おやじ こごと
生きることをとらえ直してみたい人のために
キリスト教は文化でも学問でもありません。宗教ですらないかも知れません。生きる力そのものといってよいでしょう。
「生きる力」…、そう、この力が私たち一人一人から、家庭から、社会から枯れ果ててしまったのではないだろうか、昨今の世相やいたましい出来事を耳にするにつけ、そんな疑問にとらわれます。
教会には、うけいれられようと、しりぞけられようと、キリスト教という「生きる力」をうむことなく伝える責任があります。
「信仰」の敷居をまだまたがずにいる、たくさんの「生きたい」人々、「生きなければならない」人々に少しずつメッセージを積み重ねていきたいと思います。
くよくよするなよ | 98/4/9 | 神の赦し |
ただでくれるはなし | 98/4/9 | ギブ・アンド・テイクから解き放たれて |
異議申し立て | 98/4/13 | ラザリの復活 |
もうすぐ春ですね | 98/4/1 | 宗教学者は復活を |
あなたがたはなぜ生きた方を死人の中にたずねているのか | 98/4/13 | 復活について |
したいことから、しなければならないことへ | 98/5/6 | 「自己実現」? |
人間って何? | 98/5/24 | 猿が祈ったら… |
テレビのスイッチ切るみたいに | 98/5/24 | 死。こわい! |
ぞっとする話 | 98/5/24 | ボケたらどうしよう |
自分に厳しく人には寛大 ほんとかな? | 98/6/12 | かっこよすぎるんじゃないかい? |
「役に立つ」の呪縛 | 98/6/12 | 神さまの「役に立てる」と思ってるの? |
「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」 | 98/6/12 | 信仰とは何か |
幸せになる努力 | 98/7/10 | 怠っていませんか? |
御飯を食べなければ生きられない | 98/7/10 | キリスト教の極意です |
たまに会う人に微笑むのは簡単 | 98/7/10 | 最も近いところから愛を |
「神さま」なんて言ってくれるな! | 98/7/10 | くやしいけど、でも神さま |
風を見て恐ろしくなり… | 98/7/31 | 「新しい人生」へのおびえ |
孤独を愛する人・群れていたい人 | 98/8/28 | ほんとのところは? |
恋していますか、青年たち | 98/8/28 | 信仰のエネルギー |
人さまに迷惑かけない限り | 98/8/28 | 「援助交際何で悪いの?」 |
仏教のお葬式・キリスト教のお葬式 | 98/10/6 | お葬式に見る救済観の違い |
人は何かを信じなければ生きられません | 98/10/6 | 神が信じられないならお金だって |
クラクション一つで | 98/10/6 | 憎悪と怒りのエネルギー |
ディズニーランドの秘密 | 98/10/6 | 私たちは消費者(カモ)です |
今井さん、大丈夫ですか? | 98/10/6 | 孤独は自由の代償か? |
人のせいにする人生 | 98/11/11 | 苦しみにどう耐える |
モグラたたき | 98/11/11 | よい人間になる努力? |
「自分に忠実に」 | 98/11/11 | 誰も疑わないけど… |
生きてれば、つらいこともあれば、楽しいこともある | 98/11/11 | そんなにのんきにしてられる? |
バージンが子ども産むなんて信じられる? | 98/11/11 | もうすぐクリスマスですね |
ナイフ | 99/1/7 | 神のナイフ |
キリスト教は独善的か? | 99/1/7 | そんなこともあったけど… |
パクリ | 99/1/7 | 近所の天理教会の掲示板から |
「恋愛小説家」 | 99/1/7 | 恋の真実 |
「誰がそう言ったの?」 | 99/1/7 | 映画「34丁目の奇跡」から |
天国に個室はありません | 99/2/9 | 一人だけでごちそう食べたい? |
もうどうにもならない | 99/2/9 | 死にたいほどの落ち込み |
「夢が持ててこそ人間的」? | 99/3/18 | そんな正教会、嫌い? |
「ダメ」の終わり | 99/4/9 | 復活祭の賛歌、その意味 |
あいまいさに耐える | 99/5/26 | 「敵を愛する」初めの一歩 |
祈っても答えが出ないとき | 99/6/20 | 参考になるかな? |
「たった一人で神に向かい合う」? | 99/7/15 | 有名な哲学者に ちょっといちゃもん |
「自分さえ正しければ」 | 99/8/14 | 自分だけの正しさって、ありますか? |
自己嫌悪の逆説 | 99/9/10 | 自惚れの裏返し? |
高いところに | 99/10/16 | せっぱつまったら |
最初で最後の愛の業 | 99/11/14 | 「記憶」すること |
衆罪人の内我第一なり | 99/12/17 | 第一ってのはねぇ |
福寿草 | 00/1/22 | 人間の気高さ |
望みひとつで | 00/2/22 | 「受け入れられない」この世で |
神さまの悲しみ | 00/3/19 | 「ねたむ神」? |
変わらない? | 00/4/26 | クリスチャンなら |
せめて… | 00/5/27 | ある「傲慢」 |
深い知識とするどい感覚 | 00/6/30 | 愛を空回りさせないために |
愛される愛 | 00/7/23 | 愛を可能にするもの |
踏みとどまる | 00/9/24 | むかつく思いを |
いきかた本 | 00/9/24 | いろいろでているけれど |
善悪を知る木 | 00/10/22 | 自分でやる、と決めたときから |
せいぜいこんなもの | 00/11/12 | 己を知れ? |
同じです | 00/12/17 | ハリストス・特別の贈り物 |
喝采 | 01/01/23 | ♪うたいなさーい |
不条理 | 01/03/17 | 納得できない! |
バラード | 01/03/17 | ♪あなたがほしい |
筋を通す | 01/04/8 | 何か解決しますか? |
しあわせ | 01/05/29 | むごいほどの不公平 |
抗議 | 01/06/20 | 冥福を祈りつつ |
ほんとうの人間になりたい | 01/07/31 | インストールされた愛 |
底つき | 01/08/29 | 希望に通じる絶望 |
パスカルの原理 | 01/09/26 | 対するは「寅さんの原理」 |
時間切れ | 01/10/30 | 「特定の宗教」嫌っていると |
きれいなちからが | 01/11/30 | しんどいだろうな |
まあ、いいか | 01/12/16 | 猫も杓子もクリスマスだけど |
苦しいときの神頼み | 02/01/30 | イケナイの? |
ダイエット | 02/02/19 | 焦らないで |
祈りに興じる | 02/03/31 | かたちの中で |
超訳 金口イオアンの説教 | 02/04/30 | おこられやしないさ |
自己イメージ | 02/05/31 | 「うそ、と思うでしょうが」 |
神さま好み | 02/06/30 | このコツコツに耐えられない者が |
ケチな野郎 | 02/07/30 | 文句ばかりの人生 |
ほんとうにカッコイイのは | 02/08/20 | いつでもやめられるモード |
こんにちは | 02/09/30 | 平安が欲しいなら |
祈り | 02/10/31 | 怒りを悲しみに |
名前 | 02/11/30 | 愛は具体的 |
かまう | 02/12/14 | 縁を切ってくれない |
祈りのかたち | 03/01/30 | 上向いて悩める? |
死にたいんじゃなくて | 03/02/28 | キリスト教のウルトラC |
満腹 | 03/03/30 | ひもじくなると |
喜び | 03/04/30 | 悲しくてもうれしい |
謙虚に耳を | 03/05/31 | ケンカの時でも |
テーラー・ウスイ | 03/06/29 | こういう人にこそ |
営業成績? | 03/07/31 | かけがえのない者とされる喜び |
ただ一つの答え | 03/08/31 | 依然として「不思議」のままに |
怒る者 | 03/9/30 | 怒りにはまだ… |
キョトン | 03/10/31 | 「いじわるばあさん」笑える? |
はじめに「自己中」あり | 03/11/30 | すててこそ |
嫌な奴 | 03/12/19 | 誰が殺しているのか |
「世界は美しい」 | 04/01/31 | どうして? |
裏技 | 04/02/29 | 人をさばかないですむための |
赦さない権利 | 04/03/31 | とんだ自己撞着 |
正直に言いましょう | 04/05/05 | 職場復帰できるかな |
足るを知るな | 04/06/03 | またまた逆説? |
死をいのちに | 04/06/29 | 殉教? |
同じ病 | 04/07/30 | 同病相憐れもうよ |
無責任な助言 | 04/09/01 | ぶちまけてはならないもの |
ギリシャにありがとう | 04/09/30 | オリンピック一番の感動 |
名せりふ 二つ | 04/10/31 | 前にしか進まない |
ああ、よかった | 04/11/30 | 神なしでは |
籠城 | 04/12/30 | いつまですねる |
たましいの怠け者 | 05/01/31 | 知性の怠け者というなら |
名古屋弁丸出し | 05/03/01 | イイススもきっと |
すべてはつまみ食いから | 05/04/01 | 人間のしくじり |
「パッション」 | 05/04/23 | ウーン、どう評価すべきかな |
だいそれたこと | 05/06/01 | 逆説的ですが |
いのちのことば | 05/06/30 | 聖書は「教え」の本? |
ふとっている者 | 05/08/1 | つっかえて |
ピーマン | 05/08/31 | 最高の賛辞 |
やくにたつなら | 05/09/30 | 偽善の呪縛 |
しゃがんでみませんか | 05/10/31 | せっぱつまったら |
ポリポリの法則 | 05/11/30 | かけばかくほど |
意向 | 05/12/31 | 受胎告知の意味 |
うかつなカンチガイ | 06/01/31 | 誰からも嫌われたくないですか |
笛のおそうじ | 06/02/28 | よく鳴るように |
美人が増えてきた | 06/03/31 | あら探しはやめて |
どんちゃん騒ぎ | 06/04/30 | 復活祭 |
ワカッタ ワカッタ | 06/05/30 | 神さまだってそれはイヤ |
野菜きらいですか | 06/06/29 | 好きなものしか食べない |
スペシヤル | 06/07/31 | 神さましか止められない |
かならず | 09/08/30 | 自分好みの神さまじゃ… |
人に迷惑をかけるな | 06/09/27 | 幸せになることが目標ですか |
十字架 | 06/10/31 | はずしてしまったら |
御利益 | 06/12/1 | 習慣やくせでも |
なりふり構わず | 06/12/31 | イイススだって |
このお方が | 07/01/31 | 神を信じられないなら |
怒るのをやめれば救われます | 07/02/28 | やってみよう、今度 |
「できる」を取り戻しませんか | 07/03/30 | ほんとうの関心 |
「健康な精神は健康な肉体に」 | 07/05/02 | ホントかなあ |
「天にいます」 | 07/05/31 | 二つの食事 |
せめて、それでも | 07/06/30 | 逆転の発想 |
あなたには裁かれたくありません | 07/07/31 | 最後の審判で裁くお方は |
信仰が足らないからだ | 07/08/31 | 主の足を止めてみよ |
花に水でも | 07/09/29 | 敬老の実質 |
なぜ殺してはいけない? | 07/10/31 | 危険な問い |
ピアノコンサート | 07/11/30 | 「思いの過剰」を制するために |
醍醐味 | 07/12/30 | 恋に似たもの |
くよくよするなよ…
人生にしくじりはつきもの。その時、パッと気分を変えケロッとしてられる人は稀です。まじめな人ほどいつまでもこだわります。まして、人を傷つけたり裏切った時、自分の弱さで重大な過ちを犯してしまった時は、深刻な挫折感や罪悪感ですっかり落ち込んでしまいます。
こんな時、他人から「くよくよするなよ。よくあることさ」と励まされても、心はいっこうに晴れません。自分の犯した過失や罪が、これから、どこに、誰に、どのような思いもよらない結果を及ぼすか、自分をどれほど大きな汚点で汚してしまったか、想像しただけで心臓が押しつぶされそうです。どんなに愛にあふれた人でも、他人はこの苦しみを取り除けません。たとえ望んでも、他人の苦しみは苦しめません。
キリスト教信仰の喜びは、他人(ひと)ではなく神・ハリストス(キリスト)が「もう苦しまなくていい。あとは私に任せ、元気を出しなさい」と究極的なゆるしを与えて下さる確信です。
とほうもない安堵感…。
人間が、にないきれない罪悪感やいやしがたい挫折感に一生とらわれ続け、絶望の中で滅んでゆく…、こんな悲しいことを、神さまは決して望みません。
「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」
(マタイ福音書11:28−30)
私たちの心には「ただで手に入るものはない」という考えがこびりついています。何か欲しければそれにみあう物かお金と引き替え、可愛がってもらいたければ「よい子」になる、愛してもらいたかったら相手につくす、悪いことをしたら罰を受ける、ゆるしてもらいたかったら弁償する。このパターンでしか考えられませんから、キリスト教も、神に救われたかったら善行をして善い人間にならなければならないと教えている、と皆さんは思いこんでいます。
でも、これほどキリスト教の教えから遠いものはありません。そればかりかキリスト教は「教え」ですらありません。
善いことをしたくてもできない、善い人間になりたくてもなれない、そういう私たちを神さまが、イイスス・ハリストス(イエス・キリスト)を通して「ただで(無条件で)」赦し救って下さったという「ステキなニュース」(福音)こそ、キリスト教の根本です。キリスト教は「教え」や、まして「道徳」ではありません。「(グッド)ニュース」なのです。
「ただで手に入るものは無い」としか思えない人生は悲しくみすぼらしいものです。人間の「幸福」や人間どうしの「愛」も「取引」の対象としか考えられないのですから。
「神さまが『ただで』赦して下さり、『ただで』愛して下さる、この『恵み』を信じなさい。そうすれば、人は、喜んで『ただで』与え、感謝して『ただで』受け取る愛の生活ができないはずはない」。
あえて言えばこれがキリスト教の「教え」です。
…なになに、「ただほど怖いものはない」だって?
ほんとうの心の平安が買えるほど、私たちは善い人間でしょうか?
