主を見る
      第八福音(イオアン伝二十章十一節から十八節)

 マリヤ・マグダリナは「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません」と涙を流しながら話すのですが、振り返った時に、イイススが立っていらっしゃるのを見ました。けれど、そのお方が主であることがわかりません。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか」。そう問われて、彼女はその人を園丁だと思い、「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えて下さい。わたしが、あの方を引き取ります」と、彼に言いました。イイススは彼女に言われました。「マリア」……

 「マリア」……と主は言われました。するとこの一言でマリヤは主を知ったのです。主の復活の後、変容した新しい体のハリストスを知ることは、人間にはとても困難なことでした。無駄骨だった門徒たちの夜の漁を思い起こしましょう。暁、岸に人の姿が見え、舟に乗っている門徒たちと語り始め、その人は食物のことを尋ねますが、門徒たちはそれが主だということがわかりません。そしてこの見知らぬ人の言葉にしたがって、半信半疑で投じた網があげられ、多くの魚がかかると、その時初めて年若い洞察力の鋭い鷲のような炯眼なイオアンがペトルに言いました、「この方は主なるお方です」。主を知ることは何と困難なことであったでしょう! ルカとクレオパがエンマウスへ行き、主が彼らと肩を並べてエンマウスまで歩み彼らと予言のことを話した時も、彼ら門徒は主がわからなかったのです。人となった神、復活した人性を知るためには聖体機密のパンを割くことが必要でした。変容して復活し、すでに高揚したハリストスの体を罪の目で見るのは困難でした。神秘はあまりにも大きい…。

 しかし主は、その復活の後も、世界に感じ取ってもらわなければなりませんでした。主はフォマの手を通して全世界の手を握り、その真の人性の体にフォマの手を差し入れます。主は復活の後も人に現れなければならないのです。

 主は最初だれに現れたのでしょうか? それはかつて主によって永久に癒された魔鬼につかれたイウデヤの女マリヤ・マグダリナです。彼女は主を探し求めました。彼女は単に探しただけでなく、主が見つからないため泣いていました。この世でハリストスのために泣くものは多いでしょうか?……マリヤが無意識のうちに感じて振り返った時、彼女は園丁を見たので、自分の悲しみを述べて彼に尋ねました。見知らぬ人はマリヤに何を言ったでしょうか? 彼は彼女に答えてただ一言「マリア」と言われました……主を見る奇跡が行われるためにはこの言葉で充分だったのです。この言葉はエンマウスのパンを割くと同じ力を持っていました。むしろこの言葉はさらに大きなものでした。主は姿を消さずマリヤが気づいたままで、福音を告げる命令を与えられましたから。

 どうしてこの言葉にこんな力があるのでしょうか? なぜ身近な門徒が長い会話をしても主を認め得なかったのに、マリヤはただの一言で主を知るのでしょう? 復活した神が、彼に会った最初の人に発したこの単純な言葉を、よく考えてみましょう。言葉は簡単です。しかしこの言葉は人の精神の奥底にくい入っています。この言葉は人の名前を呼んでいるのです。この言葉は人間にとってもっとも身近な、もっとも貴い、またもっとも美しい言葉です。これは“人の名前”、神に似せられて作られた人の名前です。私たちの名前は私たちの本質なのです。私たちの霊、私たちのもっとも大切なものに対する呼びかけを、私たちはどんなに評価してもしすぎることはありません。

 主は親しく、人間としてのマリアに対し、ただ一言「マリア」と言われたのですが、これは実に完全に、実に神聖に、実に熱烈に、造物主自ら受造物に呼びかけられたものです。あたかもこの瞬間に全地球は、至って光栄な神と初めて出会った幸運なこの亜使徒的女性に受肉したかのようでした。また全地球は彼女の心の奥底に呼びかけたこの言葉を聞いたのです。言葉は主の口から発せられ、人はその言葉が、全地球に、二つとない人の名前に発せられたことを感じ取りました。ですからマリヤは、自らに呼びかけられた主をたちまちのうちに知ったのです。

 私たちは“生ける神”を信じると同時に、高貴な、生きた、個性的な、二つとない“生ける人”を信じます。そしてその人の霊は、“全世界よりも貴い”のです。