自己愛とは何か

――聖山アトスのパイシイとの対話――

 

――長老様、自己愛とは何ですか。

――自己愛とはな、人間が古ぼけた自分にこだわりを持つこと、つまり古ぼけた自分をよけいに愛することじゃ。腹いっぱい食ったり、自分勝手だったり、頑固、ねたみ、みんな自己愛から来ておるのじゃよ。ある者は便利さや快適さを求めて、他の人のことは考えもしないものじゃ。またある者は自分の健康にこだわりすぎるあまり、睡眠やら食べ物やらの決まりで頭がいっぱいだったりする。またある者は、周りが認めて評価してくれることばかり要求している。ちょっとでも傷つくようなことがあれば、すぐに憤慨しよる。「何でおれのことを認めてくれないんだ?どうするか見ていろ!」ってな。いやはや、自己愛とは恐ろしいものじゃ。

 

――長老様、どうして人が「爾のために我を殺さん」などと言えましょうか。

――言えるとも。他人のために自分の欲望を犠牲にすればな。どんな望みも、結局は「自分」、つまり自己愛を反映しておるのじゃ。自分がいいと思うものが、必ずしも他人の気に染むとは限らない。それを考えないでいると、あれが欲しいこれが欲しいと要求したり、「どうしてみんな私に○○をしてくれないのか、××を与えてくれないのか?」などと考えるようになる。こういう人間はゆくゆくは悪魔の手に落ちるのじゃ。

 

――自分の思い通りに事が運ばなければ気がすまない人々がいます。

――気がすまないのも当然じゃ。なぜって、何を望もうにもその中に「私」が陣取っておるのじゃからの。「私」ががんばっておる所に、ハリストスのおられる場所はあるかの?しかし「私」がたった独りの主ハリストスに場所をゆずれば、必要なものはすべてそろったと言えるのじゃよ。逆に言えば、ハリストスのおられぬ所にはなにもない。人が「自分」を捨てるとき、神は驚くべき方法ですべてを人に与えられるのじゃ。

 

――長老様、「自分」を捨てなければならぬとおっしゃいますが、それを考えるとこわくなります。もし私がそれに耐えられなかったら?

――何ということを!そりゃお前さん、「もし私が自分の霊的欠点をすべて捨てたら、後は何が残るだろう?」と言っているのと同じじゃよ。「自分」というのは、霊的欠点のことじゃよ。古ぼけた人間の皮を脱ぎ捨てることを意味しているのじゃ。分別のある大人が「『自分』を捨てることは出来ません」と言うのはおかしいのではないかな。もちろん、筆しか握ったことのない人間にくず鉄のかたまりを渡して「この壁を壊してみよ」と言ったら、「出来ない」と言うじゃろう。しかし古ぼけた人間の皮を捨て去るのに力は必要ないんじゃ。必要なのはあきらめじゃ。

自己愛というのは、必要以上に食ったり休んだりすることをいうのじゃ。健全な意味で、身体には必要なぶんだけ与えればよい。欲望と必要は区別しなければいかん。欲望とは体を甘やかすことで、必要とは不可欠なものじゃよ。たとえば、わしの前に料理が二皿あるとする。どちらも同じようにビタミンが豊富じゃが、一つはおいしいもので、もう一つはそれほどでもない。もしおいしいほうを好んだら、それは自己愛になる。だがもし病気で食欲がないところへそれを増す必要があるからうまい料理を取るのだとしたら、それは思慮深い判断じゃ。

 師父マカリイが言うように、体というものは「悪い集税吏」でな。必要以上に要求するのじゃ。それは今までの習慣にどれだけ体が慣らされているかによるがの。小さい胃袋の持ち主は斎(ものいみ)するのは簡単じゃろうが、胃袋が大きければ人はその奴隷になってしまう。いつも何がしかの食べ物で胃を満たさねばならんからな。たとえば、こんな人がいるとする・・・その人の胃袋は倉庫みたいなもので、少なくとも子牛を半頭食べなければ気がすまん。で、食後はバケツ2杯分の水を飲む。