不義密通の現場を押さえられた「罪の女」を、「正義派」たちは石で撃ち殺そうとしました。イイススは「いいだろう、あなたたちのなかで罪のない者が石で打ちなさい」と言います。人々は一人づつ去って行きました。イイススは女に言いました。「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。もう罪を犯さないように」
(ヨハネ福音8:1−11)
誰でも自分には、弱さや、コンプレックスや、イヤぁな欲望や、小ずるさがあって、自分を生き生きしたした人生から遠ざけてしまっていることを知っています。ずるずるとんでもない所へ落ちてしまうと、いたたまれない思いでいながら、どうしようもないと思いこみ「忙しさ」や上滑りな「おしゃべり」やお酒や娯楽に、場合によってはインターネットに「依存して」気を紛らわせています。
イイススは友のラザリが死にそうだと聞き出かけてゆきましたが、すでに友は埋葬された後でした。墓を覆う石を取りのけるよう言いつけるイイススにラザリの姉妹たちは口々に言います。「あなたがここにいて下さったなら…でももう手遅れです」「主よ、もう臭くなっています。四日もたっていますから」…。イイススが大声で「ラザリよ出てきなさい」と言ったとき奇跡は起きました。ラザリは墓から起きあがりました。(ヨハネ11章)
八日後、十字架で死んだイイススご自身が死から復活し、一層確かに、「もうどうしようもない」「もう臭くなっている」という私たちの断定に力強い異議申し立てをしました。
…死人だってよみがえるんです。まして私たちは息をしているではないですか。
…自分は申し分ない人生を送っていると感じている人には通じない話でした。
「もうとっくに春です!」って怒られそうですが、四季の移り変わりは人を裏切りません。凍えてしまいそうな日々もいつか終わり大地からみずみずしい緑が萌え出します。
学者たちは、この自然の変化こそが、世界各地の宗教に存在する「復活」や「再生」の信仰を生み出したと言います。キリスト教の「復活信仰」も、古代エジプトの豊かな四季の巡りに育まれた「復活信仰」が、エジプトに一時寄留していたヘブライ人たちを通じてユダヤ教に入りこみ、やがて初代教会へ受け継がれたものと見なします。
クリスチャンは逆に考えます。ハリストスは、復活や再生への希望を私たちに与えるため、自ら、現実に、死からよみがえりその体を使徒たちに示しました。それでもなお「復活の福音」は人々をつまづかせます。クリスチャン自身さえその信仰はたえず動揺します。そこで神は、「見えるもの」しか信じられなくなってしまったこの私たちへの「暗号」、また「励まし」として、自然の中に多くの「よみがえり現象」をあらかじめお備えになったのです。
学者たちのようにもっともらしく考えるのは勝手です。…でもあなたは、ホントに、燃え立つ早春のきらめきに神秘を何も感じないのですか!
あなたがたはなぜ生きた方を死人の中に尋ねるのか
(ルカ伝24:5 主日早課第4福音から)
書店に行くと、イイススについて書かれた本がたくさん並んでいます。「イエスのミステリー」「ただの人・イエスの思想」などというセンセーショナルなものから、「イエスとその時代」というような「堅実」そうなもの、さらに「イエス」なんていう素っ気ないものまで、実ににぎやかです。
キリスト教に関心を持ち始めた人たちの多くが、まずこのような本をのぞいてみます。中には難解な専門書を読み漁り山のような知識を持っていて、神父さんたちですらタジタジという人たちもいます。しかしそれでなお「信じられない」と言う人が案外多いのです。実は、そんな知識や教養をいくら積んでもイイススには絶対に出会えません。
十字架上で息絶え埋葬された主に、葬りの香油を塗るため、朝早く出かけた女弟子たちが見つけたのは空っぽの墓でした。途方に暮れる彼らのもとに天使が現れ、問いかけました。「あなたがたは、なぜ生きた方を死人の中にたずねているのか。その方は…よみがえられたのだ」。(ルカ24:5-6)
書物を山のように読んでイイススを理解しようというのは、まさにこの「生きた方を死人の中に」捜そうとするのと同じです。二千年前のユニークな人物として、また歴史学や神学の対象としてイイススを探し求めても、誇張された奇怪な人間像や社会的抑圧に抵抗する革命家、また抽象的な教義によって組立て直されたイイススしか見いだせません。歴史上の人物や分析の対象として、すなわち死んだ者としてしか主を見ないからです。
ハリストスは死者ではありません。死から復活し、今も私たちと共にいて、生きて働くお方です。教会という「ハリストスの体」「新たなる神の民」の交わりにあって、主のよみがえりの体であるご聖体を領け、聖神(聖霊の日本正教会訳)と主のみ言葉に導かれて生きる時にのみ、私たちは人を「生かす方」ハリストス、「生きた方」ハリストスに出会います。
復活大祭の光輝く集いが、その出会いのはじまりとなりますように。
「したいこと」から「しなければならないこと」へ
「自己実現」とはなんだろう?
知人がイタリヤのある女流「イコン(聖像)画家」(カトリック教徒)を紹介するパンフレットを送ってくれました。作品が何点か美しくカラー印刷されています。
しかし一見して何とも言えない違和感!です。確かにテーマも構図も技法も伝統的な「イコン」そのものですが、全くイコンではないのです。そこで、もう一度見直してみると、伝統的な構図や絵柄に見えて、実は細かい部分に、画家の工夫や微妙な変更が加えられているではありませんか。それらによって彼女独自の美の世界が見えて来る仕掛けになっていたのです。彼女は、教会において、世代から世代へ、描かれた福音・永遠への窓として育まれたイコンを、自分の個性や技量をふるって自分の美の世界を表現する器として利用しているにすぎません。近代西欧キリスト教芸術に共通に見られるこの態度は、正教会のイコンの伝統や精神性とは無縁なものです。
西方教会の精神性は、自分の個性や能力を生かすことが神の栄光を表す道と考えます。活動的でしばしば攻撃的な文化が育まれ、世界中を覆い尽くしました。
反対に東方は「だれでもわたしについてきたいと思うなら自分を捨てなさい(マタイ16:24、マルコ8:34、ルカ9:23)」という主の呼びかけを文字通りに受け取り、個性や能力を生かすことよりも、自分の心に深く根を張っている「我」を殺すことを緊急かつ最終的な課題ととらえます。個性や能力を生かそうとハリきることは、たとえ神様や教会のためと思っていても、実は賞賛や名誉や自己満足への欲求の偽装である場合がほとんどです。自分という器から「我」というやっかいなガラクタをすっかり放り出して始めて、私たちは自分自身に聖神(聖霊)を迎え入れ、ハリストスが働く器とすることができるのです。
したがって、文化遺産として尊ばれる数多くのイコンにも、今日も修道士たちが描き続ける新しいイコンにも、制作者の署名はありません。昔も今も、伝えられた聖なるイメージを忠実に守り抜くのに懸命な彼らに、自分なりの美の世界を創造し、その「作品」に署名して後生に名を残そうなどという意識があろうはずがありません。
「自分が何をしたいのかわからない…」。若い人たちからよく聞く言葉です。「自分にはもっと別の生き方があったはずだ。今の自分はほんとうの自分ではない。でも、どうやってそれを探したらいいのかわからない…」という困惑や焦り、そして不安の表れです。
こんな気分の背後に「自己実現」こそ人生の目的であるという価値観がないでしょうか。自分の欲求や感性に忠実に、自分の個性や能力を百パーセント生かせてこそ善い生き方であるという考え方です。タレントやアーティスト、また個性豊かな起業家たちが若者たちのヒーローであるのはそのためです。彼らは、心からしたいと思う目標を持ち、そのための才能を持ち、それを実現したかのように見えます。
この一握りのヒーローたちの対極に無数のノン・ヒーローが存在します。彼らは、自らを、平凡で無能力な、何かしたいこともこれといって無い、自己実現できない人間と見なします。コツコツ働く父親や、家事にやきもき心を労する母親の姿に自分の将来を重ね合わせ、それらを失敗した(カッタルイ)人生と断じます。「自己実現」・思う存分才能と個性を発揮し自分の望みを実現する人生こそ善い人生、という思いにとらわれている限り、彼らは一生、この焦りと不安、そして劣等感や妬みから脱出できません。実は若者だけでなく現代人の多くがこのような思いの中にいます。自分の個性や能力を生かすことこそ神の栄光を表す道と考える西方の精神性のたどりついたところは、この「自己実現」の呪縛に追いつめられ心身をすり減らした人々の群です。まさに「自分の命を救おうと思う者はそれを失う(マタイ16:25)」のです。
それではどうすれば、自分の人生に価値を認め、無数の隣人たちの平凡な人生をそれぞれ価値と意味に満ちたものとして尊敬できるようになるのでしょう。
ハリストスの宣教の第一声は「悔い改めよ、天国は近づいた(マタイ4:17)」でした。
悔い改めとは生きる姿勢の転換です。「自己実現」に疲れ果てた私たちに今求められている転換は、「したいことをする生き方」から「しなければならないことをする生き方」への転換です。「したいこと」はなくても、しなければならないことは無数にあります。「何もやる気が起きない」とふてくされている私たちのすぐ隣に、慰めや労りや援助が必要な傷ついた人たちがいないでしょうか。自分の欲求(自我)にではなく、神様が自分に求めていることに忠実に従うことです。自分を捨ててハリストスに従うことです。神としてのお姿をなげうち、己れを虚しくし僕・人間の姿になり、己れを低くして、十字架の死に至るまで従順だった(フィリップ2:6-7)ハリストスとともに、「自我を虚しく」し、神様の求めに従順であることです。
そうして始めて、私たちの人生はハリストスとともに生きる人生として意味と価値を取り戻します。家族や隣人のために平凡を生き抜く人々の中に主・ハリストスの姿を再発見します。まさに「わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだす(マタイ16:25)」のです。その時、私たちの人生は真の自己実現を達成します。私たちの中でハリストスのイコン(イメージ)が輝き出します。それは、「自分の美」を捨てて、伝統に忠実であり続けた人々が描くイコンが、それぞれ独自の美を持つかけがえのないイコンとして光輝を放つのと同じです。
人間って何?
人間を定義して古来いろいろなことが言われてきました。
古典的なのは「立って二本足で歩く動物」「道具を使う動物」「言葉を話す動物」「社会的動物」などでしょう。
でも、最近人類学者たちは、これらの特徴は人間の決定的な定義とは言えないんじゃないかと言い始めました。
類人猿などは生活のかなりの領域を二本足で暮らします。チンパンジーが道具を使って餌を採ることが観察され、ラッコは石で貝殻を器用に割ります。イルカが原始的な言語を持っているらしいことは確かのようです。チンパンジーと絵画的シンボルを用いて言語的コミュニケーションをする研究者もいます。また、ニホンザルの群は、ボス猿を中心に高度な社会的関係を形成し、「イモを洗って食べる」などの文化が次世代へ継承されています。
この他にも次々と人間について新しい定義が提案されますが、動物学の研究の成果によって、どれも、余り長持ちしそうにありません。
そこで、皆さんに人類学的研究テーマをさしあげたいと思います。
動物園や猿山などで、「祈っている」ゴリラやチンパンジーまたニホンザルなどがいたら、ぜひ報告して下さい。
どんな苦境に立っても決して「祈ろうとしない」傲慢な人間はまれにいますが、人間以外に「祈る」動物はまだ見つかっていません。見つけたら大発見でしょう。
その時、祈らない人間は「猿以下」ということになるのでしょうか?
十字をかいたり、伏拝したり、教会に集まって礼拝行為をするということが、いかに人間的なことか、もう一度考えてみて欲しいのです。
テレビのスイッチ切るみたいに…
真空管時代のテレビを知っていますか?スイッチを切ると、ブラウン管の真ん中に、画面がすーっと収斂してゆき小さな白い点が一瞬輝き、消えます。あっけなく。現代のテレビは、そんな余韻すら残しません。
大人たちに「死んだらどないなるんや?」とたずね、「何にも無しになるんや」と教えられた時、小学生の私が思い浮かべたのは、このテレビの消え方でした。同時に、何かくらーっとするような、「むなしい感じ」が襲い、やがてそれは恐怖に変わりました。
旧約聖書外典(正式な「聖書」ではないが、尊敬されるべきいくつかの書)の「知恵書」には、神を信じない者の人生観を次のように表現しています(第2章)。
「我々は偶然生まれ、死ねば、まるで存在しなかったかのようになる…。だから、目の前のよいものを楽しみ、青春の情熱を燃やし、この世のものをむさぼろう。」
古来、多くの若者が、こう豪語したあげく、心も体もボロボロにしてきました。私も洗礼を受けたのは34才の時でした。 …ハリストス復活!
(新約聖書の「コリント人への第1の手紙」第15章をお読み下さい)
ぞっとする話
年をとれば多かれ少なかれボケ、欲求や思いを抑制できなくなります。高齢化がすすんだ今日、これは切実な問題です。怖い、実に怖い。
それまで、どんなにカッコつけて生きてきても、ボケたら最後、自分の真の姿を隠しようがないからです。
お金がすべてと信じて生きてきた人は、一日中、うつろな目で預金通帳を握りしめているでしょう。肉体的、感覚的な快楽に溺れて生きて来た人は、…(あまり書きたくありません)。高慢な人は、一日中人を小馬鹿にしてみんなに嫌われます。人を憎んで生きてきた人は、火を吐くようにのろい続けるでしょう。不平不満の人はグチばかり、「正義漢」は怒りにつばを飛ばし続け、名誉の好きな人は、誰も聞いてくれないので犬や猫にまで自慢話。…想像するだけでぞっとします。
強い自制心で欲望や思いを押さえつけても最後には何の実りもありません。神さまに内側から変えてもらわなければどうしようもありません。
私も、たとえボケても、一日中夢見ごごちで聖歌をくちづさんでいるようにしてくださいと、実は祈っているのです。手遅れにならないように…。
自分に厳しく他人には寛大…ほんとかな?
