聖アレキシイ
晩祷や聖体礼儀の度に「全ロシアの奇蹟者・成聖者」として記憶される、モスクワおよび全ロシアの府主教・聖アレキシイは、十三世紀末にモスクワでチェルニゴフ地方出身の名門ビャコソト家に生まれ、エレフフェリイと名付けられました。
十四世紀のロシアは「タタールの軛」の下にあり、西側からはリトアニア・ポーランドの圧迫を受け、苦しい生活を強いられていました。大公家に重んじられる家庭に育ったアレキシイはロシアの高官への道が開かれていたにもかかわらず修道の道を志し、二十歳の時モスクワの神現修道院に入り、修道の誓願をして名をアレキシイと改めました。
ちょうど、アレキシイと同時代にモスクワの近郊で活躍した人として、有名なラドネジの聖セルギイを上げることが出来ます。ラドネジの森で修道生活を極めようとするセルギイに対し、アレキシイは教会の事務に追われ、時には国政にも参与するという立場にありました。二人の立場は一見両極端にも見えますが、教会という「ハリストスの体」を構成する肢体の部分として、自分に与えられた賜物を最大限に発揮した二人であり、生涯交友関係を続けました。アレキシイが自らの永眠の時を悟り、セルギイを自分の後任にしようと純金の十字架を贈ろうとした時、セルギイが断ったことは有名です。
府主教・聖ペトルの後任の府主教フェオグノストは自分の後任としてアレキシイを推薦し、コンスタンチノープル総主教の祝福を求めました。総主教はアレキシイ一行をコンスタンチノープルに招きモスクワの府主教に昇叙しました。しかし、その後、コンスタソチノープルでは東ローマ帝国の帝位を狙って内乱が起こり、ブルガリヤやリトアニアの圧力が加わりました。後任の総主教はリトアニアの圧力に負け、リトアニアの府主教ロマンをロシアの府主教としました。アレキシイは総主教に訴えましたが、小ロシアはロマンの管轄下となってしまいました。
アレキシイの熱切な祈りは多くの奇蹟を行いました。タタール王妃が病気になった時アレキシイが招かれ、その祈りによって王妃は癒されました。タタール王が交代した時、ロシアヘの税を重くしました。前王妃の病を癒したことにより、タタールの中でも人望の篤いアレキシイが交渉に出向き無事調停の務めを果たし、ロシアの危機を救いました。一三七八年アレキシイはその霊を神に委ねました。