 

――長老様、昔の人はどうでしたか。体は今の人より丈夫だったのではないですか、それとも自分を甘やかさなかったのでしょうか。

――そりゃもちろん、頑丈だったし、自分を甘やかさなかったよ。長老ハッジ=ゲオルギイは修道士たちに毎日クルミと蜂蜜を少しやっていた。だって修道士は15歳やそこらで、まだ若い。成長しなければならない大切な時じゃ。ところが霊的にはまったくの大人だったのじゃよ。今はどうか?みんなこの世の論理に振り回されておるではないかの。「子どもたちには斎させる必要はありません。病気になったりしたら困りますから。不足を感じることがないように、困ったことからは守ってやらなければなりません」。かわいそうに、子どもたちはハンバーグやらトンカツばかり欲しがるが、それが何か彼らによい結果をもたらしておるかの?

 ハリストスのために食べない者は、真の意味で自分を養っておるのじゃよ。もしハリストスのためにうまい料理よりまずいものを取るのだとしたら、それはまずいものを通してハリストスで自分を養っているということになる。

 

――長老様、今日教会で、お年寄りがやっとのことで階段を昇っているのを見ました。脇を通り過ぎていった人も多かったのに、誰も助けてやろうとはしませんでした。

――「祭司は・・・彼を見たが向こうを通っていった。そしてレビ人も・・・これを見たが向こう側を通っていった」ということかな?まったくその通りじゃ。福音書の善きサマリヤ人のことを知らないし、聞いたこともないのじゃな!言うべき言葉もない。他人ではなく自分を愛しているというわけじゃ。自己愛は他人への愛を滅ぼす、だからそういうふうに行いに現れてくるのじゃよ。しかしな、自分を愛する者は、福音書の心で生きてはいない。もしハリストスがご自分のことだけお考えになっておられたとしたら、天から地には下りて来られなかったじゃろう。わしらの救いのために苦しみをお受けにはならなかったじゃろうな。

 きょうびほとんどの人間が自己愛を持っておるが、犠牲の心はない。「せめて自分さえよければ」という精神が支配しておる。周りの人々を見回せば、つらくなるばかりじゃ。近頃、病院でこんなことがあったよ。病人を起こして別の病室に移してやる必要があったのじゃが、看護師は腰を上げようともせんのじゃ。「出来ません。私は腰痛持ちですから」などと平気で言ってのける。それが自分の仕事であるにもかかわらずじゃ。なんとまあ、非人間的なことじゃろう!ところが身重の看護婦が同僚といっしょに病人を起こして運んでいったよ。彼女たちは自分のことは考えになかったのじゃ。一人など、大事な体だというのに、それも忘れてすぐさま助けようと走り寄ってきた。こういう、つらい立場にありながら他人のために自分を犠牲にする人を見ると、わしは本当にうれしい。心が躍るような思いがするし、親しみを覚える。なぜならそういう人は神に近いからじゃ。

 

――長老様、今日はずいぶん大勢の人があなたを待っておりましたが、一人の若い男性が列に並ばずに入っていきました。

――そうとも、入ってきてこう言うのじゃ。「あなたにお目にかからなければなりません。私はアテネに行きましたが、おられなかったのでここに来ました」

 「よかろう、」とわしは言ったさ。「で、お前さんは見えんのかね、みんな待っているのを?他の人達をさしおいてお前さんの相手だけしていていいものじゃろうか?」

 「父よ、その通りです」とまあ、こう言うのじゃ。まったく、どういうことじゃろう!みんな立って待っておる。すし詰め状態じゃよ。病人やら子ども連れの女性やら・・・ところがこの男は自分の要求を通そうとするのじゃ。それで、何か深刻な問題でもあるのかと思ったら、何やらつまらんことを持ち込んで来よった。いちばん大事なのは自分で、他人など滅ぼうがおかまいなしというわけじゃ。

 

 こういうこともある。「父よ、今日は私のためだけに祈ってください。他の人達のことは祈りませんように」。こんな要求があっていいものかね?「この列車に乗るのは私一人だけ、他の人が車両に入らないように」と言うのと同じじゃ。列車はどっちにしても出発する、それなら他の人達もいっしょに乗っていっておかしいわけがなかろう?