人は善悪の価値観を二つ同時に持てません。持てるなら病気です。自分の心や行動への手厳しい評価は、他人にも向けられるはずです。「自分に厳しく他人には寛大」は、別のことを偽善的に言い換えているだけです。
傲慢。自分は人々を支配や統制する立場にあると錯覚すると、時として「他人には寛大」であろうとします。自分の支配力を「寛大さ」で確かめていたいのです。
軽蔑。「あんなバカどもには、俺が持つような高尚な価値観はわかりっこない、難しいことを要求しても無理さ…。適当にあしらっておけばいい」
無関心。自分の閉じこもる小さな世界の中で、自分の正しさだけを、自分独りで納得していたい人たちも、時として「他人には寛大」です。他人がどうあろうがどうでもよいというにすぎませんが…。ここには愛がありません。
自分自身の弱さや醜さを知り、更にこの弱さや醜さを誰もが苦しむ「人間の病」として知り、この病からの癒しをお互いの愛のうちに祈り励まし合うとき、私たちは、告発や裁きとは無縁の「厳しさ」と、傲慢や無関心とは正反対の赦し合う「寛大さ」を、互いの内に実現します。
ハリストスが「可能なもの」として回復した人間の交わりのイメージです。
「役に立つ」の呪縛
「自分は人の役に立っている」という思いは希望と喜びを与えます。でも、この「役に立つ」という言葉に私たちは必要以上に呪縛されて、人生の苦しみを増やしています。
今、職場で吹き荒れるリストラの対象とされた人々を最初に襲うのは、経済問題より何よりもまず、「あなたは役に立たない」と宣告されたことへの衝撃です。お年寄りもよく「こんな役立たずになってしもうて、早くお迎えが…」などと、小さくなっておっしゃいます。
「役に立つ」ことが希望と喜びであればあるほど、「役に立たない」ことは絶望と悲しみです。自分は「役に立つ」と気負い立てば立つほど、現実に目を向ければ、その人でなければならないことは何もなく「自分がいなくても世の中は回っていく」ことに悄然とならざるを得ません。
神を信じる者の喜びは、神のお役に立っているという喜びではありません。この複雑な社会の中で、また広大無辺な大宇宙の中で、チリや灰のようなこの私でも、神さまから、他にかけがえのない唯一の者として「受け入れられている」という喜びです。「自分がいなくなったら神さまは悲しむ」んだという、トンデモナイ愛の確信です。
まず祈りの場に立ち、目を上げ、心を開き、声を上げ、神を受け入れるのです。呪縛からの解放の第一歩です。
「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」
信仰とは何のにも制約されない自由な態度決定
1+1=2であることや、水が水素と酸素の化合物であることなど、理性や実験によって確かめることのできる事柄を「信じる」とは言いません。また、友人が借金を返してくれることを「信じる」などとよく言いますが、これは実は「信じる」ではなくて、長い経験によって「あてにできる」ことを知っているにすぎません。
人がキリスト教を信じるに至るまでには、当然、聖書や教えを学ぶ熟慮の期間があるでしょう。また、祈りや信徒との交わりの体験のなかで、心理的感情的な面で信仰に準備される期間もあるでしょう。しかしなお、信仰は熟慮の末の納得でも、人間的な共感による「仲間入り」でもありません。信仰は、納得や共感とはぎりぎりのところでぷつんと切れた、何ものにも制約されない自由な態度決定です。
悪霊につかれた息子の父の「信じます。不信仰なわたしをお助けください」という叫び(マルコ9章)は、まさにこの態度決定としての「信仰」をよく表します。これは「信じられませんが、信じます」と言い換えられます。うがった言い方をすれば「信じられる」なら「信じる」必要はありません。キリスト教が「信じられる」たぐいのものならキリスト教はとっくの昔に「科学」になっていたでしょう。
「信じる者になる」
クリスチャンへの大変大きな誤解は、クリスチャンはみな「信じられる」ようになった人たちだ、という誤解です。ハリストスの十字架と復活の福音、パウェルが自ら滅びゆく者には「愚か」としか見えないと言った「十字架」(コリンフ前書1章)、ギリシャ人にせせら笑われた「復活」(使徒行伝17章)を、神の人間への救いのわざとして希望をかける「生き方」に、身も心もあげて、自分を投げかけてゆくことが信仰です
復活を疑ったトマスへの主の言葉(イオアン20章)が、それを強烈に印象づけてくれます。「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」。
…「信じられる者になれ」ではないのです。
信仰「神の賜物」
しかし、信仰が何ものにも制約されない、厳密に言ってギリギリのところでは納得や人間的共感にももとづかない自由な態度決定なら、一体それはどこから出てきたのでしょう?いや「どこから」という問いも無意味なものかもしれません。
「でも、私は信じる」、…疑問や不信の中で揺れ動きながらも信仰へと自分を駆り立てている、これは何でしょう?信仰は「無」から立ち現れたとしか言えません。「無から」何かを生み出すことができるのは神以外にありません。そう、信仰は神からの贈り物(賜物)なのです(コリント前書12:3)。
神秘としての信仰を保ち続けること
信仰は徹頭徹尾人間の自由な投げかけ(態度決定)でありながら、神からの賜物です。また同時に、信仰は徹頭徹尾神からの賜物「目を見張るような恵み」でありながら、人間の自由な投げかけです。これは神秘です。信じる者はこの神秘を緊張のうちに保ち続けなければなりません。
信仰が自由意志にもとづく態度決定であることを忘れると、ちょっとしたつまづきで「信じられなくなったからもうやめた」と、信仰を恵まれた神と信仰を決断した自分への責任放棄に陥ります。信仰を宗教的「気分」や「気の合う者どうしの共感」と勘違いしてはなりません。「インスピレーションや『宗教的な喜び』が感じられなくなったから」「教会の人間関係が不愉快」というようなことで簡単にうち倒されてしまいます。
また反面、信仰が神からの贈り物であることを忘れると、信仰を何か自分の手柄ででもあるかのように見なし信仰のない者をさげすむ、傲慢な姿に陥ってしまいます。そこには、自己満足はあってもまことの救いの「喜び」はありません。
「信仰によって、アブラハムは、受け継ぐべき地に出て行けとの召しをこうむった時、それに従い、行く先を知らないで出ていった」(
ヘブル書11:8)
幸せになる努力
幸せになる努力、していますか?
「あたりまえですよ。一生懸命働き、勉強し、健康にも十分気を使い、そのうえ美容と教養を身につけるのに余念ありません、…みんな幸せになるためです!」
では、貧乏な人は、学歴のない人は、病気の人は…、幸せではないのですか?
「あたりまえでしょう!」
あたりまえでしょうか?
私たちが、たとえ貧乏でも、よい学歴が手に入らなくても、重い病気にかかっても…、ゆるぎなく「幸せ」でなければ、世界には少しも幸せはありません。「大人になる」とは、「しょせんお金さ…」「結局学歴がなければ…」というような様々な「現実主義」で利口になることではなく、逆にそれらがどれほど「非現実的」かを知ってゆくことです。貧乏でも「幸せ」な人にはたくさん出会いましたが、金持ちで「幸せ」な人にはめったに出会えませんでした。
ハリストスは「心の貧しき者は幸いなり(マタイ5:3)」と教えました。この意味を知ろうとすること…、「幸せになる努力」の「はじめ一歩」だと、しみじみ思います。
あなたは幸せですか?
ごはんを食べなければ生きられない
飽食の時代、私たちは、この一番大切なことをふだん忘れています。忘れてなくても、意識しません。
しかし、当たり前のことですが、ごはんを食べないと、だんだんやせてきます。自分自身の肉体を分解してエネルギイ源にしなければならないからです。それでも、食べない、飲まないでいると、いずれ死んでしまいます。
人間は、外から、ご飯や水を取り入れなければ生きられません。自分の力では生きられません。人類は、それをよく知っているからこそ、決定的に大切なものとして、食事にいろいろな作法や儀礼を設けてきたのです。
キリスト教の極意は実はここにあります。人は、神からいただく物質的な食物ばかりでなく、精神的な食物も食べなければ一日たりとも生きられません。神を受け入れない生き方(「神」がピンとこないなら、超越者でも何でもかまいません)は、人の精神を無気力や狂気によって滅ぼします。自分しか信じない生き方は、俺はごはんを食べなくても生きられると意地を張ってだんだんやせ細っていく愚行です。
キリスト教の日曜の祈り(聖体礼儀)が、ハリストス・神の体と血としてパンと葡萄酒をいただく「食事」である理由の一つです。
たまに会う人に微笑むのは簡単
インドの貧しい人たちのために、一生をささげたカトリックの修道女マザー・テレサが永眠しました。教派は違っていても、彼女を通じて働かれた主・イイススの愛を讃えるとともに、主の愛の器として自身をささげ尽くしたマザーに深い尊敬の意を表したいと思います。
マザー・テレサに会いに世界中から多くの人々が来ました。彼らは一様に「何かお手伝いしたい」と申し出たそうです。そんな時、マザーは決まって「皆さんはすぐにお国に帰りなさい。そして、皆さんの最も近いところから愛の行い、人を大切にすることを始めてください。愛は最も近いところから始まるのです」と答えました。
私たちに最も近いところとは家庭です。遠い異国の人たちの悲惨に胸を痛めることはあっても、自分の子の苦しみを、兄妹の悲しみを、父や母の挫折感を、夫や妻の孤独感を、気づかずに放置してはいないでしょうか?互いに…。
「たまに会う人に微笑むのは簡単。でも、毎日会っている人に微笑むのはむずかしい」のです。むずかしいけれどここからしか始まりません。毎日会っている人に微笑まない者の「人類愛」や「正義」が、やがてどのような結果を生むのか、革命と戦争の現代史に学べるでしょう。
「神さま」なんて言ってくれるな!
秋になると、雲の高さ、空の深さ、天と地のたとえようのない広さを感じます。鰯雲のひとつひとつの端がオレンジ色に輝き始め、しだいに西の空全体が真っ赤に染まっていきます。胸が締めつけられ、ため息しか出ません。
こんな時「この雄大な自然をお造りになったのが神さまなのです」なんて言われたら、張り倒してやりたくなります。オレがいま体験しているものを「神さま」なんて安っぽい言葉で一くくりにされてたまるか!馬鹿野郎!です。
それでもなお、くやしいけど、人はそんな時「神」を体験しているのです。いや、正確に言うと、ここで体験している「ため息しかでないもの」「胸が締め付けられるほどの何ものか」は「神」と呼んでおく他ないということです。
「じゃあ、そういう『神』に、なぜクリスチャンは、『あなた(汝)』と、まるで一人の人みたいに呼びかけるんだ?」と、突っかかってこられそうです。
答えは、私たちは「この神としか呼びようのないもの」に向かい合う「自分」を、自分勝手に取り扱える「自分のもの」と考えていないからです。「神」から贈られた「自分」を、「よき」ものとして生き抜く「責任」を、「あなた」という二人称の呼びかけで表明しているのです。
風を見て恐ろしくなり、そして溺れかけた マタイ伝14:30から
住み慣れた町を捨て未知の土地へ旅立つには勇気がいります。たとえどんなに嫌でも長い間なじんできた生き方を捨て、新しい生き方に踏み出す時も同じです。
目に見え、手で触れるものしか信じず、「体裁の良いことを言っても人はみな自分(てめえ)が第一なんだ」と、いつも身構えている生き方は、とてもシンドイものですが、身の処し方、気の持ち様、そして何より「慣れ」によって何とかなってしまうものです。「人生なんて所詮こんなもの」という現実主義に座り込んでしまうと人はなかなか立ち上がれないのです。
ハリストスは、この慣れきった生き方(「滅びに至る広い道」マタイ7:13)から出ておいでと招きます。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい(ヨハネ13:34)」と、愛が幻ではないことを日々の生活の中で証しする生き方に招きます。「そうすれば人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安(フィリップ゚4:7)」に与れると約束します。
そして、この新しい生き方を支えられるのは信仰だけだと教えられました。
湖面を歩む主を見て、ペートルは「水の上をわたってみもとに行かせて下さい」と願いました。「おいでなさい」と主に励まされ、舟から足をおろし、何歩か歩いたとたん、ペートルは風を見て恐ろしくなり、溺れかけました。主は手を差し伸べて彼をつかまえ「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」とお叱りになりました。
新しい生き方は未知の生き方です。これまでの常識はもう常識ではありません。自分に都合の悪い人々を、軽蔑したり無視したり裁いたりして、「片づけて」しまわず、まず自分自身を省み、心を開き、その人々のために祈るのが新しい常識です。
しかし、私たちはしばしば「こんな無防備な生き方で大丈夫だろうか」と怯えます。怯えたあげく、捨ててきたはずの常識の海に沈みます。「ナメられてたまるか!」と。
しかし、主はお叱りになりながらも手を差し伸べてくれます。この未知の旅をゆく私たちの怯えをよくご存じだからです。
孤独を愛する人・群れていたい人
誰にも干渉せず、誰からも干渉されず「他人は他人、自分は自分」と個人主義に徹しようとする人たちがいます。煩わしい人間関係や騒々しい都会を離れ、静かな書斎や大自然のふところで独りぼっちで過ごす平安が何より、という人々もいます。孤独を愛する人々です。
一方、せかせかと人々の間を歩き回り、移動中でさえケイタイで誰かとおしゃべりを続け、何となく「群れて」いなければ不安でたまらない人たちがいます。
孤独を愛する人たちは、人間関係が濃くなって互いに傷つけあうことを恐れ、自分の世界に逃避します。群れていたい人たちは、人がたった独りで生まれ死んでゆかねばならない、ゾッとするような孤独に向かい合うことを恐れて、群れの中に逃避します。
この二つの逃げ道以外に道はないのでしょうか?愛が憎しみや傷つけ合いに歪められてゆかず、集いが表面的なじゃれ合いや没個性の集団主義に陥ってしまわない、そんな人間の「交わり」はどこにもないのでしょうか?
私たちはハリストスがその道を開いてくれたと信じ教会に集います。これを信じないで行き止まりの逃げ道で滅びるのも一生、信じて希望に「生きる」のも一生です。
恋していますか、青年たち!
二十年も前、印刷会社の営業部に配属された時、上司が歓迎会の席上「恋愛もまともにできないような者は営業失格!」とブチました。正直言って若い女性には不潔感しか与えそうにない上司の、得意満面の顔に思わず苦笑してしまいました。
でも、自分をかなぐり捨て全身全霊で相手につくす情熱が、誠心誠意お客につくす営業マンの心得に通じるのは確かです。
生きた信仰にも、この恋愛のエネルギーがどうやら必要なようです。一人の異性に全身全霊を集中し、この世の慮りを一切捨てて相手に奉仕する、この自己放棄の極みから、眼もくらむような悦びを引き出す、この殆どセルフ・マインド・コントロールとでも言っていい「力わざ」が、神に向かう者にも求められます。
このエネルギーはどこから出てくるのでしょう?若き日は恋の名人、後に信仰の名人となった聖アウグスチヌスは次のように神への愛の告白をしています。
「あなたは、私たちを、ご自身に向けてお造りになりました。ですから、私たちの心は、あなたの内に憩うまで、安らぎを得ることはできないのです(「告白」第1章)」。
この、異性への肉体のうずきにも似た心の「渇き」が、すべての人間的営みを衝き動かしています。その最も純粋なかたちが信仰であり、恋愛は信仰へと私たちを準備します。ここで人は神との愛の交わりの「練習」をします。愛し愛され方を体験的に学びます。信仰には不可欠の「自分(こだわり)の捨て方」を身につけます。大いに、まじめに「恋愛」しましょう。(妻帯者はもう一度ホレ直すべし・不倫不可)
人さまに迷惑かけない限り
新聞に出ていた話。ある女子高生がいわゆる「援助交際」で補導されました。駆けつけた両親の叱責に彼女は、アッケラカンとこう言ったそうです。
「わたしは誰にも迷惑をかけてないわよ。お小遣いもらえて嬉しかったし、おじさんたちも楽しそうだったわ…。どうしていけないの?」
人さまに迷惑をかけない限り「自分」がしたいことをのびのび実現してゆくことが、よい生き方と教えられてきたなら、この少女の答えは開き直りでも何でもありません。当然の帰結。あなたが彼女の親だとして彼女に反論できますか?もし、あなた自身が、親や、学校や、社会から「何をやっても個人の自由だが人に迷惑だけはかけるな」と、たたき込まれて育ったなら、彼女の前にグッと詰まらざるを得ません。
肉親や、先生や、友だちが、もう愛想を尽かして見放しても、この方だけはトコトンどん底まで彼女を離れず、彼女に「そんな生き方はほんとうじゃない。わたしは悲しい。帰っておいで」と涙を流し続ける…、そんなお方、イイススのイメージを心に持っていないなら、やがて私たちの生き方も多かれ少なかれ、彼女の姿に似てきます。
仏教のお葬式・キリスト教のお葬式
僧侶が入場し座布団に腰を下ろすと、おもむろに読経が始まり、途中焼香に立つことはあるものの、列席者はお経をひたすら聞くだけ。仏式の平均値です。
正教会では信徒全員が聖歌を歌うのが原則。歌えない人は司祭に合わせ「主、憐れめよ」と唱えたり、十字をかいたり、退屈する暇はありません。全員参加主義。
この違いは、仏教とキリスト教の救済観の違いをよく表します。仏教は個人主義。死者の霊魂に釈迦の人生哲学を説き(読経)、「君も早く夫婦や親子といった空しい人間関係への未練を捨てて<成仏>せよ」と促します。救いは各人の悟りの問題。これに対しキリスト教は、全員参加の祈りを通じて、神との交わり・人との交わりの回復こそ「救い」だと告げ、死者がやがて、神の国の永遠の集いの中に復活することを祈ります。その「集い」を共同の祈りが先取りするのです。人間関係(愛)の回復が救い。ひとりぼっちでの救いは考えられません。
「ウットウシイ人間関係が死んでまで続くなんて勘弁して!」という「孤独地獄」に生きていませんか?
