どうやって霊的弱点から逃れるか
――聖山アトスのパイシイとの対話――
――長老様、どうして私はいつも食べ過ぎてしまうのでしょう。
――なぜならそこがお前さんの弱点だからじゃよ。悪魔は守りの弱いところをまず攻めるもので、守りの固い場所には近づかないものだからの。悪魔はまたこうも言う。「もしここを攻め落とすことが出来たら、ほかのところも少しずつ奪い取っていこう」とな。だから弱点はしっかり固める必要があるのじゃよ。
――自分の欠点のことを考えると、どうしたらいいか分からなくなります。
――うろたえたりこわがったりしてはいかん。一番大きな欠点を克服することから始めて、それから一つずつ弱点に打ち勝っていくのじゃ。まずは理屈よりもしっかり腰を据えて、一番深刻で、目につきやすい欠点を滅ぼすことから始めるのがよい。太い根っこが枯れ始めると、周りの細い根っこもじきに枯れていくもので、それと同じ事じゃ。もっとも大きな弱点を滅ぼせば、それといっしょにほかの小さな欠点も絶えてしまうじゃろう。
――長老様、私はいつも自分の欠点と真剣に戦おうと思っているのですが、結局何もしようとしません。なぜなのでしょう。
――何だってお前さんはすぐに全部解決しようとあせるのかの。欠点というものは高徳と同じで、一つの輪っかになっているのじゃよ。一つの欠点がもう一つと結びついているように、徳も別の徳とつながっていて、まあ、列車の車両みたいなものじゃな。もしお前さんがある弱点と戦って、自分の心の中にその欠点と正反対の徳を育ててみたとしたら、しまいにはお前さんが戦いに勝つじゃろう。そうやって一つの弱点から逃れれば、結局は別の弱点も克服することが出来、それと同時にお前さんの心に徳は増していくばかりなのじゃよ。
たとえば、お前さんがねたんでいるとする。ねたみと戦って、自分の心に愛や善い行いを育てれば、ねたみばかりでなく、同時に怒ったり、人を議したり、憎んだり、悲しんだりすることから逃れることが出来るのじゃ。
――長老様、欠点や悪習はすぐに全部切り捨ててしまうのがよいですか、それとも少しずつ克服していくのが賢明でしょうか。
――もちろん出来ればすぐに切り捨てるのがよい。でないと大きくなるいっぽうじゃからの。ここで手をこまぬいていてはいかん。冬に川渡りをすることを考えてみるがよい。凍えてしまわないうちにさっさと渡ってしまおうとするではないか。誘惑もそれと同じで、ためらいは無用じゃ。
――長老様、シリアの聖イサークはこう言いました。「弱点がない状態というのは、誘惑を感じないのではなく、誘惑を心に容れないことである」 このような状態を勝ち得た人が、誘惑の前で困難を感じることはありますか。
――それはあるかもしれん。ただ、悪魔が何をしようとしても、すべて修行者の中に燃えている神の炎がそれを焼き尽くしてしまうじゃろう。悪魔は人を誘惑することを止めようとはしないが、敵の誘惑を心に受けとめなければ、その時心は浄められ、ハリストスがお入りになられる。人の心は「燃え尽きることのない柴」、窯に変わる。何が心に入り込もうと、焼き尽くされてしまうのじゃ。
――長老様、誘惑と戦う気持ちを起こさせるには、神への感謝の気持ちだけで十分ですか。
――それだけでは十分ではない。善い意志と、自分の罪深さを自覚すること、そして一生懸命修練を積むことが不可欠じゃ。
――死を思うことは霊的行いの助けになりますか。
――非常に助けになるとも。神に望みを託しながら死について考えると、この世の空しさがよく分かる。そして霊的な助けを得ることが出来るのじゃ。だから神の裁きに思いをはせなければならん。わしらが悔い改めなかった罪の責任をいずれ負わなければならないということを忘れてはいかんのじゃよ。「私は何をしているのか?どうして喜びを感じずに生きているのか?今死んだとしたら、私はどうなってしまうのか?私が死と契約を交わしたとでもいうのか?大人も子供も関係なく死んでいるというのに?神がもうすぐご自分のもとに私をお呼びになるとすれば、その時はもう罪を犯すことはないだろう」。
