クリトの聖アンドレイ  

 大斎中(初週)に読まれる「アンドレイのカノン」の作者、クリトの大主教・聖アンドレイは七世紀にダマスコで生まれました。  七才になるまで口の不自由な子供でしたが、ある日、教会で御聖体をいただいた後、たちまちその舌が釈けて言葉を話すことができるようになりました。神に深く感謝した聖アンドレイは大いに勉学に励み、特に聖書を学びました。

 十四才の時、両親は彼をエルサレムに上らせました。当時エルサレムには同じダマスコ生まれの聖ソフロニイが総主教に就いていました。総主教・聖ソフロニイは彼を預かり、教会の堂役者に祝福し、よく訓育しました。彼の正しい品行と温柔さは皆から愛され、聖アンドレイも良くその勤めに励みました。しかし不幸な事が起こります。エルサレムがイスラム教徒の手に陥ち、その支配下となります。教会の多くの人が難を避けエルサレムを離れましたが聖アンドレイは聖地を離れませんでした。

 680年、ローマ帝国の首都コンスタンチノープルに教会の公会議が召集されました。当時、教会には異端の嵐が吹き荒れていました。ハリストスの神性のみを強調する単性論者たちの台頭です。第六全地公会と呼ばれる、教会の教えを確認し護るために開かれたこの会議で当時、掌院となっていた聖アンドレイは活躍します。敬虔をもって知られていた聖アンドレイですが、その学識は深く、聖書にも深く精通していたのです。

 やがて公会議が終わり、エルサレムに帰った聖アンドレイはその身を祈りと神に悦ばれる事業、すなわち貧者を顧み、病者を励ますといった徳行にささげました。

 その後、数年がたち、地中海のクリト島の主教に挙げられ、多くの人を教導し善行の範となる牧者となりました。クリトの人々は島にイスラム教徒が迫った時、侵されなかったのは聖アンドレイの祈りの力によるものだと伝えています。

 「神よ、我を憐み、我を憐み給え。  仁慈なる救世主よ、爾の前に罪を犯ししこと我より多き者なし、然(しか)れども祈る、我をも納れ給え、蓋(けだし)我畏れて侮い、愛を以て呼ぶ、我爾独(ひとり)爾の前に罪を犯せり、憐深き者、我を隣れみ給え。(アンドレイのカノンより)」