…「人が一人でいるのはよくない(創世記2:8)」
「人は何かを信じなければ生きられません」
…と、申し上げたとたんに「!」と不快感をあらわにされた方がいました。たぶん、「『だからキリスト教を信じろ』とおためごかしを言うんだろう!」という予感のもとでの「!」だったに違いありません。もちろんそう言いたい。
でも、人間が信じるのは神ばかりではありません。お金や、権力や、「自分自身」…にしがみついて生きている人はたくさんいます。自分は何も信じられないと言いながらもシャランと生きている人は、よほどの馬鹿か、コッケイな嘘つきです。
私が言いたいのは、神が信じるに足るものかどうか、まったく根拠がないと言うなら、お金も、力も、「自分自身」…も、やはりまったく根拠がないということです。
「あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられる(マルコ4:24)」とあるように、人はその人が信じているものに見合った生き方しかできません。
お金を信じる人はお金と共に失われ、力を信じる人は力と共に亡ぼされ、「自分自身」を信じる人は自分のプライドとこだわり、そして情念のなかに溺れ死にます。 クリスチャンはこう信じています。ハリストスを信じる者は、ハリストスと共に「生きる」と。
クラクション一つで…
表で男同士の言い争いが聞こえてきました。だんだん、甲高い罵声となってきます。「まずいなぁ」と教会を出ると、スーツ姿の大柄な男と、やせた作業服姿の青年が血走った目でにらみ合い胸ぐらをつかみ、殴り合いが始まる寸前です。そばで、青年の母親でしょう、エプロン姿の婦人が「○×水道工事」と書かれた軽トラのそばで、青ざめて立ちすくんみ、少し先には高級車が停車しています。クラクションを鳴らされたクラウンがカッとなって軽トラに噛みついたのが始まりのようです。何とかなだめて事なきを得ましたが、私も興奮して半日仕事になりませんでした。
こんなことがこの三年間に三度もありました。そして、今朝の新聞に「クラクション一つで」ついに人が殺されたと報じられています。
この人たちはみんな特別な人達ではありません。
誰にでもこのすさまじい憎悪と怒りのエネルギーが潜んでいます。日常のちょっとした「むかっ」も、条件がそろってしまえば、感情の激発に火をつけ、取り返しのつかない悲劇を生みます。
神さまが深く憐れみ、ハリストスを通して救い出されようとしている人間の惨めさの一端です。
ディズニーランドの秘密
東京ディズニーランドでは切符は入場前の一括購入です。夢の国の浮き浮き気分が、財布を開くたびに見せつけられる「現実」にぶちこわされない配慮だとか。でも実はもっとふかーい魂胆があるはずです。消費者としてあしらわれ利用されているという意識と、人間のほんとうの喜びや楽しさは両立しないことを、ディズニーランドの経営陣はよく知っているのです。
現代社会では、私たちはどこへ行っても消費者であることから逃れられません。ディズニーランドのようにどんなに洗練された「仕掛け」があっても、「アット・ホームなサービス」も、「ロックコンサートの一体感」も、「○○カルチャーセンター」も…、しょせんは売り物、私たちは消費者(カモ)です。
でも教会は違います。教会は「消費」する場(カモにされる場)ではなく、一人一人の全人格的な自由な関与(=信仰)によって、お金では買えないものを「分かち合う」集いです。
もっとも、必要な時(=冠婚葬祭)だけ献金と引替えに祈祷してもらえばいいなら、自分を再び「消費者」に貶め、ホントの喜びはどっかへすり抜けてしまいますが。
今井さん、大丈夫ですか?
歌手の今井美樹さんがこう言ったそうです。
「孤独は自由の代償、孤独であることを恐れる人には自由は無縁…」
ほんとうにその通りです。人を縛り付ける家族や世の中の権威や因習から自由になりたければ、自分を頼りに一人で生き抜く覚悟が必要です。大衆や「なかまたち」が愛する流行や嗜好、そしてそれらの底にある「熱くもなく、冷たくもない、生ぬるくて吐き出しそうな(黙3:16)」生活から脱出しようとすれば、「孤高」たらざるを得ません。そして何より、人が自由に人生を決断するとき、だれも肩代わりできない孤独な自己を引き受けなければなりません。
クリスチャンは誰よりも切実にそれを知り抜いていてなお、自由と孤独が表裏一体なのはおかしい!と異議を申し立てます。孤独が自由の代償であることに耐え抜こうとした思想家たちは、ニーチェをはじめ皆狂気に墜ちたか自殺しました。交わりの中に、主体性をいささかも損なうことなく生かされる自由…、「神」を回復して始めて、この「交わりと自由」が取り戻されます。これを信じた者だけが、恐ろしいジレンマから救い出されます。
今井さん、大丈夫でしょうか?
「人のせい」にする人生
「頭が悪いのは親のせい、異性にもてないのも顔や性格が親に似たせい、学校や職場がつまらないのも親の虚栄心のせい、夫婦がうまくゆかないのも親の反対で好きな人との結婚ができなかったせい…」、こんな思いが私たちの心に渦巻いています。親ばかりではありません。社会や国家の「せい」でこんなに不幸だと思っています。
でも、誰が見ても、とても痛ましい状況の中でなお「不幸」にならない人もいます。認めたくないかもしれませんがホントです。「不幸」の原因の大半は、実は「人のせいにする生き方」そのものにありそうです。
「人のせいでなかったら何のせいなんだ!」と抗議なさいますか?「『自分のせい』だ。反省しろ!」とは、キリスト教は言いません。本気で自分のせいと思い込んだら人間はその思いに押しつぶされます。人格崩壊です。だからこそ「人のせい」にするのです。
どんな苦しみにあっても「不幸」でない人は第三の道を選びます。「神さまのせい」です。
人のせいにして憎しみや恨みで傷つけ合うより、せめて、ご自身がのろわれることを願うのが神さまです。
モグラたたき
皆さんはまじめですから、少しでもよい人間になりたいですね。そんなこと考えたこともないと言うなら、あなたの心の事態は深刻です。よい人間になろうとしないなら、悪い人間になりつつあるからです。精神的な怠け者に都合のいい「中立地帯」は存在しません。
なになに?では心を入れ換える?よい心がけです。
…でも、これからが大変。学校や職場で「いい人」始めると家ではわがまま放題。悪口止めれば皮肉が。エッチな本を我慢すると、暴力シーン満載の劇画につい手が出てしまいます。タバコを止めればお酒が増えます。…キリがありません。まるでモグラたたき。
万一、強固な精神力で全部抑制できたらどうなるか?モグラは顔を出さなくなりますが、あなた自身が醜悪なモグラ、見かけだけは謙遜でも、心では自分の清さや正しさを少しも疑うことのない傲慢な怪物になってしまいます。深い根の部分が少しも変わっていないからです。
じゃあ、どうすればいいの?
教会は「人は自分の力では変われない、神様に変えていただくんだ。『憐れんで下さい、たすけて下さい』といっしょに祈ろう」と呼びかけ続けてきました。
「自分に忠実に」
私たちは皆、自分に忠実であること、言い換えれば自己実現こそ人生の目的だと教えられてきました。自分のしたいこと、感じ方、思いや考えを「のびのび」表現せよと、ハッパをかけられてきました。能力不足や家庭の事情などで「自分のしたいこと」ができない者は劣等感にさいなまれなければなりませんでした。あらゆる心の病は「自分」を抑えつけることが原因とされ、「自分」を解き放つことが「いやし」の条件でした。
ほんとうにそうなんでしょうか?タレントや「アーティスト」や学者や起業家への夢を捨て、個性や才能を充分生かせない職場や家庭で、「家族や社会のため」とコツコツ働く人々はほんとうに「つまらない人生」を生きているのでしょうか?
「自己実現」、結構なことです。しかし、それは自分の望みや感じ方に忠実に生きることではなく、心の内側から呼びかける神の声に忠実に生きることです。愛の義務や、良心に従って生きることです。場合によってはハリストスが命じるように「自分を捨てて(ルカ9:23)」。
…「自分」に忠実に従い、弱い者を「切断」することではありません。(暗い話でごめんなさい)。
生きてれば、つらいこともあれば、楽しいこともある
それでいいじゃない?何も神さまとか信じなくても…、たくさんの若者がそう言います。若者だけではありません。どうやら、大半の人々はこの「人生苦あれば楽あり」式の人生観で生きているようです。苦しい時に「そのうちいいこともあるよ」と自分を慰め、他人からも慰められ心の平静を保ちます。
しかし、人間の「つらさ」はこんな生やさしいものではありません。どれほど多くの人々がこのつらさに耐えかねて、生きることを投げ出してしまったでしょう。自殺だけではなく、お酒や薬への耽溺、暴走や暴力、ギャンブル、その果ての無気力・無感動、これらはみんな人間の「つらさ」に押しつぶされた死の姿です。
こんなことをたくさん身近に見ていながら、なお、私たちは「苦あれば、楽あり」とケロッとしておられるでしょうか?「自分は大丈夫」と胸を張れるでしょうか?
人間の「つらさ」の意味を知り、それを耐える道を知り、苦しい時も楽しい時も喜びに溢れてその道を生きる「いのち」、教会は死から復活したハリストスからそれを受け、私たちに伝えます。
バージンが子供産むなんて信じられる?
この世の人たちは、童貞女(処女)マリヤが神の子イイススを産んだというのは「神話」にすぎず、事実は別と考えます。イイススは、イオシフ(ヨセフ)と婚約中に、マリヤと通りすがりのローマ兵との間にできた私生児であり、初代教会はイイススを神格化するためにこの「神話」をでっち上げたんだと唱える人たちさえいます。
クリスチャンはそういう「説」に耳を貸す必要はありませんが、「処女懐胎」はやはりキリスト教に救いを求める人々にとって、一つの躓きの石であることは確かでしょう。
処女懐胎の決定的瞬間、天使ガブリエルはマリヤに「聖神(聖霊)があなたに臨み、いと高き者の力があなたをおおう(ルカ1:35)」と告げました。神と人がここで交わりました。そしてマリヤは神の子イイススをはらみました。
処女懐胎に躓くひまはありません。競争や効率や見せかけの楽しみをひたすら追求する「この世」とばかり交わり、騒々しく虚しい人生(生活)を産み続けていてはなりません。私たちは、神の子を、即ちイイススが示す真の人間像を自らの人生を通じて産み出すため、神との交わりにすすんで身をさしださねばなりません。
マリヤに可能であったことは、私たちにも可能です。
処女懐胎がなかったなら、私たちの希望が一つ消えます。
ナイフ
ムカつく、キレる。うまく言うものです。「腹を立てる」や「堪忍袋の緒が切れる」では、なんだか間のびしていて、情念がいきなり発火する、あの感じがでません。いずれにしても、あちこちで子供たちがキレまくっています。
「管理社会」や「管理教育」の抑圧が原因と言う人がいます。でも違うような気がします。家庭や学校や社会が「思ったこと感じたことは何でも素直に表現しましょう」と、感情の抑圧を非人間的ときめつけ、その抑制が教えられなかったからではないでしょうか。のびのび教育することと、欲求や感情のたれ流しを放置することは別です。
だからといって感情をうまく抑制すれば解決というわけではありません。妬みや憎悪や怒り、傷つけられたらムカつきを引き起こす自尊心というやっかいな情念が存在している限り、必ず、いずれどこかで、心や社会そのものの歪みとなって人間を苦しめます。…教会は、なんとアッサリ、人間にはこの問題は解決する力がないと、認めます。でも神さまにならできると信じます。
ムカついたら胸に十字を「切る」のです。よく切れる神のナイフで情念を切って捨てるのです。笑っちゃいけません。やってみもしないで…。
キリスト教は独善的か?
「キリスト教も仏教も、どんな宗教も結局同じですね」。パニヒダ(死者記憶の祈り)後の会食などで他宗教の人たちからよく聞く言葉。「物判りのいい」クリスチャンも言いがちです。
一方、どんな宗派にも他宗教の人たちを無理矢理に改宗させようという狂信者たちがいます。「改宗に応じないなら、宣教の邪魔をするなら敵だ。殺してしまえ」という過激派は古今後を絶ちません。イスラム教徒を大量虐殺したカトリックの十字軍はその代表。幸い正教会にはそんな聖戦思想や組織的虐殺はありませんが、他宗教を侮辱・排撃する狂信者が一人もいなかったと言ったら嘘八百。
でも、その「絶対的正しさ」を信じないなら宗教と言えないのでは?という疑問が起きます。宗教を毛嫌いする人々は「特に、唯一神を信じるキリスト教が『独善的』なのは当然。オウム真理教と本質は同じ」と罵声を浴びせます。
…実は、信仰は、一人の異性を唯一絶対の異性として生涯愛そうという決意の下にのみ成り立つ結婚に似ているのです。妻は最高・絶対・唯一の女性です。真の正教信仰も「宗教は皆同じ」なんて決して言いません。「ハリストス、いのち」です。でも、どんな忠実な夫でも他の女性の良さを認めるように他宗教も理解します。まして侮辱や迫害などはしないのです。(もちろん「浮気」はダメ!)。
パクリ
「あの人が変わってくれたら!と思う人ばかりでは、家庭の空気が変わらない。自分の気持ちや言葉を変えることのできない人は、相手を変えることはできない。
むずかしく暗い社会です。家の中から明るくしよう!」
これ、近所の天理教会(!)の掲示板からのパクリ。
でも、ほんとうにそうです。
「あの人が一言『悪かった』って謝ってくれさえすれば、私だって考えるわよ」。
お互いがこう言いつのってばかりでは、赦し合いも、人と人の交わりも回復しません。人生は明るくなりません。
でも、教会は「変われ」とは言いません。人は精神的努力で自分を変えることなどできません。ちょっとでも、善い人間に変わろうと努力したことのある人なら、皆知っていることです。変われたと思う人は「うぬぼれ」という一層性の悪い病にまだ気づいていないだけ。
変われる方がお一人いました。神が人となった方、ハリストス。このお方の中で、古い歪みきった人間のあり方が、本来の人間のあり方へと変わりました。これを信じるとき、このお方の恵みの中で、私たちも変えられてゆきます。
「恋愛小説家」…恋の真実
高級マンションに中年の売れっ子恋愛小説家が住んでいます。その描くロマンティックな世界とは裏腹に、本人はどうしようもない嫌なやつ。自分勝手な振る舞い、人が顔を背けるのを承知で連発する下品な単語や差別語、気に入らない相手には、そのコンプレックスを逆なでするドギツイ罵倒。マンション一の嫌われ者です。
それでいて極端な潔癖性。手一つ洗うのに何個も新品の石鹸をおろし、何枚も清潔なタオルを使うかと思うと、舗道の敷石のつなぎ目を踏んでしまうことに異常な恐怖を感じ、つま先立ってヒョイヒョイ道を歩く姿の何とまあコッケイなこと。怪優ジャック・ニコルソン演じるこの変人が、毎日通う食堂で病弱の息子を抱え健気に働く独り者のウェイトレスに真剣な恋をして、…さあ彼はどう変わるか、というのがこの映画。
彼はカンジンな時に例の毒舌癖が出てしまい愛の告白に苦心惨憺。でも何度目かのチャンスに一言こう絞り出します。
「ぼくは、あなたに出会って、はじめてよい人間になりたいと思うようになった」。
このセリフ、胸を衝きました。ああ、そうだったんだ、イイススという人を知ったとき自分に起きたことは…
「誰がそう言ったの?」
今回も映画の話。クリスマス商戦にわくマンハッタンを舞台に「34丁目の奇跡」。リメイク版もありますが白黒時代のオリジナル版の一場面。
自分は本物のサンタと信じ込む一人の老人が、まさにサンタそのものの風貌と、何より子供たちに愛される彼のキャラクターを見込まれ、毎年デパートのクリスマスキャンペーンの目玉となる「サンタ」役に抜擢され大活躍。しかし、彼のために職を失った「前サンタ」たちの策謀でついに危険な精神病者として告発され審判の場に立たされます。
敏腕検事は「サンタは架空の存在であり老人はただの誇大妄想狂」と追及します。老人を愛し弁護に立った青年弁護士は、なんと検事の幼い息子を証人台に立たせます。
「坊や、サンタはホントにいると思う?」
「もちろんだとも!」
「誰がそう言ったの?」
「パパ!」
法廷に爆笑の渦。検事は立ち往生。
実は内緒で贈り物選びに悩む愛すべき父親だった検事さんのこの困惑、あなたはどう感じますか?その感じ方、案外、あなたの生き方を映しています。ハリストス生まる!