弱点を根絶やしにするには、死、最後の審判のことを考え、自分がどんなに努力しているかをハリストスにご覧いただかなくてはならん。だってハリストスがわしらを救うために大変苦しまれたのだからの。誘惑との戦いというものは、ハリストスの愛のもとに神の掟をまっとうするための甘美な受難と同じ事なのじゃよ。すべての欠点に打ち勝ってハリストスを侮辱するよりは、英雄的に死んだほうがましというものじゃ。
――長老様、私は戦うのがつらいのです。
――指からとげを抜き取るのは痛いものじゃが、自分から欠点を引っ張り出すのはそれよりもっと痛いものじゃよ。覚えておくがいいよ。人が誘惑を切り捨てようと努力している時、誘惑は人の前につまずきの石を置くものだから、人はものすごく苦しむ。それこそ悪魔憑きみたいに苦しむが、それは悪魔と戦っているからなのじゃ。けれどもやがて悪魔憑きは自由になるのじゃ。
自分を浄めるというのは、ボタンを押すように簡単にはいかんものでな。自動的に、何の苦労もなしに得られるものではない。木を切り倒すのと同じで、霊的欠点もすぐには切り捨てることが出来ん。のこぎりで幹を切るのに長いことかかるではないかの。しかもそれでおしまいではないのじゃよ。丸太から家具を作るのに、どれだけ苦労しなければならんことか!まず丸太を切って、板にして、職人が時間をかけて磨いて、それから家具にしていく。
――もし、そのような努力が必要だと私が思わなかったら?
――その時は、切り株のままでいるじゃろう。そしてしまいには火に投げ込まれるじゃろうな。
――長老様、私は毎日自分に言い聞かせております、「さあ、明日から祈りを始めて自分を改めよう」。でも何もかもが今までのままです。
――神の前に立ち、こう言うことじゃ。「神のお力によって私は務め改めます」とな。そうしたら神はお助けくださるよ。お前さんが自分を改めたいと思うのは、つまり、助けを得るということと同じじゃ。神に助けを求める――すると神はお前さんに手をさしのべてくださるじゃろう。お前さんは、自分に出来るほんのわずかなことをする、そうやって前に進んで行く。赤ん坊が自分の手で大きな石を動かそうとしているのを見たら、誰でも飛んで行って助けてやるじゃろう、そう思わんかの?神も同じで、お前さんの小さな努力をご覧になれば、勝利する事が出来るよう助けてくださるのじゃよ。
自分を改めようと何の努力もしないで「わがハリストスよ、私の中にこのような欠点があります。あなたはそれを取りのけることがお出来になるでしょう。どうぞ私を逃れさせてください」と言う人間がおるが、神がどうやって助けることが出来るじゃろう?神が助けるには、まず人が努力する必要があるのじゃよ。神が助けてくださるためには、人が自分でしなければならないいくつかの事柄があってな。自分を助けたいと望んでもいない者が、助けを受けることなどありはせんのじゃよ。
わしらは、時には不思議な方法で神の恵みと贈り物とを受けることがある。戦いもしないで何がしかの徳を得ることが出来て、聖人になれるかもしれんなどとさえ思いがちじゃ。しかし、神が何かをお与えになるには、わしらは努力しなければいかん。それなしにどうやって神が何かを与えることが出来るかの?トロパリで歌われているではないか、「不毛の荒野を耕せり」と。神が雨を賜い、土を柔らかくする。けれどもわしらは自分の畑を「耕さなければ」ならんのじゃよ。土地の準備が出来ても、鍬を入れて種をまかなければ何にもならん。種をまいたぶんだけ刈り取ることが出来る。耕さなければどうして種をまくことが出来るかの?もし種をまかなければ、どうして刈り取ることが出来る?それだから、神が何をお出来になるかと尋ねるのではなく、自分が何を出来るのか、それを自分に問わねばならん。ハリストスという名の銀行は、そりゃあ利息が高いのじゃよ。だがこの銀行にわしらが口座を持たなかったら、どうやってそこから金を受け取ることが出来るじゃろう?
(終わり)