよそ三世代後であったにもかかわらず、彼は第五全地公会で発せられたオリゲネスへの破門から影響を受けていません。それは、ビザンティン帝国の領域をはるかに離れたメソポタミアに住む、「東方教会」のメンバーとして、コンスタンティノープルの皇帝に忠実である必要など何もなく、五五三年の公会も全地的とは認めていなかったからです。その決議文をまったく知らなかったかもしれません。

 特に衝撃的なのは地獄に対するイサアクの理解です。彼は新約聖書にある「火」「うじ」「外のやみ」「歯ぎしり」などのテキストは、文字通りの物理的な意味で理解されてはならないと主張しました。彼は「地獄」や「ゲエンナ」を知的な、また知性によってのみ理解可能なものとして語りました。地獄は「実体」ではなく「結果としての現象」であり、また一方で「外のやみ」は場所ではなく真の知識が、また神との交わりの喜びがない状態です。「そこには火よりも耐え難い悲嘆である心霊的な泣きと歯がみがある」とイサアクは言います。来るべき世における歯ぎしりは、肉体的なものでは決してなく、内的で霊的な苦悶を意味します。ここで、あるエピソードを思い出しました。地獄を論じるとき必ず歯ぎしりについて念入りに語りたがるある説教者のことを思い出しました。とうとう聴衆の一人で年配の婦人が我慢ならず立ち上がり、こう叫んで言いました。「でも私には歯がないのよ!」。説教者は厳粛に答えました。「その時にはまた歯がいただけるのです」。

 イサアクはもっと良い答えを用意しています。彼の見方によれば、地獄の責め苦の現実は、物質的な火にあぶられることでも、肉体的苦痛でもなく、彼ないし彼女が、自分が神の愛を拒絶して生きてきたことを悟ったときに、苦しまなければならない良心の激痛です。

「またこうも言える。地獄でむち打たれるということでさえ、実は愛の鞭による責め苦である。

愛から生じるむち打ち――すなわち愛に対して罪を犯してきたことに気付いた者の受けるむち打ちは――恐怖から生じる責め苦よりはるかに厳しく、つらいものである。
愛に対して罪を犯している結果として、心を食む苦しさはほかのどんな責め苦よりも鋭い。

罪人が神の愛から切り離されていると想像するのは間違いだ。…しかし、愛の力は二通りの仕方で働く。愛は罪を犯した人々を責め苦しめる。それはこの地上でも友人たちの間でよく起きることではないか。しかし一方、愛は、その義務をよく守った人々に喜びを与える。

地獄でも同じだ。愛から来る悔やみは容赦ない責め苦だ」。 

 もう四十年以上も前の学生時代、この一節に最初に出くわしたとき、私はひとりつぶやきました。「これは地獄について納得できるただ一つの見解だ」。聖イサアクは教えています。「神は愛であり、この神的な愛は変わることも尽きることもない」。神の愛はあらゆる所に行きわたり、あらゆるものを包み込んでいます。「わたしが黄泉に床を設けても、あなたはそこにおられます」(聖詠139/138・8)。地獄にいる人々でさえ神の愛から切り離されてはいません。しかし、愛は二通りの形で働くのです。それを受け入れる者には喜びとして、それを拒絶する者には責め苦として。ジョージ・マクドナルドによれば、「神の恐怖はその愛の一方の側面に過ぎない。外側が愛であれば、内側は恐怖である」。

 だから地獄にいる人々は聖人たちが終わりのない喜びと感じるものを、苦しい痛みと感じているのです。神が地獄にいる人々に責め苦を科しているのではありません。神の愛に応えることを意識的に拒絶している人々が自らに責め苦を科しているのです。ジョルジュ・ベルナノスが見抜いているように「地獄とは、もはや何も愛さないこと」です。ウラジミル・ロスキー*35は書いています。「神の愛はそれを自らのうちに獲得していないものにとって、容赦ない責め苦である」。そこから帰結するのは、地獄にいる者とは、自分自身を縛り付け、自分自身で檻に閉じこもってしまった者たちだということです。C.S.ルイスはついにこう結論づけます。

「結局は二種類の人間しかいないのだよ。神に向かって「御心をなさせたまえ」と祈る人々と、神からついに「おまえの思い通りにせよ」といいわたされる人々と。地獄にいるのは、みずから地獄を選んだ者たちだ。人がそのようにみずから選んだのでなければ、地獄などというものはあるはずもない。…地獄の扉は内側から締められている」。