天国に個室はありません
やわらかい光にひとり、身を委ね、とろけそうな法悦のうちに神に抱き取られる。あなたが天国をこんな風に夢見るなら、…ごめんなさい!キリスト教はご期待には応えられません。
主・イイススは「多くの人が東から西からきて、天国で…共に宴会の席につく(マトフェイ8:11)」、また「天国は、ひとりの王がその王子のために、婚宴を催すようなもの
(同22:2)」と教えます。
民族・国籍・身分や階層をこえて人々がひしめき合い、わいわいガヤガヤとごちそうを分かち合います。ホストは何と神さま!天使の歌声や光のシャワーなど「天国っぽい」ものもあるかもしれませんが、しょせんは添え物。そこが天国であるゆえんは、神さまが集めたこの宴会の集いそのものです。集いを離れ自分だけこっそり美味いものを食べようったって無理。天国に個室はありません。
個室やプライバシーが大好きな私たちは「そんな天国はごめん」かもしれません。でも私たちは「個室」で一人何をしているでしょう?プライバシーを楯に何を隠したいのでしょう?神さまは、人の孤立を最も悲しみます。喧嘩にはまだ和解の可能性がありますが、孤独からは悪魔との対話以外何も生じないからです。
もうどうにもならない
「もうどうにもならない」と死にたくなることがあります。死なないまでも全くの無気力に落ち込みます。周囲の者は、励ましたり叱ったり、手を尽くして元気づけようとしますが効果なし。「誰もわかってくれない」という思いや、励ましに応えられない自分への自責感で、かえって落ち込んでゆきます。
この思いは実際、元気な者の想像を絶しているようです。
自殺への危機からかろうじて脱出したある人がこう言ったそうです。「これからは絶望している人に『生きていれば希望がある。死んじゃダメ』なんてバカな慰めは言えません。死にたいってまで思い詰める気持ちがどれほどのものか自分でよくわかったから。いつかこの体験が、絶望している人との分かち合いとして、生きると思います」。
イイススは十字架で息絶える直前「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」と叫びました。
もし、今あなたが「もうどうにもならない」という思いに落ち込んでいるなら、…人々に拒絶され、弟子たちに逃げ去られ、そしてついに神からも見放されたと、全くの孤独と苦痛の中で叫ぶイイススの気持ちがどんなものだったか、じっと思いを凝らしてみませんか。
…あなたは、それでも、やっぱり孤独ですか?
「夢が持ててこそ人間的」?
極北のツンドラ地帯で遊牧生活をする、ある少数部族のルポルタージュを見ました。冬は−40℃以下という自然環境の中で、ほとんど自給自足の、すさまじい生活です。レポーターが「ここの生活はいかがですか?」と例によって馬鹿な質問をします。意外にも彼らの答えは「大好きです。ここで生まれ、ここで育ったんですから」。シャランと言ってニコニコしています。嘘は感じられません。
翌朝の朝刊、偶然目をとめたコラムに「夢が持ててこそ人間的。若者から夢を奪う現代社会は…」としたり顔の文明批評。
すぐに思ったのが昨夜のツンドラの人たちでした。物心つけばただちに、生活の知恵や伝統の習得、体力と気力の鍛錬、生きるために一瞬も気を抜けない労働…に立ち向かってゆくほかなく、「〜になりたい」「〜をしたい」…などという「自己実現」など夢見ようがありません。では、彼らは人間的ではないのでしょうか?マスコミや商業主義が煽る「夢」と世知辛く退屈な現実との落差に消耗し切って文字通り座りこんでしまい、時折、ヒステリックにわめく若者たちがはたして人間的でしょうか?
正教会は、人生に夢をえがくことではなく、どんなに厳しい現実でも、神様から与えられたものとして受け入れ、じっくり生き抜くことを教えます。そんな正教会、嫌い?
「ダメ」の終わり
「あいつはもうダメだ」。
私たちはしばしば、こう断定します。
「私はもうダメだ」。
一度もそう思ったことのない人は少ないと思います。
「もうダメだ」と投げ出してしまったら最後、私たちは「ダメな人」を軽蔑と無関心と孤独に放置し、「ダメな自分」を投げやりなふてくされと衝動に委ね、いっそうダメにしてゆきます。キリスト教はこれを「死の支配」と呼びます。死という究極の行き止まり、決定的な「ダメ」に閉じこめられ、人は、日々の小さな「ダメ」を跳ね返す力も希望も奪われて生きています。私たちの現実です。
ハリストスは死より復活し、この究極の「ダメ」を粉砕しました。「もうダメという」生き方は「死」もろともに終わりを告げました。死が復活までの「眠り」へと変えられたように、私たちの罪や挫折は、神の赦しと恵みの中で、何度でもやり直せるものとなりました。私たちはもはや、死に閉じこめられてはおらず、生命へと開かれています。
「ハリストス死より復活し、死を以て死を滅ぼし、墓にある者に生命を賜えり」という賛歌の意味です。
あいまいさに耐える
不当な仕打ちや圧迫に耐えるのは案外簡単なことです。迫害する者を裁き自分の義しさを信じて疑わない高揚した意識の中で迫害の苦痛は快感に転じることさえあります。
だから私たちは、他の人々との葛藤に直面したとき、複雑であいまいな現実を単純な図式にはめこんで、正邪善悪に急いで決着をつけてしまいます。非はすべて相手にあり、自分は不当な「いじめ」にあっていると。
聖書は「もし罪がないと言うなら、それは自分を欺くこと(ヨハネ第1の手紙1:8)」と教えます。また、聖体礼儀では「すべての罪人のうち私が第一の罪人です(衆罪人の内我第一なり)」と唱えた上で、ご聖体をいただきます。
少なくとも「今はわからないけれど自分にも非があるかもしれない」「相手にも自分の知らない事情があるのかもしれない」「自分が今知っていること、見ていることはすべてではないはずだ」という思いは、とりあえず怒りを和らげてくれます。
「敵を愛せ、迫害する者のために祈れ(マタイ5:44)」という主イイススのお命じ、まずは、この歯切れ悪いあいまいさに耐えることから始まるような気がします。
祈っても答えがでないとき…
ある神父さんの体験談。一人の青年信徒が、難問を抱え危機的な状況に陥っていました。彼をどう導けばいいのか、神父さんは必死で祈りました。答えは出ません。そんな時、神父の奥さんが「こうしてみたら?」と一つの提案をしてくれました。神父さんはハッとしましたが、なぜかもう一つ踏み切れず、その意見を取り上げませんでした。
答えが出ないまま、聖堂でひとり、十字架につけられ静かにうなだれるハリストスの聖像を見つめているうちに、もう一度、ハッとしました。奥さんの意見に乗れない理由が、自分のプライドにあったことに気づいたのです。
「神父である自分が答えを出すんだという思いで、頭がカチンカチンだったんです。実は神様に答えなんか求めていなかった、祈ってなんかいなかったんですね。『青年へのほんとの愛があるならプライドなんか捨てられるはず』。神のプライドすら捨てて十字架で無惨な姿をさらしたハリストスが、そう教えてくれました」と神父さんは振り返っていました。
奥さんの提案はよい結果を生んだそうです。
プライドやひがみ・憎しみ、苦しいこと面倒なことを避けたいという思いなどが、つい目と鼻の先に示されている神様の答えを見えなくしていることがあるものです。参考になったかな?
「たった一人で神に向かい合う」?
「二十代初めにドストエフスキーやキルケゴールに読みふけっていた頃ほんの一瞬ではあったが信仰とは何かがわかったような気がした。信仰とは日曜日に教会へ行くといったこととは何の関係もなく、たった一人で神に向かい合うことらしいということが」。(6/27朝日・木田元・哲学者)
キルケゴールや西欧キリスト教ではそうかもしれませんが、少なくともドストエフスキーと、その文学に浸透している正教の信仰に関する限り、これは違います。
ドストエフスキーは確かに人間の孤独を執拗にえぐり出します。しかし、それは、どんなに絶望的に描かれようとも、「人間なんてしょせん独り」と投げ出しているのではありません。「罪と罰」という代表作で、主人公は金貸しの老婆を彼の孤独な思想を拠り所にして殺害
しますが、小説の最後では、社会の底辺でひたすらハリストスに希望を置いて生きる、一人の娼婦との愛の交わりの中で、人間としてよみがえりはじめます。
人は罪を犯すときは孤独ですが、赦され、救われるときは、交わりの中に、信仰の分かち合いの中にいます。
教会は、この、ハリストスによって回復された「交わり」そのものです。信仰は「日曜日に教会へ行くといったことと」大いに関係があるのです。
「たった一人」の孤独な「信仰」は、いっそう悪質な罪です。病いです。絶望です。
自分さえ正しければ…
「他人(ひと)の事はどうでもいいの、自分さえ正しければ…」。
よく聞く言葉です。でも「自分だけの正しさ」ってあるんでしょうか?「ある」と言うのが「個人主義」です。各人は約束事として社会のルールや関係を保つだけで、人生そのものを分かち合っているわけではなく、当然、「自分」の正しさと他人の「悪さ」とは無関係…。
反対にキリスト教は、自分がどんなに正しく見えても、他人の悪さと無関係ではなく、自分の人生(いきかた)と他人の人生(いきかた)は、どんなに無関係に見えても、実は互いに影響し合い、一つの「人間性(いきかた)」がお互いの深い場所で分かち合われていると言います。
家庭や職場や学級で、あなたの「正しさ」や「強さ」が他人(ひと)をひがませたり、いじけさせたり、反抗的にさせたり、無気力にさせたりしていませんか? 「ひがむほうが悪い、私には責任はない」。そう言いたいでしょうが、実はそう言いたい心のあり方、交わりや分かち合いとしての人間のあり方を忘れた生き方そのものが、人間が落ち入り、例外なく全ての人が分かち合っている悪なのです。「自分さえよければ」と裏腹の…。
神さまは「自分さえ正しければ」とは考えませんでした。人々に分かち合いを回復するために人となり、ご自身がまず、人とその苦しみや悲しみを分かち合いました。ハリストスです。
自己嫌悪の逆説
ある事でつくづく「やさしくない人間だなぁ」と自己嫌悪に陥りました。自分にげっそり…。でも次の瞬間、「俺は自分のことを今までうかつにも『やさしい人間』だと思い込んでたんだ」と気づきました。だからこんなに落ち込んでしまう。
「やさしさ」ばかりでなく、「強さ」「正しさ」「きよさ」…、どんな場合でも同じでしょう。自己嫌悪なんて自惚れの裏返しなんです。
キリスト教の呼びかける「悔い改め」は、このような自己嫌悪とは無縁です。心に潜むたくさんの罪深さ、そして二重三重に自分を虜にしている自惚れを本当に深く知っているなら、私たちは決して自己嫌悪になど陥りません。逆にいつも、こんな自分をも生かし、時には、自分でも思いも寄らなかったやさしさや勇気を贈って下さる神さまへの感謝でいっぱいのはずです。
この感謝を回復し立ち上がること、しかも何度倒れてもヤケっぱちにならず、たんたんと十字を切ってその度に立ち上がること、これが悔い改めの心です。
正教の修道士たちの、悲しみとともにある明るさ、深刻な自己吟味とともにある得も言われぬ軽やかさの秘密です。
高いところに…
受験勉強の重圧で、家庭や職場でのトラブルで、仕事の行き詰まりで、生活の心労で…、身動きできなくなって頭の芯が熱くなるばかりなら、たまには高いところに上ってみましょう。おおいかぶさってくるように見えていた大きなビルが案外ちっぽけなものだったり、おなじみの界隈の意外な片隅にかわいい公園を見つけたり、いくつも新鮮な発見があるでしょう。
あちこちにそんな発見を繰り返すうちに、胸の内の怒りや、悲しみや、苦しみへの見方が変わってきます。これまで、自分の目の前に見えているものだけを、不当に大きく見て、大事なことを見失っていたんじゃないだろうか? こう気付き、ふっと肩の力が抜けます。今は承服できそうにないたくさんの理不尽も、いつか理解できるようになるかもしれないと、気持ちに余裕が生まれます。人も赦せるような気がし始めます。嫌なことにもチャレンジしてみようかと、ちょっと意欲的になったりします。自分が見ていること、知っていることは、全体のほんの一部なんだと、自然に謙虚な気持ちになります。
ハリストスにみちびかれホンのわずかでも高いところに引き上げられた時、同じことが起きます。
最初で最後の愛のわざ
正教会には聖パン記憶という習慣があります。聖体礼儀で、大切な隣人たちの名を記した紙を、小さなパンと一緒に提出しておくと、司祭がその名を記憶しながら聖戈(ナイフ)でパンの表面から小片をつまみ取ります。その小片は最後に集められ、主の聖体血であるパンとぶどう酒が入った聖爵(カップ)に混ぜられ、神の恵みへの与りを象ります。
記憶すること、即ち心に掛けること、これが最初の、そして最後にできる私たちの愛の行為です。
そこで、神の助けが必要な人たちの名を、一生懸命想い出して記してゆきます。でも、もう漏れはないだろう完璧だと安心していると、後から必ず、しまった、病気のあの人、悩んでたあの人、失恋したあの人、仲直りができてなかったあの人…、と何人かの人々を忘れていたことに気付きます。あんなに苦しんでた人を忘れてたなんて…、自分で愛と思ってたものの頼りなさに悄然(ガッカリ)です。
