喜び
第六福音(ルカ伝二十四章三十六節から五十三節まで)
第五福音は、門徒ルカとクレオパがエムマウスで主と出会った後、イエルサリムへ帰ったところで終わっています。この出会い、心を焼くような旅人との語らい、このパンを割くこと、聖書の意義の新発見、主を見たこと、これら全てはすぐに門徒仲間の張りつめた話題の中心となりました。福音はこれを簡単に「こういうことを話していると」と伝えています。彼らが語り合っていた時、「イイスス」は自ら「彼らの真ん中に立」たれました。福音の記事には、何らの技巧的な誇張もありません。「すぐに」とは書かれていません。単に『イイスス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。』と述べているだけです。彼等は困惑、驚愕し、彼等の見たのは神であって主ではないと考えました。すると復活した主は重ねて言われました「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか」。そして彼らが主を見て、主に触れ、主に骨肉のあることを確かめるようにお命じになりました。このときすべての者が「不信のフォマ」でした。
ここに不思議な門徒たちの不信が展開されています。彼らは「喜びのあまり」信じなかったのです。これは聖徒の不信であり、楽園の不信です! 普通の人間は、神の戒めの命令どおりに生活していないので信じない、あるいは信じ方が足りません。しかし門徒たちの信じないのは「喜びのあまり」です……嬉しすぎて、信じられなかったのです。
しかし信じるのが遅すぎるのではないでしょうか? もはや各々のうちに、各事物のうちに「神の国」がありました。それは地に約束された「力によって来た」国です。心は大いなる喜びにふるえていました。しかし体は……体には手助けが必要でした。そこでハリストスはその人間の友たちに体のことを語り始めました。主は自分に食物を求め、門徒たちはこの神の命令を実行して、あぶったさかなと蜂蜜とをハリストスに差し出しました。すると主は門徒たちの前で、それを食べられたのです。彼のこの上なく清らかな肉体は、その真の人性の偽りのないことを世界に示しました。復活の前に、主はその神性を大いに現さなければならなりませんでした。復活の後、人々はハリストスの神性の神秘が大いに現れることを必要としていました。つまり、復活の前にはファオル山と光栄なる変容の光があり、復活の後には掌の新しい傷と、あぶった一片の魚と蜂蜜があったのです。