わが心はざわめき・・・・・・
――聖山アトスの長老パイシイとの対話――

――長老様、「善き心の不安」とは何ですか?

――「善き心の不安」とは、人が今より善くなりたいと思って前に進んで行く時に感じる心のざわめきのことじゃ。自分の状態に心をくばりながら進んでいくのじゃが、何か霊的成長のじゃまになるものが見つかれば、それについてよくよく思いをめぐらせ、必要ならば助けを乞う。こうやって霊的な勤めを完成させてゆくのじゃ。

 たとえば、何かの拍子に傲慢な態度に出たとする。この時、すぐさま考えるのじゃ。『傲慢に打ち勝つことができるものは何だろう?そうだ、謙遜だ。それなら謙遜を育てよう』。そうして、コツコツと斧で傲慢をくだいていく。まあ、簡単に言えば、人は霊的に大人になりたいと思って、霊的な勉強を積んでいくというわけじゃな。ほら、学校の生徒だって、小学校の1年が終わったら2年生になる。小学校が終わったら中学校、その後高校へと進む。もし勉強が思うようにいかなくて、なおかつ大学に入りたいと思うのであれば、塾に行く。大学に入った後だって、学位をとるためには一生懸命勉強しなきゃいけない。次に修士課程、博士課程、もっと勉強を続けたいなら外国に行くこともありうるが、すべては学問で成功をおさめるためなのじゃ。

 ふつうの学問でさえこうなのだから、霊的成長にいたってはなおさらじゃ。霊的学問で優秀な成績を取るために、霊的にりっぱな大人になるために、人は精進せねばならんのじゃ。

 「善き心の不安」とは、いても立ってもいられんような気持ち、前進しようという気持ちのことじゃ。こういう心のさざ波は、(たましい)に剛胆さ、勇気を与える。恐怖や悲しみではなく、なぐさめを与えるものでな。「不安」といっても、間違ってはいかん。ストレスや心配のことではなくて、研鑽をつむために熱心になることなのじゃよ。

 お前さんがたを見ていると、時にこんなことがある。「私は一生懸命努力しているのに、まだこんな段階だ」などと言って、元いたところに留まっている。一種の停滞じゃ。こういう場合、聖人と呼ばれる人たちはどう行動したと思うかね?お前さんがたにはその打ち破ろうという猛烈な気概がないんじゃ。いつまでたっても変わらんのは、心の中にある「善き不安」の梃子(てこ)に力がかかっていないからじゃ。これをぐっと押せば、お前さんがたは前に進むことが出来るんじゃ。

――長老ハッジ・ゲオルギイの伝記に、あなたはこう書いておられますね。『霊の救済におおいなる関心を持つことが、肉体を抑制し、欲にとどめを刺す』。私には、この「おおいなる関心」が欠けていると思うのです・・・

 

――肝心なのは、お前さんの理性と心が、別の事でふさがっているということじゃ。わしらの理性と心は、最後の目標、天の王国にどうやってたどり着くかということに絶えず向けられていなければならん。心が霊の救済のことを思いわずらうとき、それにつられて理性も、痛む心についていく。

すべては痛みにあるのじゃ。どこかが痛いと、お前さんは食うことや飲むことはおろか、眠る事だって出来はせんじゃろう。「善き心の不安」を持つ人というのは、すべてを心に深く受け止めるものじゃ。どうやら、お前さんの目標は天ではなくて、まだ地面にあるようじゃな。霊をどうやって救うかという問題を、まだ心に深く受け止めておらなんだ。その状態で、何をどうしようというのかね?

どうして自分の霊を救うことに無関心でいられよう?わしらは、何とかして救われたい、いつもこのことばかり考えていなければならんのじゃ。そうでないと、今言ったように、地面を這うばかりでいつまでたっても同じところにとどまっていることになる。逆に、この世での目標がほかでもない、天の王国を手に入れることだということを忘れなければ、心の中に「善き不安」が入り込む。そうなると、遅かれ早かれわしらの霊は今までとは違う、別な居場所を見出すようになる。そこでは新鮮な空気がいっぱいで、霊を生き生きさせ、高く舞い上がらせるのじゃ。

神様は人間に智慧をおさずけになられたが、何のためだと思う?地球上のいろんな国々をあちらこちらへ飛び回る、一番速い方法を思いつくためじゃろうか?そうではない、もっとも大切なことを考えるためじゃ。最後の目標――神様のもとへどうやってたどり着くか、どうやって真実の王国、天国を手に入れるか、それを考えるために与えられたものじゃ。

――霊の救済に無関心ではない人にとって、霊的生活を始めるために、何がきっかけになると思いますか?