でも、いいんです。このガッカリを繰り返すからこそ、逆に、神様だけは私たち一人一人を、親が子を愛するように、いつも心に掛けて下さることが心に沁みてくるのです。
失敗にくじけず、人を一生懸命愛そうと何度も立ち上がることの中で、人は神の愛の完全さを知ってゆきます。
衆罪人のうち我第一なり
正教会では、聖体礼儀でご聖体を受ける直前、信徒は声をそろえ領聖祝文という祈りを唱えます。そこに「衆罪人のうち我第一なり」という言葉があります。罪人たちの中で自分が最も罪深いという告白です。実はこれが長い間よくわかりませんでした。自分の罪深さは隠しようもありません。ひどいものです…。でも「第一」ってことはないだろう、第三か第四なら、その通りかもしれないが。この世にはもっと凄まじい奴らがいっぱいいるじゃないか…。
しかしある日、やりきれない自分をどうにも持ちこたえられず、叫んでいました。「神さま早く来て!誰よりもまずこの哀れな私の所に来て!急いで!」。その時「罪深さ比べ」はしていませんでした。誰の罪が自分より深いか浅いかなんて問題ではありませんでした。ぼろぼろになりそうな自分が「第一」でした。まさに「衆罪人のうち我第一」でした。
神ハリストスは、私たち一人一人を最愛の者とし、その救いをそれぞれ「第一」として、この世に来て下さいました。「罪の赦しと永遠の生命」(領聖祝文)として、ご自身のお体を携えて。
福寿草
心の中のたくさんのイヤな思いを持て扱いかね、散歩に出ました。小さな流れのかたわらに、一株の福寿草を見つけ、思わず立ち止まりました。浅黄色の葉に包みこまれるように、開きかけた山吹色の小さなつぼみがいくつか寄りそっています。花の美しさに心を捉えられたことは何度もありますが、こんな、はっとして息をのむような体験は初めてです。「気高さ」という言葉が、不意をついて心に浮かびました。
こんなありふれた小さな花がこれほど気高いのだから、人はホントはどれほど気高いものだっただろう…。神様が「われわれのかたちに、われわれにかたどって」と(創世記1:26)お造りになり、祝福を与えたのが人なのですから。人がその思い上がりと卑しい思いで踏みにじってしまったのが、その気高さでした。
それでも神様は、欠けた器を投げ捨てるように人を滅ぼそうとはされず、かえって救い主イイススによって私たちに立ち帰りをお呼びかけ続けます。がらくたの散らかった人の心の片隅には、なお小さな福寿草が気高く咲いているからです。…私たちが気高さへの感動を保ち続ける限り、イヤな思いの渦巻く自分自身を卑しいと感じられる限り、人はなお気高いものです。
望みひとつで
受験や就職、また恋愛や結婚、いずれも「受け入れられる」のは一苦労。気のおけない友達や、寝食を共にする家族からさえ思わぬ拒絶にあい、ガク然とすることもあります。セールスマンの売り込みなど、たいていは玄関払いです。私たちは、なかなか受け入れてもらえない世界で、受け入れられるよう、ほとんどすり切れそうになりながら懸命にもがいています。
でもここに、自分が望みさえすれば必ず受け入れてくださる方がいます。神さまです。神さまは条件や、成績や、資格は問題にしません。もちろん学歴も容貌も。ネクラで「みんなに嫌われる私」でも、おずおずと進み出ただけで「ほんとうに、よく来たね」と、神さまは走りより、抱き取ってくれます。
私たちはこの方を忘れ、受け入れられないかも知れない「この世」こそ「人生の一大事!」と、その入り口で押しのけ合っています。喚きながら、傷つけ合いながら、泣きながら。…「仕方ない」ですか。でも、そう決め込む前に、あなたの小さな望み一つで、神さまに受け入れていただきませんか。大きな安堵の中で、もう一度、ほんとうに「仕方ない」かどうか、考え直しても遅くないでしょう。(ルカ福音15:11-32を読んでみてください)
神さまの悲しみ
友人の告白。「日曜日の晩、せがれもバイトが休みって言うから、女房とスキヤキの用意して待ってたんだ。上等の肉買ってさ。ところが、七時になっても八時になっても帰ってこない。ごちそうだから早く帰れよって念押ししたのに。九時近くにやっと戻ってきたら、『友達とマック食ってきた、メシいらない』って、さっさと自分の部屋に上がって行きやがってさ。やっちゃったよ、カーッとなって。テーブルひっくり返し。ガラガラ、ガッチャーン。…情けなくて、ちょっと泣いた」。
神さまの悲しみも、この友人の悲しみに似ています。私たちのために最高のご馳走を用意して待っていたのに、私たちはこの世の差し出す楽しみの方が美味いと、その宴にやってきません。言い訳さえせず、自分たちの世界に閉じこもり、忍び笑い…。それを見る神さまの、私たちへの愛は、熱く火がつきそうです。「主は焼きつくす火、ねたむ神(申命記4:24)」です。
でも神さまは、私たちのようにテーブルをひっくり返したりしません。赦したい、抱きしめたいと、私たちの閉ざされた心の扉の前で、ご自身の悲しみの熱さを、じっとこらえ続けます。
変わらない?
あるカップルの悩み。結婚したいのですが、引っ込み思案な彼女と、ちょっと「破滅型」で危なっかしい彼は、互いの性格を考えると不安です。友人たちも「やめた方が賢明」と引きとめているとか。
話を聞くうちに、二人が、互いが「変わらない」ことを前提に、立ち竦んでいることに気づきました。二人がクリスチャンでなければ、私も、慎重に…と現実的な助言をしたでしょう。性格を変えるのは大変です。しかし、私は、二人が、ハリストス・神の恵みの内にあれば、人は変わり得る、成長し得ると信じ洗礼を受けたことを、思い起こしてもらう方を選びました。支え合い、ぶつかり合い、励まし合って、変わっていけるはずでは? 変われるなら、二人の結婚に希望はあるのでは? この希望に賭けるのがクリスチャンの真骨頂では? これまでの「変わらなかった」人生を、これからも「変えられない」と思い込み、「変わらないまま」終えていいの?
「変われる」ことどころか復活まで、人は、ハリストスに約束されたのではなかったでしょうか。復活祭が間近です。光溢れる祝祭の中で、復活の福音の「現実性」をもう一度、心に刻み込みませんか。
せめて…
実に多くの方が、他人への怒りや憎しみを心に抱いてしまったことを苦しみ、人を愛せず赦せない自分の罪深さを嘆きます。
しかし、心が怒りに燃えたにせよ、その怒りを口にしなかったことを、また腹にのたうつ憎しみがつい口をついて出てしまったにせよ、相手を殴りつけはしなかったことを、忘れてはいないでしょうか。そして、ついに殴ってしまったにせよ、せめて、殺さなかったことを…。自分を苦しめるより先に、もっとひどいことにならなかったのを喜ぶべきではないでしょうか。神さまに赦しを乞うより先に、自分を制してくれた神さまに感謝すべきではないでしょうか。
自分の「ひどさ」は私たちの自己理解をはるかに超えています。愛せない自分に悄然となる人は、人を憎む自分をまだ知りません。人を憎む自分に悄然となる人は、人を傷つける自分をまだ知りません。それを悟らず、愛せない・赦せない自分をいたぶり、神さまに守られていることへの感謝を忘れているのは「傲慢」です。
口汚く罵り、殴りつけて相手を苦しめるより、自分一人が苦しい方が、はるかにマシです。
深い知識とするどい感覚
聖使徒パウェルはフィリップ書でこう祈っています。「あなたがたの愛が、深い知識において、するどい感覚において、いよいよ増し加わるように(1:9)」
お医者さんに患者への献身的な愛があっても、病状や医学への「深い知識」がなければ、その愛は実らず、悪い結果さえ生みます。お母さんに我が子への熱い愛があっても、泣いている赤ちゃんが、空腹なのか、オシッコなのか、体調が悪いのかを聞き分ける「するどい感覚」がなければ、その愛はオロオロ空回りするばかりです。
医師や母親ばかりでなく、人は皆それぞれに愛の課題を負っています。あなたには今、優しさの課題、親切の課題、献身の課題、赦しや仲直りの課題はありませんか。「深い知識」や「するどい感覚」に裏付けられてこそ、愛は生きて働き、ふさわしい解決とよき実りを生みます。
「こんなに一生懸命してあげてるのに…」とつぶやく前に、自分は何でも知っている、何でも理解しているという思い込みを捨てて、もう一度相手の身になって考え、相手の心に耳を傾け直してみたらどうでしょう。さもないと、このつぶやきは、やがて呪いに変わります。
愛される愛
異国での生活で神経症を病んだ恋人のために、どんなことでもしてやろうと奔走する一人の青年を知りました。もう十何年もの間、病気で寝たきりの奥さんの手足となり、早朝から真夜中まで、看病に、家事に、そして生活のための労働に身を粉にしてきたご主人も知っています。
痛々しくも美しい愛に胸を打たれます。
しかし、この愛の美しさは、献身する彼らだけのものでしょうか。「サビシイ、行カナイデ」とすがる彼女、夫の世話を静かな微笑みで受け取り続けた妻、彼女らの「愛される愛」がなければ、彼らの「愛する愛」は空回りするほかなかったでしょう。
クリスチャンは愛をただ一つの人生のルールとし、愛を讃えます。しかし、愛の栄誉は、献身し、奉仕し、犠牲を払う者だけに与えられるのでしょうか。献身され、奉仕され、犠牲を払わす者たちがいてこそ、愛は実際に生きて働きます。教会には多くの「愛の聖人」がいますが、その陰には「愛される愛」で彼らを輝かせた無数の人々がいたことを忘れてはなりません。
イイススの差し出す神の「愛する愛」も同じです。
踏みとどまる
何人かの少年が、憎しみや、怒りや、歪んだ欲望の衝動にかられ、人を傷つけたり殺してしまいました。彼らとその家族の重苦しい将来を考えると胸苦しくなります。少年たちだけではありません。成人の犯罪も、その多くが利害のからんだ計画犯罪ではなく、情念の衝動をせき止められず、ある一線を踏み越えてしまったものです。その情念の質がいかに異常であっても、日々、感情のうねりに翻弄される私たちと無縁ではありません。
当然の憎しみにせよ、正当な怒りにせよ、口に出して罵ったり、まして暴力を振るってしまえば取り返しがつきません。何よりも自分自身が深く傷つきます。「心が傷つく」なんて生やさしいものではありません。胸の奥がほんとうに何週間も痛いのです。
ムカつく思いを心に抱いているのは、ほんとうに苦しいことです。でも、踏みとどまらなければなりません。正直に言います。踏みとどまっても、おそらく何の解決もありません。しかし、いったん火を吐いてしまえば、心臓が引きちぎれます。心はボロボロです。惨めです。
祈って、祈って、祈り抜くほか、踏みとどまる術はないように、ようやく本気で思い始めています。「主イイスス・ハリストス神の子や、我罪人を憐れみ給え」と。
生きかた本
書店には「生きかた本」が山積みです。自分探し、人間関係、生き甲斐…から、ストレス解消のコツに至るまで、現代人が、生きることをどんなにやっかいで重苦しいものと感じているか、よくわかります。そこでは人生の知恵が、優しく口当たりよく、説かれています。気持ちイイわけです。でも何か違う。何か欠けています。
それは責任の意識、生きることは務めという意識です。
確かに、不要な苦しみは賢く避けて通り、よい人間関係のために心のおしゃれをし、ストレスは上手に解消するのはよいことです。しかしそうしてもなお、思い通りにならない苦しみ、理解して貰えない苦しみ、生きるための苦しみ、病気の苦しみ、そしていつか死なねばならない苦しみは残ります。それを潔く認め、取り乱すな
と言うのではありません。七転八倒してもいい、…するでしょう、してます。でも生きることの責任だけは忘れないで一緒に生きよう!と呼びかけているだけなのです。
心は死にたくても、実は心ほど悪くはない肉体は、この「責任」を知っています。肉体は、どんな時にも、生きたがっているではありませんか。
肉体は自分を創造した「神」を忘れないからです。
善悪を知る木
人は神に背き「善悪を知る木」の実を食べてしまいました(創世記2章)。神が備えてくれた善いものをみんな投げ捨て、これからは生きるために、幸福のために、自分の力で何もかもを知り、判断していくと宣言したのです。
それ以来、人は世界をむさぼり尽くしました。宇宙の神秘も生命の神秘も暴き出し、善(有益なもの)と悪(有害なもの)をよく知って、自らの幸福に役立てようと懸命に働き続けました。人は神に背いた時から、何でも自分の力で切り抜けねばならないと、自らを追いつめ続けてきたのです。生意気な息子が親の庇護を嫌い「うるさい、あんたの世話になんかなるか!」と家を飛び出したようなものです。
そして今、人は自ら、まだ息をしている人が、死んでいるのか生きているのかを決め、死んだ人の生きた臓器を、どの人に提供するのが最もふさわしいか、有益かを判断しなければならなくなりました。人はまた、一瞬にして世界を破壊できる力を、「人類の叡智」という危ういものに委ねなければなりません。これらは皆、自分でやると決めた時、自らが背負い込んだ重荷です。
私たちは幸福でしょうか?
