霊的欠点とは何か
――聖山アトスのパイシイとの対話――
――長老様、預言者ダビデは神にこう祈りました。「主宰たる神をもってわれを固めたまえ」。
――ダビデは人々を治める立場にあったものじゃから、神に指導者としての力を賜るようお願いしたのじゃよ。だが、「固められた魂」は誰にでも必要なものじゃ。なぜって自分をコントロールし、欲を治めなければならんからの。
――長老様、霊的欠点とは何ですか。
――欲とは、魂の力だとわしは思う。神は人に罪ではなくて、力をお与えになられたのじゃ。だが、わしらがこの力をよい方へと向けようとするとな、悪霊どもがやってきて自分でそれをあやつろうとする。神様から与えられたはずの力が霊的欠点になってしまう。それでわしらは神様に、こんなはずではないと愚痴をこぼすわけじゃ。
けれども、この力を正しく用いて、悪い方へ抗うように向けたならば、力は逆に霊的生活の助けになるんじゃ。たとえば、怒りっぽさという欠点がある。人間にこの欠点があるとすれば、それは言うなればその人の心に勇敢さがあるということじゃ。勇敢さは霊的生活におおいに役に立つでな。
怒りっぽさがなければ、勇敢さがないということじゃ。すると自分をコントロールするのが難しくなってくる。怒りっぽい人というのは、その力を魂の成長のために役立てようとしている時には、きれいに舗装された道路を走っている高級車みたいなもんじゃ。・・・スピードを上げれば、もう誰も止めることは出来ん。ところが、持っている力を自分でコントロールせずに、まちがった方へ向けようとすれば、荒れた道を猛スピードで走っているようなもので、遅かれ早かれ穴に落ちることは確実じゃ。
人はな、自分が持っている力を自覚して、それを正しく使わなければならんのじゃ。そうすれば神様の助けによって、よい魂の状態を得ることが出来るじゃろう。エゴイズムがあるのだったら、それを悪魔が誘惑する時にあらわして、抗う力とすることも出来るのじゃ。無駄なおしゃべりをする癖があったら、祈りの練習に使えばよい。くだらぬことばかりしゃべって罪を犯すより、ハリストスとお話しして浄められたほうがよいとは思わんかね?人が今よりよくなるか悪くなるかは、持っている霊的力をどう使うかにかかっているんじゃ。
――長老様、「私たちには霊的生活に必要な条件がそろっていない。だから私たちに何を期待しても無駄だ」と言う人がよくいますが。
――親から受けついだ欠点だからどうしようもないと言い訳しておるのは、なお悪いな。
――でも長老様、もし事実その通りだったら?
――まあお聞き。皆それぞれ親から長所と欠点をうけついでおるのじゃ。そこで人間は、欠点を克服するために努力しなければならん。神のお姿を得るため、持てる長所は伸ばさなければならないんじゃ。
欠点は、実は霊的に成長するためのさまたげではないんじゃ。なぜって、人がそれを克服しようと一生懸命にがんばれば、たとえそに努力がちっぽけなものに見えても、それはすでにその人が霊的法則が働くところ、、つまり奇蹟のなかに置かれていることを意味しておる。その時、受け継いでしまった欠点は、みんな神様の恩恵が消し去ってくださるのじゃ。
良からぬ質を持って生まれてしまったものの、一生懸命に霊的修練を積む人、自分の弱々しい羽根を動かして地面から空をめざして飛び上がろうとしている人、こんな人が神様は特に好きでな。そして魂を助けてくださる。わしは、ある程度努力した結果、神様からそりゃあ大きな助けを受けて、重荷になっていたものから解放された人をたくさん知っておる。神様にすればこういう人々はまさに英雄じゃ。だって、そうではないかの。何がわしらを神様へ近づけるのか?古ぼけた人間の皮に勝つためにわしらが力を注ぎ込む努力じゃろう?
