ほんとうの(ものいみ)とは
――聖山アトスの長老パイシイとの対話――

 

――斎をすることで、人は自分の意志をおもてに表すのじゃ。何か立派なこと、貴いことをしたいという思いから、修行や禁欲的な生活をしようと心に決めるのが人で、それを神様が助けてくださる。ところが、人はこんな風に斎を考えることもあってな。「あーあ、またあのイヤな金曜日が来た。しょうがない、斎するか」。そうやって自分をいじめることで苦しむのじゃ。

 斎の本当の意味を考え、ハリストスへの愛をもって斎しようとする人は、逆に喜ぶ。「この日、ハリストスが釘付けにされた。水も飲ませられず、酢だけを与えられていたのだ。私も今日は水を飲むのはやめよう」。そういう人は、こんな風に考えるのじゃ。そうやって水を飲まないことで、いちばん上等の飲み物を口にする人が想像すら出来ないような喜びを味わうのじゃ。

 俗人を見ると、聖大金曜日の斎を耐えられない人が多い。ところが、どこかの官公庁の前にでも行ってごらん。ハンガーストライキをやって、食わずにいくらでも座っていることが出来るではないかの。何か要求を通したいという頑固さ、依怙地さから「斎」するのじゃな。こういうのに悪魔が油を注ぐのじゃ。こういう人たちがやっていることというのは、自殺行為じゃ。

 また別の人たちは、パスハ(復活大祭)が来ると、「ハリストス復活!」とうれしそうに挨拶しておるのじゃが、同時に「さあ、これからおいしいものをお腹いっぱい食べるぞ」と思っているのじゃ。こういう人たちは、砂漠で腹いっぱい食わしてもらえるだろうと期待してハリストスを自分たちの王にしようと考えたイウデヤ人にそっくりじゃ。

 預言者が何と言ったか覚えておられるかの?「神の仕事をぞんざいに為す者は呪われる」。人が斎したいと思っているが出来ないということもあって、これはまた別の話じゃ。食べなければ足が震えて立っておられん人だっているのだからの。つまり、斎するだけの力や健康に恵まれておらんということじゃ。いっぽうで、力があるのに斎しようとしない人がいて、これは区別して考えねばならん。どこに善き意志があるというのかね?

 斎したいと思っているのに出来ない人は、がっかりするものじゃ。でも、別の修行でその埋め合わせをすることで、十分力を持って修行する人より多くの褒賞にあずかることが出来るのじゃ。なぜって、修行出来る人というのは、それによってすでに一種の満足感を得ているものじゃからな。

 今日、わしのところに55歳くらいの女の人が来た。斎出来ないと言って泣くのじゃ。夫とは別れ、子供が一人おったが事故で死んでしまった。母も死んでしまったので、その女の人はたった一人、住むところも食べるものもないという境遇におちいってしまった。それで、知り合いがこの人を自分のところに住まわせて、いろいろな仕事をやらせるということで落ち着いたのじゃ。

 この不幸せな女の人は、こう言うのじゃ。「長老様、良心が私を苦しめます。私は何も出来ません。何より悪いことに、私は斎出来ないんです。与えられるものを食べているからです。水曜日と金曜日には、そうでないこともありますが、おおかたは斎に食べてはいけないものを出されます。私はそれを食べざるを得ません。そうでないと力が出ず、立つことすら出来ないからです」。

 「食うがよい。さもないと力が出ないではないかの」とわしは言った。人は自分の状態を観察する必要があるのじゃ。もし力が足りないと感じるようだったら、もっと食べればいいのじゃ。「おのれの限度を知れ」とは、厳しい斎を生涯自分に課し続けた克肖者ニールの言葉じゃ。

――長老様、昔の村で、大斎最初の月曜日から聖フェードル・チロンの土曜日まで何も食べなかった女性たちがあったそうですね。家事や子供の世話、家畜や畑仕事もあったでしょうに、どうやって乗り切ったんでしょう?

――たぶん、自分にこう言い聞かせておったのじゃろう。「本当に斎するのであれば、聖大土曜日まで何も食べてはいけないはずだ」。あるいは、大斎最初の土曜日までなら何とかなるだろう、だって1週間はじきにたってしまうのだから、と考えておったのかな。それとも、もしかするとこう考えていたかもしれん。「ハリストスは40日間斎された。それなら、せめて1週間くらい、私が何も食べられないなんてことがあろうか?」。さらに言えば、この女性たちは根が純粋だったので、こういう斎に耐えることが出来たのじゃろう。人に純粋さや謙遜があれば、神様の恩恵を受けることが出来、それゆえに慎み深く斎をして、神の食べ物で養われる。こういう斎にあって人は神様の力をもって生き、斎の間じゅう「予備の力」を持ちながら耐えることが出来るのじゃ。

 オーストラリアのある27歳の青年は、28日間何も食べなかった。この青年の告解神父が彼をわしのところに寄こしたのじゃ。非常に信心深く、禁欲的な傾向を持った若者でな、いつも告解し、教会に通い、師父の著作を読んだが、特によく読んでいたのが福音書だった。ある時、ハリストスが40日間斎したというところを読んで、おおいに感動したのじゃ。「神であり、人としては罪がなかったわれらの主が40日間斎したのであれば、非常に罪深い私はどうしたらよいのだろう?」