せいぜいこんなもの
ひざの抜けたズボンによれよれのシャツをたくし込み、ちょっと出かけようとすると、後ろから「みっともないわよ」といつもの家内の声。「わかってる」とそれは百も承知のいつもの私。「わかってないわよ、シャツの裾がはみ出してるのよ」。それは気がつきませんでした。
人は自分が自覚しているより、もっとみっともないものなんですね。
逆に、まとまりの悪い説教を、どうにもスッキリ整理できないまま日曜日を迎え、話している私自身が、一刻も早く終わって欲しいと、駆け込むように「読み」終えてしまうことがよくあります(恥)。でも、そんな時に限って、「神父さん、今日のお話は心にしみました」と感想をいただくことが多いようです。
「己を知れ」とよくいわれますが、せいぜいこんなものです。人は自分の知っている以上に悪く、みにくく、小さいと同時に、それ以上に善良で、美しく、価値のあるものです。今「自分に見えている自分」にあわてふためいたり、舞い上がったり、滑稽ですね。
神さまとつきあい始めると、この自分の滑稽さを少しずつ認め、受け入れられるようになります。
赦されているからです。
同じです
思いもよらない人から、思いもよらない時に、思いもよらないステキな贈り物をさしだされたら、思わずアッと目を見張ります。やがて、そこに込められた「特別の」やさしさに気づいて、驚きは喜びに変わります。
ハリストスも「特別の」贈り物です。神であるお方が、人となりました。肉体を持たないお方が肉体をとり、苦しむことのできないお方が苦しみ、罪のない、死ぬことのできないお方が、なんと犯罪者として十字架で死にました。ありえない、あってはいけないことが「特別の」恵みとして、与えられました。みな、私たちのために。
「特別の」ことには、「特別」大きなエネルギーと愛がそそがれています。まして神の「特別の」恵みです。神さまがいちばん悲しむのは、私たちが、そこにそそがれた愛を理解せず、受け取ろうとしないときです。
私たちも、恋人や愛する子供たちの、だらしなさや、わがままは微笑んで赦せます。でも、彼らへの「特別の」愛が理解されないとき、受け取られないとき、苦しくて悲しくて胸が焼けただれます。同じです。
喝采
歌番組やのど自慢を見てると、「人は歌いたいんだなあ」とつくづく思います。観衆の熱いまなざしを集め、手をあげ、足を踏ん張り、胸を広げて声を上げたい…
劣等感にうつむき、「おびえ」に縮こまって生きている人、人生に少しも「イイこと」や喜びを見いだせない人々の不幸は、歌を歌えない不幸です。つぶやくことしかできない不幸です。
…でも、歌いましょうよ。声を上げてみましょうよ。立ち上がりましょうよ。目を上げ、手をさし上げましょうよ。ちっぽけで、弱く、無力な自分でも、…生きることが重荷でしかなく、今にも押しつぶされそうな自分でも、ここで、いま、気力をふりしぼって、「誰も代われない、かけがえのないこの『いのち』を、私は生きる」というあなた自身のバラードを歌いはじめましょうよ。
どんな悲しみも苦しみも、それを「他に一つとしてない自分の歌」として、ごまかさず、逃げず、歌い抜くとき、人は輝きます。みんな知っているはずです。
誰も見ていてくれないなんて、言っちゃいけません。
神様が熱いまなざしを注いでいるじゃないですか。
喝采しようと手を広げて待ってるじゃないですか!
不条理
線路に落ちた人を助けようとして、自分も巻き込まれて死亡という悲惨な事故がありました。数日後「善いことをした人たちが、なんであんな目に遭わなきゃならないの?これも神さまの『ご意志』や『摂理』? ひどいじゃない」というお手紙をいただきました。
「神は決して人を苦しめません。影響の大小はありますが無数の人々の判断や行動の積み重ねが、このような事故を生んだのです。その判断や行動は各人の自由意志によるもので、そこに一部のキリスト教派が言うような『全能の神による定め』などありません」。
そうお返事したものの、最愛の者を失った方々にとっては「人知及ばぬ神のご計画として耐えましょう」という「励まし」同様、何の慰めにもならないだろうことに、今も動揺し続けています。「でもなぜ、どうして、この子が!」という叫びを誰も止められません。
しかしイイススも、ほえるように泣くほかない無数の人々とともに、この断じて承服しかねる不条理に抗議の叫びをあげたのではなかったでしょうか。十字架上で神である主が、…おそらく惑乱の中で、こう叫びました。
「神よ、神よ、なぜ私をお見捨てになったのですか」。
バラード
神父には「J-popなんて昔からあるわぃ」ってなものの、高橋真梨子さんのバラード。ハンドル片手にひとりFMに耳を傾けてました。しみじみ歌ってきて、「さび」はついに思いを解き放ち「あなたが欲しい」のリフレーン。天にも届けと歌い上げる気迫が伝わります。
まるで祈りだな、神さま、あなたが欲しい、と歌い変えてもピッタリじゃないか。そう思った瞬間、涙があふれてもう止まりません。
以来あらゆるバラードは神へのバラードです。泥臭い故郷演歌だって、「神」を失いこんなひどい自分になるずーっと前に味わっていた、すっかり安心して身を任せられる親しみに満ちた世界への切ない憧憬の歌と聴くなり、もうティッシュいくらあっても足りません。
演歌であれポップスであれ、どんなバラードも神への祈りとして聴けるように、人が熱い思いで自らを差し向けるものには、何かしら神の余韻がひそんでいます。
ホントは何が欲しいのか心から探り当てたとき、私たちは生きることの一切でバラードを歌い始めます。
夕べの祈りでは「主や、汝に呼ぶ、すみやかに我に至り給え…」と歌います。…あなたが欲しい♪
筋を通す
「筋を通したい」という思いでよく熱くなります。
しかし、たいていの場合、意地になって自分の思いに凝り固まって青筋を立てているだけです。
私もいろいろな人間関係の中で「筋を通して」きました。自分の正しさを押し立て、相手を打ちのめしてきました。理路整然、間違ったことは一つも言いませんでした。そして、たくさんの人と気まずく別れました。「正しさ」が問題を解決したことなど一度もありませんでした。解決どころか、焔のような怒りや憎しみを引き出しただけでした。将来、もしかしたらあり得たかもしれない心からの相互理解の機会も葬ってしまいました。悔いと悲しみがいっぱいです。
今はこう思っています。人は筋を通した説得で動くものではありません。筋が通らないことはつらいことですが、筋を通して人を苦しめる苦しみより、筋が通らず自分が苦しむ苦しみのほうがずっと耐えやすいものです。
そういえばハリストスというお方も、神としてのご自分の筋をあえて通さず、ご自身が苦しむことの方をお選びになりました。このお方が復活したのです。
しあわせ
幸福は「しあわせ=仕合わせ」とも書くように、その人が「出合う」環境や人間関係に左右されます。そしてその出合い、すなわち「仕合わせ」はむごいほどに不公平です。あたたかい家庭に生まれるのも、コインロッカーに捨てられるのも本人には選べない偶然です。この不公平をくつがえせない限り、幸福に生きる努力には限界があります。
反対に「正しく」生きるチャンスと可能性は公平です。
でも誤解しないでください。この「正しさ」は道徳的正しさではありません。豊かで平和な社会に住む私たちには、ギリギリの生存をかけて盗んだり、だましたり、「いかがわしい」職業に就かねばならない人たちに、…場合によっては目の前の敵兵を殺さねばならない人たちに、決してそんなことは言えません。
この正しさは「神への正しさ」です。不公平なこの世で、生きるために罪を犯さざるを得ない人間の弱さ、惨めさを、自分自身のものとしてトコトン知り、心から神さまの愛を信じ、その愛に自らを委ねて生きることです。この正しさを生きるチャンスだけが公平です。そして実はここに真の幸福への道があるようです。
「心の貧しき者(自分の無力を知って神にすがる人)は福いなり」。
「真福九端」(真の幸福の九の教え、マトフェイ福音5:3-12)の冒頭です。
抗議
『「敵を愛せ」(マトフェイ5:44)と教えるなら、最愛の者がたとえ全く理不尽に殺されても、犯人を憎むことは罪なんですか!』 あるお母さんからの激しい「抗議」です。
私だってもし息子が殺されたら、犯人を八つ裂きにする、火のような想像に生涯ふけり続けるでしょう。折りあらば神父の職など放擲して、ほんとうに実行するかも知れません。それでも、この憎しみは「正当」だが「罪」だと申し上げるほかないのです。神は人を憎み合うものに造ったのではありません。誰の目からも「正当」な憎しみであっても、憎しみである限り燃えたぎる火のように心を灼き続けます。地獄です。こんな人の姿を、神は腸(はらわた)がちぎれるような思いで泣いています。神を悲しませてやまないこの人間の生き様全体が罪なのです。
しかしそれでも神はお赦し下さる。むしろそんな私たちだからこそ走り寄って抱き取ってともに泣いてくださいます。神・ハリストスの十字架でのお苦しみです。
この神の赦しだけが、この地獄のなかでのただ一つの希望です。
…当事者でない者が正義派ぶって「死刑が当然だ!」などと叫ぶなら、神の悲しみはさらに深まるでしょう。
ほんとうの人間になりたい
スピルバーグの最新作A.I. 子のない親のため愛の回路を備えた代用ロボット「デイビッド」の物語です。
ディズニーアニメ「ピノキオ」の未来版リメイクですが手塚治の「鉄腕アトム」や「火の鳥・未来編」のイメージも透けて見えます。しかし何よりも聖書が…。
子を失ったモニカが愛を「吹きこむ」ためのパスワードを語りかけると、デイビッドには、廃棄される以外どうやっても取り除けない彼女への愛が植え付けられます。神も土のちりで造った人に息を吹きこみ、生きるものとされました(創世記2:7)。人にはこの、いのちを与えた方への愛が、決して消えることなく刻み込まれています。
やがて実子をハイテク医療で取り戻したモニカは、結局デイビッドを森の奥深くに捨てて去りました。
一方「真実なかた(コリンフ前1:9)」である神は愛を貫きます。いやされない渇きに促されてこの世をさまよう人間のために独り子・ハリストスを遣わされ、ご自身への道しるべとされました。この映画も「たとえ相手が機械であれ愛をインストールした者はその愛に応える責任を放棄できない」と、登場人物の一人に言わせています。
デイビッドは「ほんとうの人間になりたい」と何度も叫びます。機械ですらそう叫び、ついに愛に安らいます。
底つき
アルコールや薬物依存症の患者が、立ち直りへと苦しみや経験を分かち合う互助グループがあります。
その関係者によると立ち直りには幾つか段階があるそうです。最初の段階は精神力や自己管理では絶対に直らない深刻な病に自分は冒されているとハッキリ認めること。病院で治療が始まり、また医師から互助グループを紹介され、活動に参加するようになっても、この最初の段階に至るのは容易ではないそうです。「自分はそんなに深刻ではない」「もう自己管理できる」と勝手に決めて、医師の指導やグループを離れ、結局、前より状態を悪化させてしまいます。その悪循環の果てに心の底から「もうダメだぁ」と「底をつく」時がやがて来ます。この絶望の底で次の段階が唯一の道として示されます。自分は無力でも、「より高い力」を受け入れ自らを委ねれば必ず立ち直れると信じることです。絶望の底でつかんだ希望の中で、立ち直りはようやく軌道に乗るとのことでした。
ハリストスが私たちに差し出すのも同じ立ち直りの道です。ただ、いろんな厄介な心の癖に苦しんでいても、依存症者と違い「何とかやっていける」私たちには、自分の惨めさに真に「底をつき」、悔い改めて主に一切を委ねてゆく道は、かえって険しいとも言えるのですが…。
パスカルの原理
「密閉された容器内の静止流体中では、一点に圧力を加えると、流体中のどの点にも加えられたのと同じ大きさの圧力が伝わる」というのが「パスカルの原理」。お腹がガスで張っているとき、拳でお腹のどこかを押してみれば実証できます。不謹慎ついでに「寅さんの原理」も紹介しましょう。「オレが芋食ってテメエのケツから屁が出るか!」(映画「男はつらいよ」)という、自分のお腹の内圧が高まっても他人の内圧は高めないという原理です。
人と人との関わりを「寅さんの原理」でとらえがちな西方キリスト教(=近代的精神)に対し、東方正教会は「パスカルの原理」主義者です。すべての人々の人間性は深いところでつながり、人間は同じ一つの人間性を分かち合っています。私の憎しみはあなたに伝わり、やがて世界全体の憎しみの内圧を高めます。その内圧を世界が支えきれなくなったとき、悲劇が起きます。
次々現れる「悪い奴」を果てしなく追及し捕捉し処断し続け、憎しみの内圧を更に高めてしまうのと、まず自分が身近な和解をし、また抱え込んできた憎しみを解き、その内圧を少しでも下げるのと、どちらが、平和への戦略として現実的でしょうか、イイススの戦略でしょうか。
時間切れ
私の失敗。街に出てちょうど昼時、約束の時間まで少し余裕もあり、何か美味い物でもと手頃な店を探し始めました。ところが、あれも旨そう、これも食べたい…、と右往左往しているうちについに時間切れ、けっきょく空腹と腹立たしさを抱えて約束の場所へ急ぐはめに。
目に見えるこの世をはるかに超えた「何か」が存在し、その「何か」との関わりの中でしか、人は本当の喜びを味わえないことはよく分かっていてなお、何か「特定の宗教」を現実に差し出されると、身が退けてしまう人がたくさんいます。そういう人々は私のこの失敗と同じ失敗をしかねません。イメージの空回りに疲れ果てたあげく、ついに何も食べずにこの世を去ります。
宗教、とりわけキリスト教はその「何か」との関わりを人が現実に生活として生きられるようにと、「何か」自身から差し出された器です。恐れやためらいを振り切り、手を伸ばして食べて始めて、その「何か」の真の味わいに触れることができます。
「取りて食らえ、これは私の体である」(マトフェイ26:26)。日曜の聖体礼儀のたびに、主・ハリストスの、この呼びかけが繰り返されます。いつまでためらいますか。
「きれいな力が」
「きれいな力が日本を変える」。散歩道で目に飛び込んできたある議員のポスターは訴えます。政治の世界で自分の清潔さをアッピールするのは当然でしょう。また自分の「正しさ」を言い立てることに何の抵抗感も感じないからこそ政治家でいられるとも言えます。それでも「イヤになることあるだろうな」とちょっと勝手に「同情」してしまいました。
自分の「きれいさ」を常に自分に確かめ、周りの人たちに分かってもらおうと緊張していなくてもよいというのは、実は途方もない安堵です。
人生を見つめ抜いた末に、究極の現実として直面したのが、自分の「きたなさ」以外の何ものでもなかった。人はそんな思いに打ちのめされることがあります。その通りかも知れません。しかし、その「きたなさ」をそのままで、自分をまるごと受け取ってくださり、その上で「わたしの光の中を、わたしの聖さに向かって歩み始めなさい」と手を広げておられるハリストス。このお方を知る喜び、私はこれを伝えたい…。
自分のきたなさは、それでもなお痛切に悲しい。でも、もう立ちつくしません。
「まあ、いいか」
七五三や初詣は神社、先祖の法事はお寺、結婚式は信徒でなくても「やってくれる」教会やおとぎ話の宮殿みたいな「大聖堂」で…。こんな日本人の「無節操」のシンボルが、毎年この季節に盛り上がるクリスマス・モード。