――長老様、洗礼は先天的な欠点を帳消しにはしないものですか。
――洗礼で人はハリストスに包まれ、原罪から解放されるのじゃ。そこで神の恩恵が人の中に入るわけじゃが、受けついだよくない素質は残される。まさか神様が洗礼をもってしても消すことが出来ないのか?そんなことはない、消すことだってお出来になるのじゃが、人が自分でその欠点に勝って、しまいに栄冠を得るために努力するよう、わざと残しておくのじゃな。
――長老様、何がしかの欲におぼれてしまう時、こう自分に言い聞かせております「こんな風に生まれてしまったのだ」と。
――それだけかな?たとえば、こう言うことも出来ようが・・・「親が私にあらゆる罪を負わせた、ご先祖の罪がぜんぶ私に丸投げされた」とな。それで才能や美徳はお前さんではなく、ほかの者に逃げていってしまったと?もしかしてそうかもしれんが、だったら何で神様に文句を言うことがあろう?もし人が「おれの悪い性向はもって生まれたものだ、そういう環境で育ったからだ、だから今さら直すことなんて出来ない」と言うのだとしたら、それはつまりこう言っているのと同じじゃ。いいかね?「悪いのは両親だけでなく、神もだ」とな。こんな言葉を聞くのがわしにとってどんなにつらいか、想像出来るじゃろうか?こうして人は自分の親だけでなく、神様をも侮辱するのじゃ。人間がこんな風な思いに取り憑かれた時、神様から受けた恩恵は、もはや消えてしまうのじゃ。
――長老様、心の欠点を正すのは不可能だと言う人達がいますが。
――それは、そう言っていたほうが都合がいいからじゃ。そうやって言い訳が出来るし、欠点を克服する努力のかけらも見せない。そういう者は決まってわしにこう言う。「だって神様が私に才能を恵んでくださらなかったからです。私が悪いはずがありません。どうして私に出来もしないことを要求するのですか?」とな。こうやって逃げ道を作るのじゃ。人は言い訳しながら、自分の都合のいいように生きている。「持って生まれたものは性格ですからどうしようもありません」と言うなら、どうして生まれ変わることが出来よう?そういう態度は魂から勇敢さを奪うのじゃ。
――でも、長老様・・・
――また「でも」か!まったく、何ということじゃろう。ウナギみたいにくねくねと逃げ回りよる。いつも言い訳ばかり考えよってからに!
――私、わざと言ったわけじゃありません。
――わざとじゃないのは分かっておるわ。神様がこんないい頭を授けてくださったというのに、言い訳するのがどんなに悪いことか、何で分からんのじゃ!小さな頭にこんなに智恵がつまっているというのに!
わしはずっと前から気付いておったのじゃが、ある人たちが何で悪いことを正当化するようなことばかり言うかといえば、そうやって自分の霊的欠点の言い訳をしておるのじゃ。逆にある人たちは言い訳するようなことはせん。しかしな、自分の性格に欠点があって、それをどうにも直せないというしつこい考えにいつもつきまとわれている。それで落胆してしまうのじゃな。そんな時、悪魔はどうするか?ある人たちには霊的成長のさまたげになるよう言い訳をさせ、別の人たちには極端な心の感じやすさを逆手にとって絶望に追い込むのじゃ。
霊的欠陥を捨て去るには、人は言い訳するのではなく、謙虚さが必要なんじゃ。たとえば「他人は人を愛することが出来るのに、私には出来ない」と言いつつ、愛を心に育てる努力をしなかったら、どうやって霊的に成長出来るというのかね?戦いなくして勝利はあり得んのじゃ。師父の行伝を読んだことがあろう。最初は罪にまみれていた者が、後で言葉にもならないほどの霊的成長を遂げた例がいくらでもある。たとえば、黒人の聖モイセイはどうじゃ。初めはとんでもない犯罪者だったのが、後でどんな変容を遂げたことか!神の恩恵をもってすれば、このようなことさえ可能なのじゃ。
わしは常からこう思っておる・・・悪い性格を受けついだけれども、後で徳を高めるよう戦った人というのは、汗を流さずして親から徳を受けついだ者より大きな褒賞を受けるはずだ、とな。なぜって、ある人が最初から用意されていたものをただ取っただけにすぎないのに、別の人はそれを得るために大変な努力をしておるからじゃ。だって考えてもみてごらん、親からの借金を背負いながら一生懸命に働いている人がいたとする。借金を返したばかりでなく、自分の財産も作ることが出来たとしたら、世の人の尊敬が集まるのも当然じゃ。親から財産を受けついで、それを守った者より敬われてしかるべきじゃ。そうではないか?
――長老様、私は自分の欲に苦しめられているのです。
――心に欲があると感じるのかの?