――前に進みたいと思っているのであれば、いろんなことがきっかけになりうるな。もし自分がそれを望んでいないとすれば、まったく話にならん。牡牛みたいなものじゃ。さっさと歩かせるために鋭利な道具でいくらつついても、牡牛は傷だらけになるばかりで、さっぱり前に進もうとしない。それと同じじゃ。

――長老様、たとえば、善くなりたいという意志を持っている人がいたとします。その人のためにこちらが後押ししてあげるとすれば、神様は相手を助けてくれるでしょうか?

――助けてくれるとも。ただ、後押ししてやろうとするのは避けるべきじゃ。さもないと、後押しする人間の方が疲れてしまう。考えてもごらん。前に進みたくないから同じ場所で足踏みをしておるのじゃ。自分で自分を善くしようという気持ちがないのじゃ。そういう人間を助けようとするのは、まことに疲れるものじゃ。

 人の心に「善き不安」がないと、前に進めない。したがって霊的に成長出来ない。これは自明の理じゃ。

 そういう人間というのは、四角い車輪みたいなものでな。いつも後ろから押してやらねばならんが、まあ実際にはどうだろう!押してやればガタンといって止まる。また押してやればガタンといって止まる。こんな風にしょっちゅうガタガタいって、前に進めるものかね?もし道中が長かったら、とうてい行き着けるものではない。霊的完成の道は遠いのじゃ。200や300メートルそこらではないのじゃよ。

――長老様、「善き不安」を起こさせるにはどうしたらいいですか。

――たとえば、わしが何か役に立つ本を読んでいたとしようかね。読んでいるうちに、とても印象深い箇所があって、そこで立ち止まる。まるで宝石を見つけたようなもので、手にとってつくづく眺めたくなる、まあそんな気分じゃ。その印象深い箇所を、じっくりと研究する。自分の立場に置いて考えて、自分が正しく理解したかどうか確かめ、今度は生活のなかで実践してみる。しばらくしたら、正しく実践しているかどうか、自分に問うてみる。そんな風にして、わしは霊的生活の正しい道を歩むことを、少しずつ学んでおるのじゃ。

 師イサークのことをわしに話した者は誰もおらなんだが、ある時乾物屋でわしは塩漬けニシンを買ったのじゃ。店員がニシンを新聞にくるんで渡してくれたが、その新聞が『聖山アトス図書館報』だった。わしが包みを広げた時、印刷してあった文章に目がくぎづけになってしまった。それが聖イサークの言葉だったのじゃ。わしは後で紙を日なたで乾かして、読んでみておおいに感銘を受けた。そうやって1年間その文章を読んでいたのじゃ。何度も何度も読み返して、しまいには聖イサークが大好きになった。

 それから、聖イサークの本はあるのだろうかと考えた。探し始めたのじゃが、万一見つけたとしても手に取るのがなんとなくこわいように思われたよ。

 お前さんがたはずいぶんたくさん読んでおるようじゃが、その中で印象に残る文章がなかったはずはない。そういうところがあれば、書き留めておくことじゃ。書き留めて、絶えずそのことについて思いをめぐらしていれば、決して忘れないし、実践に移そうと思うじゃろう。

 ほんの一言ふた言言っただけで、それが心に触れてもう涙ぐむ人たちがいる。紙のきれはしに聞いたことを書きつけて、実行に移し、前に進んでいくのじゃ。ソロモン王も言ったじゃろう。「知恵ある人に与えれば、彼は知恵を増す」(箴言9−9)と。ところが、今までにさんざん見聞きしておきながら自分で何もしない者があって、これは「善き不安」が心に入っていないからじゃ。わしのところに来て、自分の置かれた状態を話すのじゃが、前に進んでいこうという気持ちがない。まことにうわ面だけの態度じゃ。わしには理解できん!霊的生活に関することがすべて分かっているとでもいうのかね?本当に何の疑問もわいてこないのかね?