 

――長老様、ハリストスのみ言葉「自分の魂を救わんとする者は、これを滅ぼさんとす」はどう解釈したらよいのでしょう。

――自分の命をよい意味で「滅ぼす」ということさ。自分の命を勘定にいれず、他人のために犠牲にするというわけじゃな。聖使徒パウエルも言っておろう、「おのれの益を求めず、他者の益を求めよ」とな。ここに霊的生活のみなもとがあるのじゃ。よい意味で自分のことを忘れて他人とまじわり、苦痛や困難を分け合うことじゃ。どうやって困難を避けるか、その方法を探すのではなく、他の人を助けてなぐさめてやる方法を考えることじゃ。

 

――長老様、そのためには何が他の人に必要か考えなければいけませんが、どうしたらよいですか。

――他人の立場に自分を置いて考えてごらん。そうしたら何が必要か分かるじゃろう。自分の殻の中に閉じこもっておったら、他人が何を求めておるか分かるはずもないからな。

今は多くの人が、どうやったら他人の場所に座れるかということばかり考えて、自分を他人の居場所に据えてみるかということはてんで考えもせん。領聖の時によくあることじゃが、他人を押しのけて聖杯に近づこうとする。「私は急いでいる、用事があるんだ」とそれぞれが考えていて、「私は領聖するにふさわしい人間であろうか?」とか「もしかして私より急いでいる人がいるかもしれない」などと考えておるかの?とんでもない!領聖して、平気な顔で出ていくのじゃ。万が一ご聖体がお前さんのぶんだけ足りなかったとしても、お前さんはそれを喜ばなければならん。それは誰か他の人がご聖体にありついたことを意味しているからじゃ。司祭の手のなかにたった一つのご聖体、たった一つの真珠が残ったとして、それをお前さんではなく、領聖する必要のある瀕死の病人が受け取ったとしたら、どうして喜ばずにいられよう?ハリストスがわしらに望んでおられるのは、実はこのことなのじゃ。こうしてハリストスが心にお入りになり、人を喜びで満たすのじゃ。

 

――長老様、私は姉妹のうちの一人とうまくいっておりません。

――それはな、多くの人は他人が自分を圧迫していると感じるのじゃが、実は自分が他人を圧迫しているということが見えないんじゃ。他人に要求はするが、自分に対してはどうかの?霊的生活というのは、このように逆に考えなければならん。わしらがこの世に生まれたのは、休んだり、便利に快適に暮らすためかの?陽気に楽しく暮らすためではなく、自分を浄めて、来る別な人生に向けて準備をするためじゃ。そうではないか?

もしわしらがいつも自分のことばかり考えて、好きなことばかりしていたとしたら、じきに他人もわしらのことを考え、仕え、助けてくれるよう求めるようになるじゃろう。つまり、自分がよければいいということじゃ。「私はこうしたい」と一人が言えば、「私はああしたい」と別な者が言う。おのおのが自分の好きなことを追うが、心はいつまでたっても落ち着かない。なぜなら、本当の平安は、人が自分のことでなく、他人のことを考える時に訪れるからじゃ。

