機密
      第五福音(ルカ伝二十四章十二節から三十五節)

 死者を復活させた主が死にました。もはや、疑いを差しはさむ余地はありません。そのことへの疑惑は最後の瞬間まであったのですが、アリマフェヤのイオシフが呼吸をしていない主のお体を十字架からおろし、葬りの衣で包んだ時、ついに最後の望みの綱さえも切れてしまいました。そのときすでに兵卒たちが到着し、封印された墓を警護し始めました。門徒たちはそこを立ち去り、荒れ果てた彼らの活動の拠点のゼウェデイの息子の家に落ち着き、聖母もそこへ移りました。今や精神的に半死半生のよるべなき門徒たち、信仰はあってもその信仰を恥じた人たち、頼みにしていたが今は「あざむかれたのではないか」と怯える人たち、心は燃えてはいるが温柔で純潔で聖なる人々、海を去ったがまだ陸を見いださない漁師たち(もはや弟子でもなく門徒でもありません)…。彼らはどうしていいのかわかりませんでした。たった今彼らの師である主に対し、人々は血ぬれた十字架のかたわらで叫びました。「イスラエルの王よ。今すぐ十字架から降りるがいい」…そして今や彼らはどこへも出て行けないのです。主は十字架から降りることはありませんでした。

 イエルサリムに残ることは不可能でした。主に率いられた牧群の羊はちりぢりになり始めました。七十門徒のルカとクレオパはイエルサリムから出ました……彼らが歩いていると、誰かが彼らと肩を並べて黙って歩いています。やがてその人は話を始めたのですが、その声を聞くとなぜか旅人たちの心は燃え上がり始めたのです。彼らは先ほど市を動揺させたイエルサリムのできごとについて語り旧約の予言に話が及びましたが、そこで新しい多くの事実が発見されました。彼らがエムマウスへ入った時はもはや夕方でした。その見知らぬ旅人はさらに遠くへ行こうとしましたが、一緒に残って村に宿泊するように旅人たちは勧め、見知らぬ人も残ることにしました。彼は旅人の門徒たちと共に食卓につき、パンを取り、祝福してこれをさき、彼らに与えました……と、突然彼らは主ハリストスを目の当たりにしました。けれど、主のお体はイオシフの墓に置かれてあるはずではありませんか。彼らは目を見張りましたが、よく見るともはやそこには誰もいません。目撃者である福音記者はこう言っています。彼らは、「時を移さず」立って、イエルサリムへ帰った。

 すでに主のイエルサリム入城ではなく、門徒たちの「イエルサリム入城」を私たちが祝うのは、当然のことです。彼らの前には走る者もいません、枝を折る子供たちもいなければ、彼らの足もとに衣をしく者もいません。彼らは他の人と同様に、目立たず埃にまみれて歩いていました。しかしその霊にはすばらしい祭りがあったのです。目を覆っていた帳は目から取り除かれ、すべての予言は新しい意義で理解されていました。地上の王を失った彼らは、天の王を見いだしたのです。再び彼らに降りかかったイエルサリムの人の冷笑をも、もはや門徒たちは別の意味で聞きました。彼らは、主を十字架に釘した人たちを先のように恐れはせず、寛容な気持ちで見つめることができました。本当に、彼らの霊はすっかり変わり、小さな霊は大いなる霊となったのです。すべては簡単に、明白に、公然と行われました。門徒たちの心には、できごとが明白で単純だという意識はもちろん根底にあるはずですが、復活した神の子に接触したという幸福が湧きあがっているのです。

 門徒たちを一変させたこの瞬間はいったいどこにあるのでしょう? ルカとクレオパの生涯における旧約と新約の境界線はどこにあるのでしょう?

 この瞬間はすべて“聖体機密”の中にあります。門徒たちの中で選ばれたルカとクレオパの前で、ハリストスは“自ら”聖なる機密を行い、そのお体を祝福されたパンに変化させ、パンをそのお体に変化させたのです。天のパンであるハリストスは、イエルサリムを出た人のように彼らと共に歩み家へ入りましたが、この家はこの瞬間から神の住まうところ、ユダヤの民のソロモンの神殿になったのです! 彼らはその信仰においては、平らな屋根を持った小さなユダヤの家にいたのではなく、至聖なる美しい主の宮にいたのです。主自ら祝福されたパンを彼らに与え、祝福された主はお姿を消しました。主御自身がパンに移り、これを門徒たちに与えられたのです。彼らはパンを食べて、神に満たされました。彼らは目に見える主は失いましたが、霊の内に主を獲得したのです。

 ハリストスの行われたことは素晴らしいことです。人間の舌には、神が示した叡智を表現する力がありません。私たち人間は、聖体機密における以上によく神を見、また子として主と結合することができるでしょうか? 私たちは粗悪で土に属し肉体的なものです。私たちは暗く、神は光です。私たちは光を認識することができるでしょうか? 私たちが光を認識し始めると共に、私たちの中の暗黒は光の前に無くなります。しかし、現在の私たちの人間の意識と、地に属されぬ最高の生命の言い尽くされぬ神の光との間には、何の関係もありえません。神の側から見れば、私たちの暗黒は黒そのものよりもなお暗いからです。けれども造物主は、人間の自由な陥罪の後も、私たちの地を滅ぼしませんでした。神は神の家に立ちたいと願う私たちをも滅ぼしません。神は私たちの父なる彼のうちに、我々が不死を認識することを望まれます。父の血である“子の血”は、私たちのうちに入らなければならないのです。主の仁慈は、聖体機密において私たちに注がれています。パンと葡萄酒の形を受ける時、私たちは「あらざる所なき」神・造物主であると同時に人となった神の体、真の血を受けるのです。新しい血は、人々のために創造せられ、私たちはもはや朽ちることのない新世界の贈り物としてこれをいただきます。これは神性と人性の奥妙な神の接触なのです。

 どのように私たちが聖爵(ポティール・聖体血の入ったカップ)に近づいても、私たちは神の生命を受けます。信仰を持って近づいても、あるいは信仰がなくて近づいてもそれは同じことで、私たちは神・主ハリストスの生命を受けるのです。信仰がなければそれは定罪となり、信仰を持っていれば救いとなります。教会の王門の前で、私たちはパンのうちに不死を味わうのです。

 主を味わうことは、正義と純潔のまぶしい光輝を味わうことです。それが私たちより奪われていないこと、私たちが希望さえすれば光と結合しうるということは、何という幸福でしょう! 私たちは、ただこの光だけによってのみ私たちの人性をいやすことができるのです。暗黒は暗さによっていやされるのではなく、暗黒に入ってくる光によっていやされます。私たちは自分で神と結合することはできませんが、神にはすべてが可能です。神は聖体機密において、私たちを御自身に結合させます。地上に生きている間、私たちは生命を利用しなければなりません。これはとりもなおさず、私たちが、生命を施す機密の領聖にたびたび赴くことを意味します。

 ハリストスと共にエムマウスの家に入った門徒たちは、ハリストスを自分に受けました。彼らは純潔で、心に真実がありました。ですから神に出会った時、彼らの心は燃えたのです。主は彼らに接触することで、彼らを焼き直しました。彼らは更生して、動揺するイエルサリムの市街へ行きました。彼らは、永遠に生きる神人によって神と人との畏るべき結合が行われる生きた証拠を、小さなエムマウスの家から全世界のために持ち出したのです。