 「善き不安」が入り込むと、人は自分に足りないものについていつも考えるようになる。どうしたら手に入れられるか人に聞いたりする。そうして、霊的にためになることを得ていくのじゃ。聞かんでどうして知ることが出来よう?ある時わしはある夫婦者と道中いっしょになったのだが、彼らに小さな子供がおってな。最初から最後まで父を質問ぜめにするのじゃ。「お父さん、あれなあに?お父さん、これはどうしてなの?」。しまいに母親が言った。「もうおやめ、お前がうるさくてお父さんは頭痛がしそうだよ」。しかし、父はこう言った。「何でも聞かせておきなさい。聞かなければ何も知ることは出来ないのだから」。霊的な疑問も同じことじゃ。

 

 「善き不安」に心を占められている人がどう行動するか、お前さんがたがよく理解できるよう、一つ例をお話ししよう。姉妹の一人なのじゃが、彼女を見るのはうれしいことじゃ。彼女がしてくる質問のうち、せめて一つにでも答えようと思ったら、ノートを一冊使い切らなければならないほどじゃ。この質問というのは、「善き不安」から出されるもので、決してつまらない好奇心からではない。このように、彼女には大変大きな「善き不安」があるので、いろいろなものをキャッチし、一生懸命前進する、だから大きな恩恵を受けることが出来るのじゃ。人が自分に欠けているものを見つけようと努力し、それを修正しようと努め、謙虚になる時、神の恩恵が顕される。その瞬間から人はもうガタガタいわずスムーズに進むようになるのじゃ。

――長老様、私は行くべき方向に進んでいないと心配しているのですが。

――怖いと思うのかの?

――いいえ。でも、どうしてこのように不安になるのでしょう。

――よくお聞き。平安な不安と不安な静けさと、二つあるのじゃ。善い不安というのは心の中にいつも持つべきもので、そんな時恐怖は感じないものじゃ。もし人が正しく精進していたら、決して自分に満足することがないし、その結果何らかの不安がいつも宿っていることになる。この不安は、その人の義を愛そうとする努力がもたらすものじゃ。

――長老様、精進していった結果、もう善き不安が必要ないという日に至ることがあるでしょうか?

――いや、それはない。なぜって、善き不安は、この世に生きる限り決して終わることがないからじゃ。「得るために走りなさい」と聖使徒パーヴェルも言っておろう。ハリストスを得るために、人は生きている限り走り続ける。決して立ち止まることがないのじゃ。走っていても疲れではなく、喜びを感じるのじゃ。

 例を挙げたほうが分かりやすいかの。たとえば、よい猟犬というのは、ウサギのにおいをかぎつけたが最後、ハンターのそばに立っておることが出来ん。走っていってウサギを探すものじゃ。ちょっと立ち止まってにおいをかいだら、また走っていく。一つところにとどまっていることが出来ん。ウサギを見つけ出すことで頭がいっぱいなのじゃ。よそ見をしたりしないのじゃ。立ち止まっているより走っていたほうがうれしい。こういう犬にとって、生きるというのは、走って何かを探すということそのものなのじゃな。

 こんな風に、わしらはいつも覚醒していることが大切じゃ。頭はいつもハリストスの元へ向かうことで占められていなければいかん。なぜなら、それこそがわしらの目標だからじゃ。ところが現実には、足跡は見つけたし、道は分かっているし、ハリストスに会うためにどちらへ向かったらいいかも知っているのだが、わしらはよく同じ場所に立ち止まって、それより先に行こうとしない。もし道を知らないというのなら、少しは言い訳のしようもあるのじゃが。

 いつだったかわしの父のところに、2頭のよく訓練されたボルゾイ犬がいたことがある。ある時、聖アルセニイ聖堂の誦経者プロドモロス・コルツィノグルが、同じ犬種の子犬がほしいと頼んできた。家畜の群れを守って、オオカミが近づいてきたら吠えて知らせる犬が必要だったのじゃ。それで父は子犬を一匹くれてやった。

コルツィノグルの隣人に狩猟が好きな男があったのじゃが、その猟犬が病気になってしまった。狩りに出られないもので、困っておったのじゃ。コルツィノグルはそれを見て、猟に使える犬種だからというので自分の犬を貸してやることにした。隣人はたいそう喜んで、さっそく猟に出て行ったのじゃ。

森に来たところで、よくハンターがやるように手を上げて犬に命令を下した。獲物を探させるためじゃ。ところが犬はどうしたと思うかね?走っていく代わりに、隣人の足元にまつわりついて足をなめ、手のひらに鼻面を押し付けてパンをくれとせがんだそうな。この通り、血統が正しいまことに良い犬なのじゃが、ウサギを探すように訓練されておらん。だからいつもハンターの周りを回ってばかりおるのじゃ。

しかしお前さんがたはきっと、跡を見つけては走っていって、心を満たすためにハリストスを探すに違いないとわしは思うのじゃ。もう心がはちきれそうなほどいっぱいになって、しまいには「神様、もうたくさんです、これ以上は要りません」と言うくらいになるまで、ハリストスの後を追い続けることじゃろう。

(終わり)