疑惑
第一福音(マトフェイ伝二十八章十六節から二十節)
十一門徒は復活したハリストスの言葉に従って、再びガリラヤに赴きます。彼らは到着してハリストスに会い、伏拝します……すると再び疑惑が彼らの心に忍び寄ります。ずべての門徒にではありません。けれど「しかし、疑うものもいた」とあります。
疑惑は、人間の魂のうちに驚くほど強く生きています。そうして、疑惑は、全てのものを無視します。疑惑には自分の法則があるのです。その法則は、人間の魂の法則です。つまり、罪に打ち砕かれ、神が「ある」ことに対して直接の智識を持たないので、人間の魂は完全さを失っているのです。そうして、そのためにすべてに対する本当の智識を失っているのです。そう、罪は魂を打ち砕きました。それにもかかわらず、やはり、魂は完全な神の明瞭な鏡なのです。信仰によって真理を認識することは、すべてを含む最初の智識がもう一度起こることなのです。けれど、打ち砕かれた魂は、すべてを小さなかけらで理解することに慣れているために、人間のいわゆる「理性的」智識が、最高の生活であるキリスト教にしたがって生きることを阻害するのです。けれど、神の計画によれば、人間は自分と自分の低い生活(これは陥罪の結果に過ぎないのですが)を拒否し、福音に導かれた世界の新しい秩序を自由に受け入れるようにならなければなりません。この生活の新しい秩序の基礎は信仰です。そして、この信仰は、人間が「いつも学んでいながら、決して真理の認識に達することができません」(ティモフェイ書後三章七節)という古い智慧でむなしく求めている最高の智識を人間に与えるのです。
門徒たちは信じない……門徒たちは疑っている……しかもこれはすべての後なのです! もうすでにすべてを信じ、すでにすべてを捨てて、すでにガリレヤへの旅を終わった後で、今なお疑っています。これこそが人間の魂の原罪の本質です。神を離れて楽園を逐われた人間の魂の動揺であり、苦痛なのです!
復活の福音は、人間の大いなる信仰についてだけでなく、大いなる疑惑についても物語っているのです。門徒たちの信仰はとても深い信仰でありながら、同時に門徒たちの疑惑はとても高い疑惑なのです。十字架に釘打たれ、復活した神を見た時、人間には深い信仰も高い疑惑もすでに存在していたのです。しかし、今やそれもこれも終わっています。私たちの信仰が往々にしてきわめて小さく弱いものであるように、私たちの疑惑はもはや常に哀れな微々たるものです。それは、門徒たちが自分たちの疑惑で私たちの疑惑を贖ってくれたからです。ハリストスは復活された。そして来るべき世界の終末の復活では、私たちにも復活が可能だというばかりではなく、復活以外にあり得ないと信じる者に光栄を与えられます。
今日、私たちをめぐる世界の生活を見て、そうして、この生活の上にハリストスの復活の福音を聞くならば、復活を信じないことは無智なことであり、また考えられないことです。ハリストスの復活がなければ、世界は何の価値があるというのでしょう? 世界はまるで蜘蛛の巣のようではありませんか。冷たい空気の中で鈍い苦痛をともなって今にも死にそうな人間たちのいる…、無意味で憐れむべき世界ではないでしょうか。人間の不信から生じるどんな幻覚も、疑惑も、私たちを空虚な大空と刹那的な大地を信仰させる力を持ちません。宇宙は福音の意義がなければ、茫漠たる「無」の深淵なのです。 ハリストスの復活を信じないということは、できないことです。復活は、堕落したすべてのものを再び起こすことであり、放蕩な人類の、宇宙の父の平和と喜びの家への復帰です。この信仰を表すということは、なんという幸福なことでしょう。またこの信仰が真理で証明されなかったら、この幸福はあり得ません。