愛
第十一福音(イオアン伝二十一章十五節から二十五節)
岸には火が燃え、その上に魚が置かれています。ハリストスは、行って獲った魚をすぐ持ってきなさいと言われます。彼らが網を引いて数えると、魚が百五十三尾ありました。ハリストスは言われます「さあ、来て、朝の食事をしなさい」……誰一人ハリストスに「あなたは誰ですか」と問う者がいません。彼らはみな、それが主であることを感じて、大いに戦慄していたのです。食事を取るにも、手が出ませんでした。ハリストスは立ち上がって自らそれを分配なさいました。
ここで最後の第十一福音が始まります。復活したハリストスは、朝早くティヴェリアダの湖畔で、門徒たちと共に食事をされます。ハリストスの体は、すでに特別な体です。ですから身辺の門徒たちも、肉眼ではなく心の目で主を知っています。なぜなら、ハリストスの人性の体は、すでに光照されているからです。ハリストスは門徒たちと共に、たき火のそばに座って語られます。全宇宙は、すべて今までと同じです。宇宙の造物主が、人として小さな片田舎の湖畔に座っていることを誰も知りません。もちろん、そのとき湖畔はとても静かでした。いっさいの風はやむべきでした。
「イオアンの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」、「わたしの子羊を飼いなさい」、「イオアンの子シモン、わたしを愛しているか。」、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです。」主はペトルを再びもとへ回復されたのです。ペトルは前に三度主を知らないと言いました。ですから彼は三度もとへ回復されなければならなかったのです。「イオアンの子シモン、わたしを愛しているか」……何という限りない愛でしょう。叱責の影もいちまつの苦渋すらなく、愛以外には何もないのです。ペトルは恐るべき罪を犯しました。主のそばで、主が辱められている時、愛する主を知らないと言ったのです。けれど突如として「“この人たち以上に”わたしを愛しているか」……つまり主を知らないと言わなかった者よりも多く愛するかと呼びかけられたのです。「わたしの子羊を飼いなさい」私は三度あなたに言う、今日からあなたの三回の罪は消滅する。ペトルよ、あなたは泣き、あなたの涙はあなたをわたしのもとに帰らせた。わたしはあなたの使徒としての職分を再び回復させよう……そして主は、ペトルが自らどんな死をもって神の光栄を現すかを理解させるために、なおも語り続けられました。
ティヴェリアダの湖。特別の目によって知られる主、人となって苦しみを受け、人の姿をした宇宙の造成者。ようやく百五十三尾の魚を獲った貧しいガリレヤの漁夫たち。それ以上の、「千五百三十億」の人を神の宮に導く使命のあることをまだ知らないこの漁夫たちの姿……
ハリストスの一言一句は、大いなる意味にあふれています。明白な意義もありますが隠れた意義も大きいのです。なぜならば福音にあるいっさいの言葉、いっさいの事件は、各人の個人的な運命に関係しているからです。ですからハリストスがわたしたちすべてに「わたしの子羊を飼いなさい」と言われたのではないにしても、ハリストスは私たち各々に「わたしを愛しているか」と呼びかけていらっしゃるのです。私たちは神に対する愛が、その戒めの命令に対する愛と分かつことはできないものであることを知っています。私たちには、何と答えることができるでしょうか? 最後の審判の時、私たちが神さまに顔を合わせる時、またティベリアダの湖畔でペトルに尋ねたように「わたしを愛しているか」と問われた時、私たちは何と答えることができるでしょうか? 私たちはいずれも「あなたがご存じです」と答えることはできるでしょう。けれど「主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言える人ははたして何人いるでしょうか?