信仰
第七福音(イオアン伝二十章一節から十節)
門徒たちは復活の目撃者に出会ってその話を聞いても、すでに携香女たちが信じていても、復活を信じようとはしません。しかし門徒たちが信じないのは軽々しく信じないという態度によるものです。彼等は、誰が主を墓から運び去って、どこに置いたかわからないというマリヤ・マグダリナの言葉はすぐに信じることができました。何もない墓と墓にあった葬りの衣を見るだけで信じられたのです。しかし復活を信じることはそんなに容易にできることではありません。ことが全世界の救いに関する以上、信仰における安易さから来る軽信はありえなかったのです。
現代人の中に、キリスト教の根本的な真理を率直に疑う人が少なからずいます。彼らは軽信によって疑っているのではありません。彼らは、キリスト教の真理が事実ならばすでに永遠の生活の神秘が発見されたのだから、信者の全生活は今までとは別な途を行かなければならないという深い真理に基づいて疑っているのです。こういう疑惑を抱く人々は、キリスト教の真理をいっさい無批判に信じながらその信仰が実生活に現れない多くの信者たちよりも、もちろん、神の近くにいるのです。そしてあらゆるつまらない風聞ばかりでなく、神聖な真理に対しても軽信はあり得るのです。
しかし、その深い疑惑に基づき、自らその個々の霊的な“体験”によって、信仰にあふれた宣教活動を行ったり、信仰の務めを果たしたり、生活する上での喜びとしてと信仰を持つに至った人の「信仰」を軽信とは呼びません。こういう人は永久に堅く、信仰を捨てず、またその生活で意識的に罪を犯して信仰を破ることもしないでしょう。ところが一度に簡単に受け入れてしまう軽信の人は、またすぐに信仰から離れるのです。何も疑わないということは、何も知らない、また何も考えないということなのです。
復活した主について最初に福音を世界に伝えたのは、携香女たちです。これは、門徒たちの弱さによるのではなく、彼女たちの内部の力が大きいからでした。さらにこの重大な事件を受け入れられるには、門徒たちには準備が必要だったのです。誰か愛する人が死んだ時に、その人を愛する人々には一度にその死のことを話さないで死を受け入れる準備をさせることがあります。神は、門徒たちが死んだ主にではなく、復活した主に会うことが出来るように準備なさったのです。死の絶望からは、一度に復活の無限の喜びに移ることができませんでした。ですから、携香女たちをお召しになり、すぐに行動を起こせるという女性特有のしなやかさを祝福されて、この地方で神と世界が初めて出会うことに直面する重荷を課されました。主が女たちにたびたび現れたことは、門徒たちの準備のためなのです。福音記事そのものも、復活した主御自身が、また天使たちを通じて携香女たちにただひとつ、門徒たちのもとに赴いて、会ったことを告げるように命じたと伝えています。(マトフェイ伝では天使、後に主御自信が携香女たちに門徒たちのもとに行くことを命じ、マルコ伝では天使たちが女たちに対し門徒たちの所へ行くように語り、ルカ伝では彼女たち自身が直ちに門徒たちのもとに行き、イオアン伝では主自らマリヤに門徒たちの所へ行くことを命じています。)
門徒たちが信じたように、ハリストスの復活を信じること、これは偉大なことです。全世界の信仰はこのことから始まっています。ですから、主がその門徒たちに対し以上のような配慮をしたのは何の不思議もありません。主はその畏るべき復活の力を何と穏やかに述べていることでしょう! 「行って行われたこと、行われるべきことを告げなさい」、「あなた方より先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる」、「行って、私が生きていることを告げよ……」。門徒たちは復活の主の知らせに囲まれ、満たされ、包まれます。そして、彼らが畏るべき啓示への期待に満たされている時初めて主自ら彼らのもとに来られました。
それはもはや彼らに現れるためではなく、世の救いについての緊急な話をするためでした。