 さて、もしこれがすべて真理であったら、――イサアクが言うように、もし地獄にいる人々が神の愛から切り離されていないなら、そしてルイスが断定するように、彼らは自分で自分を地獄に閉じこめているなら、彼らが救われる幾分かの望みはないのでしょうか。(じっさい、正教会は五旬祭主日晩課で彼らのために特別の祈りを祈っています。)。もし神の愛が、彼らの心の扉を絶え間なくたたき続けているなら、そしてもしその扉は内側から鍵がかけられているなら、ついには彼らが愛の招きに応じて扉を開ける時が、いつか来ないでしょうか。もし、彼らの苦難の理由が彼らが愛に対してどれほど重大な罪を犯してきたを認識しているからだとすれば、それはなお彼らの内に幾分かの善の火花、悔い改めと立ち直りの可能性があることを意味していないでしょうか。
 イサアクは、その通りであると明確に信じています。彼の説教集の第二部(これまで失われていたと思われていましたが、一九八三年にセバスティアン・ブロック博士によって発見されました)で、イサアクは歴史の終末に神がもたらす「素晴らしい結末」について語っています。

 「私の見解は次の通りである。地獄の責め苦という難しい問題の位置づけについて、神はある「素晴らしい結末」を顕そうとしている。それは創造者・神の栄光の面として、途方もない、口では言い表すことのできない慈憐によるものだ。そこから、神の愛と力と知恵の宝庫がいっそう明らかになるだろう。その繰り出され続ける善の波動の執拗な力も同様に。
 終わりのない苦しみに無慈悲に引き渡す、そんなことが憐れみに満ちた神が理性的存在者をお造りになった目的ではない」。

「素晴らしい結末」へのこれほどまでの自信に満ちた期待の表明には二つの主要な理由があります。
 第一は、イサアクはオリゲネスさえしのぐ熱さで神の復讐心や報復という考えをいかなる形であれ拒否していることです。そのような考えは冒涜であると彼はみなします。「その愛の泉、善が溢れる大海に復讐心などまったく見い出しようがない」。神が私たちを罰するとき、ないしはそのように見えるとき、この罰の目的は報復や復讐ではなく、私たちをより良いものにするため、また癒すため以外の何ものでもありません。

「神は愛によって懲らしめる、それは報復のためではない。断じて違う!
むしろすべてをご自身の像に形作るためである。愛の懲らしめの目的は矯正であり、復讐ではない」。  

 イサアクがこの第二部で強調しているように、「神は悪に報復するお方ではない。悪を正すお方である。…神の国とゲエンナはともに神の憐れみに属している」。ゲエンナは、「すべての人が救われて、真理を悟るにいたる」(ティモフェイ前2・4)神の基本計画の実現を助ける、浄化と純化の場以外の何ものでもありません。

 第二は、より基本的なこととしてイサアクが確信していることです。「愛は、大水をもってさえ消すことができない」(雅歌8・7)ということ。イサアクはタルソスのディオドーレを引用してこう述べています。「悪霊たちの途方もない邪悪さでさえ、神の善の大きさを凌ぎ得ない」。消すことのできない、際限のない神の愛は最後には悪に勝利するでしょう。「神にあってはただ一つの愛と憐れみがあり、それはすべての被造物に及んでゆく。不変の、時を超える、永遠の愛である。すべての理性的存在者の内のただ一つも、またそれに属するどんな一部分でさえも決して失われることはない」。ノーリッジのジュリアンとT.S.エリオットと共に、「人はすべてやがてよし。あらゆるもの、またすべてやがてよし」と恐れることなく言い切った者が、はるか遠いメソポタミアの地にいたのです。

愛と自由

 ここまでは、キリスト教東方の伝統の内に、「すべての者の救い」を大胆に望む者として、三人の力強い証人を取り上げてきました。西方からも他の証言者をあげることができるでしょう。とりわけ再洗礼派、モラビア派、至福千年信仰派です。しかし東方でも西方でも――とくにヒッポの聖アウグスティヌスの影響によって西方では――、「すべての者の救い」を望む声は、少数派に留まりました。ほとんどのクリスチャンは、ともかくも二十世紀に至るまで、人類の大部分は永遠の地獄に堕ちるであろうと考えてきました。「招かれる者は多いが、選ばれる者は少ない」(マトフェイ22・14)からです。そのような想定(全救済)が正当化されることは夢のまた夢のようです。聖書と伝統を探ってきた今、その理由を考えてみましょう。これまで述べてきたことを集めなおして、「すべての者の救い」を支持する三つの論拠と、反対する四つの論拠を整理してみましょう。