1941年、ドイツ軍に占領されておった時、多くの村が焼き払われたり、人々が殺されたりしておった。わしらはコニーツァから山の方へ疎開したんじゃ。ドイツ軍がコニーツァに侵攻した日、わしの兄弟二人は山を下りて、トウモロコシ畑の土を掘り返しに行っていた。わしはその知らせを聞いて母のところへ飛んでいった。「お母さん、下に行ってお兄さん達に危険だって伝えてくるよ」。母はわしを行かせようとしなかった。なぜなら周りが言うに、いずれあの二人はだめだろう、だったらせめてこの子だけは引き止めておけ、さもないと子供を皆失うことになる、ってな。「そんなことがあるものか」とわしは思い、長靴をはいて外に飛び出した。あまり急いでおったもので、長靴のひもをきちんと結んでおかなかったんじゃな。撒水したばかりの畑でぬかるみにはまって、長靴だけすっぽ抜けてしまった。わしは靴は放っておいて、はだしで川沿いに走っていったのじゃが、そこはアザミがいっぱい生えておったのじゃよ。1時間近く夏の暑い中、トゲだらけの草の中を走って、何の痛みも感じなかったな。畑に着くと兄弟に大声で「ドイツ軍が来たぞ、早く隠れて」と叫んだよ。そこへ武装したドイツ軍の兵士が近づいてくるのが見えたんじゃ。「畑を掘るのを続けて。僕はトウモロコシを間引きするふりをしているから」とわしは言ったんじゃ。ドイツ兵は脇を通っていったが、何も言わなんだ。後で自分の脚を見たら、トゲで傷だらけになっておった。その時まで痛いなんてことさえ感じなかったのじゃ。このときの喜びといったら!自分を犠牲にした喜びじゃ。自分の兄弟を見殺しに出来るかの?もし彼らに何か起こっていたら?その時はわしの良心が苦しめたじゃろう。たとえわしに良心がなかったとしても、自分を正当化して言い訳する苦しみに苛まれたじゃろうな。

 

――長老様、どうして私の心は時々しか平安を感じないのでしょう?

――お前さんがまだ「自分」、古ぼけた人間の皮から脱皮していないためじゃよ。「自分」を殺すように努力してごらん、でないとそれはお前さんを滅ぼしてしまうよ。自己愛があると、心の平安を感じないものじゃ。なぜって内側では囚われの身になっているからな。そういう人間は何をしようにも、どこに行こうにもまるでカメみたいなものじゃ。カメが自分の頭を自由に出し入れ出来るかの?だいたいは甲羅(こうら)の中に閉じこもったままじゃろうが?

 

――理屈の上では私は自分をよくしようと努めているのですが、実際には・・・

――実際には難しい、と。ほら、こんな風にして古ぼけた人間の皮がわしらを圧迫するのじゃよ。だが、もし健全な判断をもって克服するよう努めれば、それはわしらを解放する。その時霊的生活は空中高く飛躍するのじゃ。

 

――長老様、地獄とはどんな風ですか。

――わしが聞いた話をしよう。ある無学な男が、天国と地獄を見せてほしいと神様にお願いした。そしてある晩、夢の中で声を聞いたんじゃ。「さあ行こうではないか、お前に地獄を見せてあげよう」。男はとある部屋の中におった。まん中にテーブルがあって、周りに人が大勢座っておる。テーブルの上にはなべがあって、料理でいっぱいじゃ。ところが皆飢えておる。柄の長いスプーンで食べ物をすくうのじゃが、口に持っていくことが出来ん。だから不平を言ったり、わめいたり、泣いたりしておるのじゃよ。そこでまた声が聞こえた。「今度は天国を見せてあげよう」。男はまた別の部屋に連れて行かれたが、同じようになべの乗ったテーブルがあって、柄の長いスプーンを持った人々が座っているのも同じじゃ。だがここでは皆腹いっぱいで楽しそうじゃ。それもそのはず、おのおのがスプーンで食べ物をすくうと、別の者を食わせてやっていたからじゃ。これでもうお分かりじゃろう、この世でどうやって天国を感じることが出来るか?

 善を為す者は、神のなぐさめを受けているのでうれしいのじゃ。悪を為す者は苦しむ。この世の天国がこの世の地獄に変わってしまう。もしお前さんの心に愛や善があれば、どこに行こうが何をしようが、天国を持ち歩いているようなものじゃ。もし心に欲や憎しみがあったら、それはお前さんの中に悪魔がおるということじゃ。それだからどこに行こうと何をしようと、地獄がついていくじゃろう。こうしてわしらはこの世にあってもう天国と地獄を体験するのじゃ。

(終わり)