――時々は感じます。
――それはいいことじゃ。欲に襲われると、人は謙虚になるでな。謙虚さのあるところに神の恩恵がやって来るものじゃ。
――でも、いつも失敗ばかりするので落ち込んでしまうんです。
――喜ぶがいい。なぜってそうやって謙虚になれるからじゃ。お前さんの中には傲慢さがあるんじゃ。そんな時はこう言うんじゃ。「神様、ご覧ください。私はこんなです。助けてください。もし助けて下さらなかったら、私は自分ではどうすることも出来ません」とな。がっかりなさるな。わしらがへまをすると、わしらの中の本当の人間が目覚めるのじゃ。そこで初めて自分を正そうと努力し始める。失敗はわしらに正しい道を教え、幻想から目覚めさせてくれるのじゃ。わしの弱点や欲が表立って来る時、わしはとてもうれしい。そんなことがなかったら、わしはとうとう聖人にでもなれたなどと思いこんでいたじゃろう。一方で欲の種はわしの心にしっかり残ったままになるというわけじゃ。だからお前さんも、腹が立ったり、人を指さしてあれこれ言ってしまった時など、がっかりするのも当然なんじゃが、そんな時は喜ばなければならんのじゃよ。欠点が目に見えるように現れれば、お前さんはそれと戦わなければならんと思うからの。
――長老様、もし霊的欠点がしばらくの間表に出てこなかったら、それは欠点がもうないということになるのでしょうか。
――もし心の中に残っているなら、また現れて来るじゃろうな。だから、欲があると分かっているなら、よくよく気をつけるがいいよ。たとえば、お前さんの僧房の近くにヘビがひそんでいると分かっていたとする。そうしたらお前さんは、外に出るたびにヘビがいないかきちんと確かめるじゃろう。近くにヘビがいると分かっているなら、何も怖れることはないんじゃ。出てきよったら叩きつぶしてしまえばよいのじゃからの。いちばんこわいのは、いるということを知らず不用意に出て行って、いきなり現れたヘビにかまれることじゃ。わしが言いたいのは何かというと、人が自分の心の状態を把握しておらず、自分の欲について何も知らないのは危険だということじゃ。だが、どんな霊的欠点があるか知っていて、それと戦っているのなら、ハリストスがそれを根絶やしにするよう助けてくださるじゃろう。
――長老様、よい方に変わりつつあるかどうかということは気にせず、あくまで前に進んで行くべきなのでしょうか。もしかして霊的欠点の克服は、私でなく神様にかかっているのでしょうか。
――そうじゃ。神様に自分をゆだねて前に進むのじゃ。ただ、お前さんが今どんな状態で、何が起きつつあるのかいつも注意深く観察することは忘れずにな。お医者だって、病人にどうして熱があるのか、まずその原因を知ってから熱冷ましの薬を処方するではないかの。この瞬間から人は自分の欠点を見ることが出来るようになる。そして、言うなれば「善き心の不安」みたいなものをいつも感じるようになる・・・それは何かといえば、心を改めるための戦いに挑む気持ちじゃ。わしが自分を観察すると、何か欠点が見つかる。克服するように修練を積みながら、自分の状態を分析するのじゃ。「きのうはこんな欠点があった、この欠点はもう克服したようだ、それで今私はどの戦いの段階に来ているのだろう?」とな。それから神様にお願いする。「神様、私は出来ることはやりました。どうぞ私をお改めください。なぜなら私では出来ないからです」。
――長老様、人が自分の欠点を見ることが出来ないということはありますか。
――あまりに感じやすい心を持った人がいると、神様はその人がすぐにいろいろな欠点を知ることがないようお取りはからいになることはある。さもないと、そういう人を悪魔が誘惑しやすいからじゃ。悪魔はこう言う。「お前にはこういう欠点があるな。それで、これこれ、こういうことをしただろう。お前はもう救われんぞ」。挙げ句の果てには、苦しみのあまり精神病院に入ってしまうことだってあるのじゃ。
――人が何年も努力しているのに前に進んでいるような気がしないとしたら、これは何を意味しているのですか。
――もしいくら修練を積んでも成果が見えないのであれば、たぶんそれは醒めた物の見方をしていないのかもしれん。あるいは神様がそれ以上前に進まないよう引き止めているということもありうる。わしらが傲慢に陥って自分を傷つけないようにするためにな。
