ブーリッツァの聖セラフィム


ブーリッツァの聖セラフィムはヤロスラブリ出身で、俗名をワシリイ・ニコラエヴィッチ・ムラヴィヨフといった。彼は父親を早くなくし家計を助けるために、10歳の時ペテルブルグに出稼ぎに行った。最初、配達の仕事をもらったが、店の主人は彼がまじめで賢いのを見て、セールスの仕事をさせ、だんだんと重用するようになった。

ある時仕事でモスクワに出かけた際に、至聖三者聖セルギイ修道院を訪ね老修道士ワルナワに出会った。彼はワシリイの聴罪司祭になり、二人の精神的な結びつきは20年も続いた。ワシリイは修道院に入りたいと願ったが、ワルナワはこの世にとどまって神を喜ばせるようなつとめを果たし、敬虔な家庭を作り子供たちを教育し、それから妻の了解を得て修道士になるように勧めた。この世での仕事は40年続いた。

1890年ワシリイはオルガ・イワノブナと結婚した。2年後ワシリイは店を開き毛皮商として独立した。息子ニコライと夭逝した娘オルガが生まれたあとは、夫婦はワルナワの祝福により、兄弟のように暮らし始めた。彼らの家はいつも開放され、貧しい人に食事を提供し、病人の世話をし、高齢者や苦学生を助けた。ワシリイの商売は順調でヤロスラブリ福祉協会の役員になった。
しかし1917年の革命によって商売を取り上げられ、1920年彼はアレクサンドルネフスキイ大修道院でワルナワの名で修道士になった。彼は財産をすべて修道院に寄進し、修道院では墓地の管理者の仕事をした。死者のために祈った。それから、飢えた人や戦争でけがをした人々のための救護所を開いた。

1921年、府主教ベニアミンはワルナワを司祭に叙聖した。彼は神から隣人を理解する力を得ていた。修道士たち、有名な司祭たち、信徒たちがワルナワの助言を求めてやってきた。彼はアレクサンドルネフスキー修道院の最後の聴罪司祭となった。ワルナワはサーロフの聖セラフィムの名を頂いてスヒマ修道士(厳しい戒律を守る修道士)となった。

修道院は寒かった。セラフィム神父は肉体的精神的過労のためについに体をこわしてまった。彼はそれを皆に隠して耐えていたが、ついに立ち上がれなくなってしまった。医者は彼にペテルブルグ郊外のブーリッツァ村に移るように勧めた。1930年、セラフィム神父はブーリッツァ村にかつての妻、修道女セラフィマと孫とともに引っ越した。

革命後多くの修道士たちが逮捕されたが彼は逮捕されなかった。ブーリッツァ村でも毎日100人もの人が彼を訪れた。セラフィム神父はいつも明るく、冗談を言い、人々を楽しませた。いつでも、「愛する誰それ」と呼びかけた。人々を優しいジョークでなごませ、抱きしめ、額にキスした。

セラフィム神父はサーロフの聖セラフィムと同じ偉業を成し遂げた、彼は1000日も聖セラフィムのイコンの前の石に立ち祈り続けた。1949年永眠し、ブーリッツァ近くのカザンの生神女のイコン聖堂に葬られた。
2000年10月3日にブーリッツァのカザン聖堂で、ブーリッツァの聖セラフィムとして列聖式が行われた。