「すべての者の救い」を支持する者たちの論拠

 神の愛の力。限りない憐れみのお方として、創造者・神はその憐れみと赦しをためらうことなく注ぎ、同時にどこまでも忍耐強くお待ちになります。神は何者に対しても強制しません。しかしそれぞれの者、すべての理性的存在者がご自身の愛に進んで応えるまでお待ちになるでしょう。神の愛はこの宇宙に存在する闇と悪のあらゆる力を凌駕し、最後には勝利します。「愛はいつまでも絶えることがありません」(コリンフ前13・8)。愛は決して尽きず、愛には終わりがありません。この無敵の神の愛はすべての者が救われる希望への最も力強い論拠です。

 地獄の本質。これは基本的に、第一の論拠の言い換えです。シリアの聖イサアクについて述べた際に指摘したように、地獄は決して神による「人類の拒絶」ではなく、人類による「神の拒絶」です。それは神が私たちに科す罰ではなく、私たちが私たち自身を罰している精神の状態です。地獄にいる者は神に扉を閉ざされ閉じこめられているのではありません。神は彼らに愛を差し出し続けています。それでも彼らはその愛に対して心を頑なに閉ざすのです。それは、地獄にいる者はみな依然として神の愛の内にあるということです。したがって彼らがいつの日か心をこの全能の憐れみに開く可能性が残っているのです。そしてその時、彼らは神が自分たちを愛し続けていたことを知ります。「わたしたちは不真実(不忠実)であっても、彼は常に真実(忠実)である。彼は自分を偽ることができないのである」(ティモフェイ後書2・13)。神の本性は愛です。神は「ご自身がそうであるもの」であることを、おやめになれません。

 悪の非現実性。これは、まだ議論してこなかった論拠です。神はモイセイに燃える柴の中から「わたしは、ある者」と言います(70人訳「出エジプト記」3・14)。すなわち「わたしは存在する者」です。神は存在であり現実です。そしてあらゆる存在の唯一の源泉です。一方、悪は厳密に言えば非存在であり非現実です。悪と罪は実体的な存在を持ちません。なぜならそれらは神が存在を与えた「もの」ではないからです。それらは善の歪曲であり寄生物です。名詞ではなく形容詞です。これはノーリッジのジュリアンにはっきりと示されました。彼女はその「十三番目の啓示」で述べています。「私は罪を見なかった。なぜなら私は、罪は実体のようなものを持たず、存在しているものと何も分かち合わず、それが引き起こす苦痛によってのみ知られ得るだけだということを信じているから」。

 存在は善です。神からの贈り物だから。存在するものはみな、まさに存在しているという事実によって、存在の唯一の源泉である神とのあるつながりを保っているからです。そこで、こう言えるのです。存在するものは完全にかつ徹底的に邪悪ではあり得ません。何ものかを完全な悪と断じることは意味のないこと、その言葉自体が矛盾です。もしそういうものがあるとしたら、それはまったく非現実的で、実際には存在しないからです。悪魔でさえ、それが存在しているものである限り、なお神とのつながりを持ち続けています。そこで、存在があるところでは、たとえ悪魔にとってさえ希望があります。。

 この第三番目の根拠から導かれ得る結論は「すべての者の救い」ではなく、「条件付きの不死」です。終末では、神は実際に「すべての者にとってすべて」となりますが、それはすべての理性的被造物が救われるからではなく、ある点で、徹底的に邪悪な者たちが、存在することをたんにやめるからです。存在の唯一の源泉である神から切り離されて、彼らは非存在に滑り落ちてゆきます。すなわち時の終わりには永遠の命への復活はあるでしょうが、永遠の死への復活はありません。ないしは、むしろ最終的な続くことのない「死へ向けての復活」があるでしょう。なぜなら「死へ向けての復活」は必然的に消滅を伴っているからです。