――長老様、私はますます悪くなっていくような気がするのですが、私はどうなってしまうのでしょう。
――霊的生活には三つの段階があってな。まず始めに、神様がお前さんをキャンデーやらチョコレートやらで喜ばせる。なぜならお前さんの心が弱いからなぐさめが必要だと分かっておられるからじゃ。次に、お与えになった恩恵を少しお取り上げになられる。それは、神の助けがなければ人はわずかなことすら出来ないということをお前さんに分からせるためで、まあ言うなればしつけのようなものじゃ。それで人の中に謙遜の心が芽生え、どんな時でも神様に助けを求めるようになる。そして三段階目は、乱れない、よい心の状態というわけじゃ。お前さんは今二段階目と三段階目の間におるのじゃ。少し前に進めば自分の心の弱さを忘れる。そこでハリストスが恩恵をお取り上げになられる。お前さんは何の支えもなく取り残されてしまう。そしてまた魂の弱さを思い出し、我に返るのじゃな。もしお前さんが、修練を積むごとに私はますますよくなっていきますなどと言ったら、わしは警戒したかもしれん・・・なぜってそれはお前さんの中に傲慢があることを意味しておるからじゃ。だが、ますます悪くなっているというのであれば、すべて軌道に乗って正しく進んでいるということなのだから、喜ぶべきことじゃ。怖れてはいかん。前に進めば進むほど、自分の欠点や不完全さが見えてくる。それは進歩なのじゃ。
――長老様、私が欠点を克服してくださるようお願いしているのに、神様が聞いてくださらないということはあり得ますか。
――何じゃ、わしらの神様がバアル神だとでもいうのかね?神様はいつもわしらを聞いていらっしゃるし、助けて下さっているよ。もしかしてお前さんは神様が助けてくださっていると感じないのかね?そうしたら悪いのは神様じゃなくてお前さんじゃよ。自分の傲慢で助け舟を追い払っておるのじゃからの。
神様の助けがうぬぼれの原因になるかもしれないという危険がなければ、神様が助けてくださらないなどということはあり得ないんじゃ。神様はわしらが欲から逃れることを望んでおられる。だが、わしらの中に傲慢やその下地になる材料があると、わしらは自分の力で欲を克服したなどと思ってしまう。そうならないように、神様がお助けにならないことはある。
だから、欲から自由になりたいと心から強く願って神様にお願いしているにもかかわらず助けを受けられないのであれば、こういう欲の後ろにもっと大きな欲、つまり傲慢が立っているということになる。わしらには傲慢が見えないものだから、神様は相変わらずわしらを別の欲――たとえば大食だの無駄口だの怒りといったものに任せておいでになる。何度も欲につまづいて倒れる時、わしらは初めて欲を憎み、自分の魂が病んでいると理解し、謙虚になっていく。そこでやっと神様からの助けを得ることが出来る。後は霊的成長の階段を、一段、また一段と登り始めるのじゃ。
――長老様、私はあらゆる欲でいっぱいです。
――そうじゃな。お前さんの中には確かに霊的欠点が多い。だが、まだ若いではないかの。勇気はあるし、自分の庭からとげだらけの枝を取り払って、ユリやらヒヤシンスやらバラを植えて、後々眺めて楽しむ苦労に耐えるだけの力はあるはずじゃ。まだ若いうちというのは、霊的欠点というのも若芽のようなものでな。取り除くのにそれほど苦労はいらないのじゃ。雑草だって、まだ大きくならないうちなら簡単に引っこ抜くことが出来るけど、成長したら抜くのは簡単なことではない。イラクサをご覧。初めに出てくる若葉は、触ってみるとバジリコみたいに柔らかいじゃろう。若いうちなら手で触ることだって出来るのじゃ。だから、お前さんがまだ若いうちに欲を根絶するよう努力することじゃ。そのままにしておくと、いろいろなわがままに心が支配されてしまう。そうなってしまったらもう克服するのは難しいじゃろう。
若いうちに自分の霊的欠陥を克服しなかった人間というのは、老いてから非常に苦しむことになる。なぜなら欲も年とともに老いていくので、だんだん矯正出来ない習慣みたいになっていくものじゃ。年を取ると、自分の霊的欠点に愛着さえ出てきて、自分を甘やかすようにもなるし、意志の力は弱る一方じゃ。欠点と戦うのはますます難しくなっていく。若いうちというのは人はもっとエネルギッシュじゃからの。そのエネルギーを欲を克服することに傾けたら、大成功は疑いなしじゃ。
(終わり)