 そこで、告解神父のところに行って斎の祝福を受けに行ったのじゃが、この時、40日間飲まず食わずでいるつもりであることを神父に告げようという考えがなかったのじゃな。

 青年は、大斎第1週の月曜日から始めて、第4週まで斎をした。その間水さえ飲まなかったのじゃ。工場で、箱を組み立てて重ねていく仕事をしていたのじゃが、肉体的にこれはつらい。そしてとうとう28日目、作業の最中にちょっとめまいがしたので、少しの間腰掛けることにした。それからお茶を少々と、乾パンをひとかけ口にした。これで倒れでもしたら、病院に運ばれて、キリスト教徒が斎したせいで死にそうになっているなどと言われるだろうと思ったそうじゃ。

 青年はわしにこう言った。「長老様、これだけ斎をして、私はもう食べ物を見ただけで吐き気がします。でも、食べなければ働けないので自分に無理強いをしています」。

 しかし本当のところ、青年が気に病んでいたのは、40日間斎を耐えられなかったというところにあったので、まずそれを告解神父に打ち明けたのだそうな。神父は気持ちを察して、こう言った。  「28日間斎出来たのだから、それをもって十分と考えなさい。自分を責めないように」。

 それから神父が彼をわしのところに寄こしたというわけじゃが、もし青年にまだ自責の念が残っているなら、それをわしが取り除けてやるようにという依頼だったのじゃ。

 わしとしては、青年の意志が潔いものだったかどうかということを確かめたかったので、まず40日間斎するという誓いでもたてたのかと尋ねた。

 「いいえ」

 「神父のところへ祝福を受けに行った時、40日間何も食わないでいようと思ったことを神父に告げなかったそうじゃが、そういう考えがただ頭になかっただけなのかね、それとも自分の意志で斎を耐えるという『善い』行いをわざと言わなかったのかね?」

 「いいえ」

 「お前さんは善い傾向を持っている。だが、わしが何でこんなことを聞くかといえば、お前さんが耐えたあの28日間の斎で、お前さんは十分天の褒賞にあずかることが出来るということを分かってもらいたいからじゃ。それでもう十分なのじゃ。だから、最後までもたなかったということで自分を苦しめるのはやめなさい。ただ、今度からは、自分の心の中に隠してある善い行いをしようという意志を、必ず神父に告げるように。そこで神父は、お前さんにそういう修行が必要かどうか、あるいは別の修行を行った方がよいか判断するじゃろう」

 この青年は、大いなる謙遜の気持ちを持っていたが、彼がこれまで自分の心の中にそれを育て続けてきたおかげというものじゃ。斎をしようと思い立ったのは、貴いことをしたいという思い、ハリストスのためにという思いからじゃ。だから、ハリストスがご自分の恩恵で彼を支えたのは、いわば当然のことでな。ところが、誰かそういう謙遜を持ち合わせていない者が、同じ事をやろうと思ったとする。そういう人間は、エゴイズムにとらわれておるから、こう言うのじゃ。「あの人間に出来たことが、おれにだって出来ないはずはないじゃないか」。まあ、1日2日は持つが、後はだめじゃろう。神様の恩恵が彼を見捨てるので、智慧も曇らされてしまう。そうなると、何とか耐えられたあの1日2日でさえ、無駄のように感じられてしまう。挙句の果てにはこう言うのじゃ。

「で、何の意味があったんだ、あの斎は?」。

斎する結果、人は生贄の子羊に変わるのじゃ。ところが、獣に変わってしまうことだってある。そんな時、原因は二つに一つじゃ。やろうと決めた禁欲的修行がその人の持てる力の限度を超えているか、あるいはエゴイズムで修行しているので神様の恩恵を受けていないかのどちらかじゃ。

斎といえば、時には野生の動物でさえも手なずけておとなしくさせてしまうものじゃ。動物が飢えている時、人間に近づいてくることがあるが、あれは飢えで死ぬかもしれないことが分かっていて、もし人間のところに行けば何か食べ物にありつける、そうすれば生き残れるだろうと本能的に考えるからじゃ。いつだったか、わしは腹が減って子羊みたいにおとなしくなってしまったオオカミを見たことがある。冬、大雪が降った時、山から下りてわしらの住むところにやって来たのじゃ。わしは兄弟の一人と家畜にえさをやるために出て行ったが、この時わしは燭台を手に持っていた。オオカミを見て、わしの連れは、暖炉から鍋を取り出すのに使う棒でしたたかに殴りつけたのじゃが、オオカミはそれに何の反応も示さなんだ。

人が何かしようとする時、神への愛のために、自分の周りの人たちへの愛のためにやろうと思い至らないのであれば、自分の力を無駄にしているというものじゃ。もし斎するのにおごりたかぶった気持ち、何かえらいことをしているような気持ちになっているのであれば、その斎は水の泡になるじゃろう。そういう人間は、その後穴のあいたバケツみたいになってしまう。穴のあいたバケツに水を注いだらどうなると思う?みな少しずつ流れ出して、結局何も残らないではないかの。

(終わり)