 この「条件的不死性」の概念については、それを支持するには多くのことを語らなければなりません。それは、すべての者の救済と終わることのない地獄の間でどちらかを選択しなければならない困難を回避する魅力的な方法です。しかし、四世紀のアフリカの著作家、シッカのアルノビウスによって支持されましたが、それ以前の伝統においてはほかにはほとんど支持者がいません。「条件的不死性」論の立場への反論は共通して、存在という神の贈り物は不動であり変化はあり得ないという点です。神は決して撤退しないということは、たいへん重要なことです。「神の賜物と召しとは、変えられることはない」(ロマ書11・29)のです。自由意志を授けられたそれぞれの理性的存在者の内には、かけがえのない唯一の何ものかがあります。神は同じことを二度は繰り返しません。この唯一のものが宇宙から永遠に消えてしまってよいでしょうか。

「すべての者の救い」に反対する者たちの論拠 

 自由意志論による反対。人は自由であり神に背く自由も持っています。神の賜物は不変です。神は私たちから自発的な選択の能力を決して取り上げません。したがって神に対して永遠に「否」と言い続けることも自由です。そのような終わりなき神へ拒絶がまさに地獄の本質です。自由意志が存在するのなら、永久に続く受難の場である地獄の可能性もまた存在します。その意志に逆らって無理やり人を天国に入れることは誰にもできません。ロシア人の神学者、パウェル・エフドキモフが言うように、神は全能ですが、ただひとつ、ご自身を強いて愛させることは別です。なぜなら愛は自由であり、選択の自由のないところには愛はないからです。この、神の愛の力への訴えは「すべての者の救い」を支持する最も有力な論拠であるいっぽう、反対陣営にとっても最も有力な論拠です。注目すべきは、この論争のどちらの側も、方法は違っても、神は愛であるという事実に主要な論拠を求めていることです。

 引き返せない点。すぐに反論されると思いますが、自由意志からのこの議論は、多くを結論づけすぎてはいないでしょうか。もし神が私たちから選択の自由を決して取り上げないなら、そしてもし地獄にある者たちが自由意志を保ち続けるなら、悔い改めは彼らにとってなおも可能な選択肢の一つであり続けないでしょうか。これに対し、反対論者たちが口をそろえて言うのは、「引き返せない点」があるということです。そこを超えたらもう悔い改めは不可能となる点です。神はこの呪われた者たちから彼らの自由を剥奪はしませんが、彼らの自由意志の誤った行使はついに彼らが態度を変えることができないほど深く彼らの存在に根を下ろしてしまいました。かくして彼らはその神の拒絶に永遠に固定化されてしまったというのです。神は依然として彼らを愛し続けます。しかし彼らはその愛に応答できない状態に自らを引き渡してしまいました。

 ここに天国の聖人たちと地獄の呪われた者たちとの間にある平行関係を見ることができます。天の聖人たちは彼らの自由を失ってはいません。しかし彼らはもはや神に背き罪にすべり落ちてゆくことはできません。彼らは依然として選択の自由を保持していますが、彼らのその自由な選択はすべて善の選択なのです。同様に、地獄にある呪われた者たちも依然として選択の自由を保っています。彼らは今なお「人格」だからです。しかし、彼らの選択はすべて悪の選択です。彼らが神の領域に昇っていくことはもはや不可能です。悪魔は自由を持っています。しかしそれは悔い改めへの自由ではありません。このように、最後の審判のあとには「天国と地獄との離婚」(C.S.ルイス)があるでしょう。天国と地獄の間の裂け目は永遠に超えられないものとなります。

 正義に訴える論拠。「それは神の正義に反している!」、そうよく主張されます。「悪い奴らが正しい者と同じ報いにあずかるなんて」というわけです。もし悪をなした者が償いを求められなかったら、宇宙の調和が崩れてしまうというのです。これまで上げた二つの論拠に比べて、この論拠ははなはだ弱いものと思います。シリアのイサアクが当然にも主張しているように、私たち人間の応報的な「正義」の概念は神には全く適用できません。(ぶどう園の労働者のたとえ[マトフェイ20・1-16]をみれば明かです)。神は「復讐の神」ではなく「愛による赦しの神」です。その正義はその愛に他なりません。神が罰するなら、その目的は返報ではなく癒しです。

 道徳的また牧会的な論拠。最後に、「すべての者の救い」に反対する立場からの議論にしばしば現れる論拠は、それはキリスト教の使信からその切迫感を引きはがし、新約聖書全体に響き渡っている強い警告の調子を過小評価しているということです。ハリストスはその伝道を、「この日に…」(ルカ4・21)、という言葉で開始し、パウェルは「見よ、今は恵みの時、見よ、今は救いの日である」(コリンフ後6・2)と告げました。「この日」「今」こそが、…私たちがそこに向かい合い決断しなければならない時、せとぎわの危機の時、私たちのひとり一人の永遠の未来が決する選択が迫られている時です。もし、いっぽうで死後においても限りなく態度決定の機会が与えられ続けてゆくなら、またこの世での生活がいかなるものであったとしても最後には同じ所にたどり着くなら、キリスト教の宣教のどこに、ひとり一人への選択の促しが、また「今ここで」の回心と悔い改めへの求めがあり得るでしょう。神の勝利がもし必然的なもので、私たちの選択には究極的には意味がないなら、この世での道徳的な決断は取るに足らない無意味なものになりはしないでしょうか。

 オリゲネスはこの困難な問題に気付いていました。「万物復興」の教理は秘せられているべきだと、彼は助言しています。もしおおっぴらに語られてしまえば、未成熟な信者たちを霊的怠慢と無関心に導いてしまうからです*40。だからこそ、十九世紀の敬虔主義の神学者クリスチャン・ゴッドリーブ・バースはこう発言したのです。「誰であれすべての者の救いを信じない者は雄牛である。しかし誰であれそれを教える者はロバである」。いっぽうシリアの聖イサアクはこの問題をまた違った方法で取り扱いました。彼はこう指摘します。「いま、ここで」神の愛に応えるのと、数え切れない時を経た後にそうするのとでは、はかりがたい違いがある、地獄の責め苦はいつか終わるとしても、それは真に恐ろしいものであることに変わりはないと。「たとえこのように地獄が限られたものであっても、それでもなおそこにいることは重大なことである、誰がそこに耐え得ようか」。

 すべての者の救いを支持する最も有力な論拠が「神の愛」であり、反対の立場を支持する最も有力な論拠が「人間の自由」であれば、私たちは出発点で直面した二律背反に引き戻されてしまいます。どうすれば「神は愛である」ことと「人間は自由である」ことに調和をもたらせるでしょう。当分の間は、同時に二つの原理を両方ともしっかり保持してゆくほかありません。そして、その二つの原理が究極的にどう調和しているのかは、今現在の人間の理解力を超えた神秘であることを認めなければなりません。キリスト教とユダヤ教の和解について聖使徒パウェルが言ったことは、全被造物の最終的和解にも当てはめることができます。「ああ深いかな、神の知恵と知識の富とは。そのさばきは窮めがたく、その道は測りがたい」(ロマ書11・33)。

 オックスフォード駅でロンドン行きの列車を待つ間、私は時々プラットフォームの北の端まで歩いてゆきます。行き止まりには次のような注意書きが掲げられています。「乗客のこれより先への立ち入りを禁ず。罰金五十ポンド」。未来の希望についての議論でも、同じ注意書きが必要です。「神学者のこれより先の立ち入りを禁ず」。罰金をどうするかは読者におまかせしましょう。疑いなく、オリゲネスのしくじりは多くを語ろうとしすぎたことです。その過失を、私は罵るよりむしろ感嘆します。しかし、何であれしくじりはしくじりです。
 人間の自由への信仰が意味するのは、「すべては救われるにちがいない」と断定的に決めつける権利をだれも持たないということです。しかし、神の愛への信仰は、すべての者の救いに望みをかけることへと人々を促します。

 どなたかいませんか。
 月明かりに照らされた扉をたたいて、旅人は訊ねる。

 地獄は自由意志が存在する限り可能性として存在します。それでも、言い尽くしがたい神の愛の力を信頼して、あえて希望を――それは希望以外の何ものでもありません――表明します。それは最後には、ウォルター・デ・ラ・マールの旅人が見つけたのと同じように、そこには誰もいないという希望です。
 さて、そろそろこのあたりでアトスのシルワンの言葉を最後に、口を閉じましょう。
 
「愛はそれに耐えられない。…すべてのために祈らねばならない」。

※オリゲネスの引用は小高毅訳によりました(訳者)