「何でこうなるの?」と、かつて「ボクはクリスチャンやないから、プレゼントはいらん」と意地を張る可愛気ないガキだった私は、今でもいぶかしいのですが…、まあ、いいか。
長い間迫害に苦しんだキリスト教が四世紀に一転して実質的な国教となっても、その日から昼が少しずつ長くなる冬至に古くから行われていた「太陽の祭り」だけは祝いたいと「無節操なキリスト教徒たち」は異教の神殿に集まりました。当時の教会も「何で?」と困惑しましたが、ついに一計を案じ「いっそこの祭りをハリストス誕生の祭りに」と取り込んでしまったのが降誕祭です。
というわけで、おやじも世をあげてのクリスマス・モードに乗っかり「一度ぐらいホントのクリスマスを教会でと呼びかけます。あなたもお友達誘ってぜひ。
苦しい時の神頼み
「敬虔な」クリスチャンはよく「自分本位」で「表面的」な信仰のかたちを、「苦しい時の神頼み」と言って軽蔑します。
でも、ほんとうにイケナイのかなぁ。
神父の私だって、苦しい時、どういう心のかたちになっているかを振り返ってみると、神様に願い祈ることなどすっかり忘れて、自分の知恵や力で解決しようと、青筋立ててもがいています。最善を尽くしてダメなら神に祈れとよく教えられますが、いざそうなってしまうと、反対に、神様に文句を言ったり、はては詛っていることの方が多いようです(大恥)。
子を持つ者ならよくわかることですが、子供から感謝されなくったって、けっこう冷静なものですよ。あらためて感謝などされたら、かえってくすぐったく居心地が悪い。しかし、窮状にあって苦しんでいる子が、自分に助けを求めてくれないなら、この悲しみは深すぎて、激しすぎて、悲しすぎて、もちこたえらえません。
神様だって同じです。
苦しい時の神頼み…、捨てたものではないのです。
ダイエット
健康のためダイエットを始めたものの、なかなか思うように体重が減りません。そう嘆いたら言われました。「何年かかってそこまで肥ったか、考えてみなさいよ。それを一月や二月で減らそうなんて無理」。…確かに。
自分の罪深さとその「重さ」にたえかね、ハリストスに救いを求めて、ようやく本気で「信仰」を始めたのに「嫌な自分」は少しも変わらず、むしろ、ますます悪くなっていくような気がする、よく聞くそんな嘆きにも、この忠告はぴったりです。焦ってはなりません。
いざ大掃除!と手をつけ始めると、あらためてあちこちの汚れが目に付くもの。信仰生活も同じです。ハリストスに引き起こされ、ハリストスに向かって、ハリストスとともに歩み始めると、たくさんの自己満足や自己欺瞞が引っぺがされ、今まで気づかなかったいっそう深刻な罪の重さが見えてきます。
しかし、その気づきをむしろ喜びとし、ハリストスの恵みへの確信とよみがえりへの希望を新たにするなら、大掃除後の一新された住まいはすでに約束されています。
同じ希望を分かち合う集い、教会の励ましのなかで、気負わず、焦らず、祈りを忘れずに…。
祈りに興じる
伝統には誰でも近づくことができます。伝えられてきたものを忠実に再現することは根気さえあれば、いずれ誰にでも可能となります。
反対に芸術にせよ、思想にせよ、生き方にせよ独自の新しい世界を創り出すのは誰にでも可能なことではありません。創造的という悪魔的な言葉にとりつかれ、どれほど多くの人々が人生を空費してしまったことでしょう。
生きること、そして日々の生活には安定したかたちが必要です。まずそのかたちを生活の律動の中で、共に生きる人々と分かち合うことが、生きることの喜びや楽しさへの入り口です。私たちの不幸はそのかたちを失い、天才でもないのに創造的、独創的であれと幼い時から教育の場で、仕事の場で追いつめられていることです。
七百年近い歴史を持つ、あるロシアの修道院で十日間過ごしました。そびえ立つ鐘楼から大雪原の彼方を見つめながら、胸を張り、両手両足を繰って華やかに、力強く、そして繊細に幾つもの鐘を奏でる修道士に、伝えられた生活と伝えられた祈りのかたちに興じる、幸福な人間の姿を見ました。
超訳 金口イオアンの説教
復活祭で読まれる金口イオアンの説教を「超訳」で
(参考:正教会では大祭の前に一定の節制期間(斎)が設けられます)
長い斎バッチリなら、胸張ってやっておいで。少し自信なくても「ありがとう」って遠慮無く。ずいぶん後から始めたとしても心配無用。ご馳走は同じ。昨日からでもモジモジせずに、さあ宴卓につこう。ギリギリまで斎なんて忘れていた君も、怒られやしないさ。
なんたって、この宴会の主人は気前がイイ。最後になってやってきた君も、最初からのあのマジメな彼と同じように大歓迎してくれる。えこひいきなんてしないよ。だからって最初からマジメだった者をほめるのを忘れたりもしない。ここに来たなら誰でもOK。マジメ人間の努力も認められるし、ちょっと問題ありの君の「こんなボクでも大丈夫かな」って望みもかなえてくれる。この宴のご主人は、ご馳走するのが大好きなんだ。
ご馳走が宴卓に溢れてる。さあみんな、たらふく食べよう。まるまる肥えたうまそうな子牛じゃないか。この宴に満腹せずに帰ってゆく者が、一人でもいちゃいけない。さあ、寛大無比の主人を信じてこの宴を楽しもう。
もう悲しんじゃいけない、泣いちゃいけない。
自己イメージ
周囲の人々から「かわいいね」、「元気だね」と言われて育った子供は、やがてホントに伸びやかで柔軟な大人に成熟してゆくそうです。反対に「かわいげない」、「ネクラ」と言われ続けると、やがて実際にその通りの大人になる。子供に限らず、周囲の評価が自己イメージに取り込まれ、やがて善きにつけ悪しきにつけ、その自己イメージに現実の自分が近づいてゆくのでしょう。
復活祭から、四十日後の昇天祭まで、正教徒は「ハリストス復活!」「実に復活!」と挨拶を交わします。教会の公式文書も気軽なメールの冒頭も、偶然出会った時も電話の時も、忙しい時も少々落ち込んでいる時も、まずはこの挨拶。罪によって一度は失ってしまったものの、ハリストスの死と復活によって、私たちの内によみがえった「はなはだ善い」(創世記1:31)ものとしての人間のイメージを、互いの内に確かめ合っているのです。
ウッソーと思うでしょうが、まず口に出してみて!
たんなる習慣でも、口癖のたぐいでも結構。汚らしいイメージしか互いの内に見ない生き方で、ほんとうに汚らしくしか生きられなくなるのだけは、何としてもイヤなら、何はともあれ「ハリストス復活! 実に復活!」
神さま好み
「神を愛しなさい」と教えられます。でも、どんな風に? そこでイイススは、神を愛することは隣人を愛することと同じだと、あっさり言い切りました(マトフェイ22:35-40)。人を助け、屈辱を忍び、何度でも赦すのです。
しかし、人助けしようにも「よきサマリヤ人」(ルカ10章)のように、追いはぎに身ぐるみ剥がれてのびている人にはそうザラには出会えません。左の頬を出そうにも、右の頬をぶたれることなど滅多にありません(マタイ5章)。まずさしあたっては、この世で背負う責務をこつこつ果たすことでしょう。仕事も家事も学業もそれを通じて隣人へ愛を届ける大切な仲立ちです。このこつこつに耐えられない者が、どうやって身銭が切れるでしょう。
次には、小さな誤解やすれ違いを穏やかにやり過ごすことです。誤解は正す、筋は通すといきり立つ者が、左の頬まで張られる屈辱にどうやって耐えるのでしょう。
この世の労苦や人間関係で傷ついたからこそやって来たのに結局そこへ押し戻すのかと、お怒りになりますか。
でもどうやら、「自分好みの神さま」ではなく「神さま好みの自分」を目指して、果てしなく心の殻を破ってゆくのが、クリスチャンの生き方のようです。
ケチな野郎
観光地の食堂でのこと。若者が四人にぎやかに談笑している隣のテーブルに料理が届きました。皆しばらく黙々と食べていましたが、一人が突然「こんな、まずいメシ食えるか!」と憤然として箸を置きました。たちまち隣のテーブルはしらけた空気に包まれ、その空気は見る間に食堂全体に伝わりました。
他人や物事に文句ばかり言っている人がいます。この世には完全な人も物事もあり得ません。そのつもりで探せば、いくらでも否定的な面が見つかります。そんな人たちはケチをつけることによって、ケチをつける自分の側の優位をなんとか確かめようと躍起なのです。そんな身構えのまま一生を終える暗さはどれほどでしょう。
人も世界も神様が造りました。人がその罪によって台無しにしたとはいえ「腐っても鯛」、神様の創造物としての善い面はかろうじて保ち続けています。「自分の優位」ではなく「神様の優位」を支えに生き始める時、私たちはケチをつけ続ける人生の不味さに気づき、讃え感謝する人生の美味さを味わい始めます。ハリストスの生命を分かち合う感謝の宴、聖体礼儀の食卓から。
ほんとにカッコイイのは…
ボランティア活動が盛んです。無報酬の自発的な奉仕です。立派なことで文句のつけようがありませんが、忘れちゃ困ることが一つあります。いつでもやめられます。やめても文句は言われません。ボランティアですから。
フリーターなる「職業」が流行中です。失業してやむを得ずではなく、あえて定職につかずアルバイトで稼ぎ、お金が貯まったら、海外渡航や芸術活動やボランティアで自己実現を模索します。そして、こちらも「いつでもやめられる」モードです。どっちもカッコイイですね。
でも家族を養い、子供の世話をし、会社や役所での責任をコツコツ果たす「かってにやめられない」モードで生きている無数の人たちがだまって支えているからこそ「いつでもやめられる」モードがなりたつのです。これを忘れて何か自分がニューモードでこの世の凡俗な人たちを超えてるなんて勘違いするなら、ボランティアだってフリーターだって「おママごと」にすぎません。
自分を捨てて何かに人生を献げるということは、それが、好きな人のためであれ、仕事のためであれ、そして神様のためであれ、「かってにやめられない」モードを引き受けることです。…ホントにカッコイイのはどっち?
こんにちは
「平安」が欲しいなら、自分だけの世界を持ち、そこに閉じこもって誰も踏み込ませないことです。互いの考え方や感じ方の違いに向き合うのは、かなりしんどい、まして「好きだ」の「嫌いだ」のなんて、もうボロボロです。「手を携えて共に進もう」なんて言葉にだまされてはなりません。リーダーの野心のために利用されたあげくポイと捨てられるのがオチです。「君子の交わりは、淡きこと水のごとし」と東洋の賢人が言う通りかも…。
しかしクリスチャンが求め、また求められる平安は、そんな平安ではありません。「平安あれ」と復活した主は弟子たちを祝福しましたが、その「平安」は何よりもまず「平和」です。人と人との関わりが前提の言葉です。
人とのわずらわしい関わりを嫌って、孤独な「オタク」的熱中に閉じこもる者は、たとえそれが神への熱中であっても、この平安からはじき返されます。神さまは父と子と聖神、三位一体のお方です。互いが互いの違いと自由をしっかりと保ちながらも、すべてを開け放ち、すべてを委ね合う「愛」を喜ばれるお方です。
手始めに表に出て、出会った人に「こんにちは」と声をかけてみませんか。
祈り
(古書店の片隅で見つけた無名のクリスチャンの手記から)
主よ、たくさんの怒りが私を苦しめます。
「正当」な義憤もあれば、
小さなプライドを傷つけられたことへの、噴き上がってくる敵意もあります。
何であれ、それが怒りであるなら、
怒りは喜びから、光から、あなたの「いのち」から私を永遠に引き離してしまいます。
怒りはすべてを破壊し、破壊された世界を、さらに怒りで塗り込めてしまいます。
「敵を愛せ」とあなたは教えます。
わかりました。振り上げた手はおろしましょう。
私を傷つけた者たちのために祈りましょう。
彼らに微笑み、彼らが難儀していれば手をさしのべることだってしましょう。
しかし怒りは消えません。お憐れみください…。
主よ、この怒りを、
せめてあなたの悲しみとひとつにしてください。
よみがえりへと私たちをみちびく、あなたの悲しみとひとつにしてください。アーメン。
名前
その名前を耳にするのもイヤ! ましてその名を口にするなど死んでもイヤ!という相手いませんか? いなければ大変けっこう。でも感じわかりません?
逆に言えば名前を口に出して言え、その相手のイメージを思い浮かべられることは、愛の表れだということです。
正教会には聖パン記憶という習慣があります。「記憶」したい人々の名前を用紙に書いて小さなパンを添えて提出しておきます。司祭は聖体礼儀の時、そこに書かれている名を読み上げながら聖矛(ナイフ)でパンの一部を切り取ってまとめておき、最後にハリストスの聖体血(パンとぶどう酒)の入った聖爵(カップ)に投じます。記憶された人々は神の祝福と恵みに浴します。愛の祈りです。
まちがってもこの記憶の用紙に「病を負う人々」とか「苦難する人々」とは書きません。できる限り具体的に思い起こし、その名を書きます。その度に、その相手のために今何ができるだろうという(時には心を刺す)問いかけが返ってきます。具体的な名前を欠いた「記憶」はこの責任から逃げた自己満足にすぎません。全ての人々を愛せるのは神だけです。私たちの愛の課題はいつも具体的です。
名前を呼んでみましょう。特にケンカした相手の…。
かまう
テレビの時代劇でこんな場面が…。
大商人の跡継ぎ息子がどこでどうスネてしまったのか、ぷいと家を出てしまいました。怪しげな町のごみためのような片隅に酒浸りの兄を見つけた弟が、「いっしょに家に帰って、おっ母さんやお父っつぁんを安心させてくれ」と詰め寄ります。兄は茶碗酒をあおって声を荒げます。「縁を切ってくれていいんだ。地獄に堕ちるのはこの俺だ」……。
もし弟が正教の信徒だったらこう切り返したでしょう。
「兄貴が堕ちるなら、俺たちもいっしょに堕ちるんだ。兄貴が立ち上がるなら、俺たちもいっしょに立ち上がれるんだ。兄貴がもう一度はればれと笑うなら、この世は少しばかり明るくなるんだ」。
もしここにイイススがいたら「もうかまわないでくれ」と背を向け続ける兄に言うでしょう。「かまう。最愛の者よ、あなたは地獄に堕ちてはいけない。死んではいけない」。
二千年前、人としてお生まれになって以来、神・ハリストスはいつでも「ここに」おられます。縁を切ってくれとこちらがいくら頼んでも、神は承知してくださいません。
祈りのすがた
考え込んだり悩んだりしている時、どこを向いてます?
下を向いているはずです。ロダンの彫刻「考える人」は膝を組み頬杖をついてうつむいています。私たちは「頭を抱えて」悩みます。頭を抱えて上は向けません。上を向き天を仰ぎながら、むずかしい問題を考えたり、ああでもないこうでもないと悩むのは、そもそも無理です。
考え抜いても、悩み抜いても二進(にっち)も三進(さっち)も行かなくなったら、上を向いてみませんか。外に出て天を仰いでみませんか。握りしめたこぶしを開き、きつく組んだ腕を解いて、両手を天に向かってさし出してみませんか。堂々めぐりの考えや悩みから自ずから解き放たれるでしょう。胸が大きく開かれ新鮮な空気が心の隅々にまで流れ込んでくるでしょう。今までとはまったく違った心のかたちを、喜びの予感の内に体験するでしょう。
ハリストスは病気で十八年間かがんだままだった女を癒しました。体が真っ直ぐになり、女は天を仰ぎました(ルカ13:10-13)。私たちも同じです。ついに両手をあげ天を仰ぎ「助けてくれ!」と嘆き叫んだ時、ようやく「祈り」を取り戻します。癒され始めます。神さまを人生に迎え入れ始めます。
死にたいんじゃなくて
「自殺する人は、死にたいんじゃなくて、生きているのがつらいんだと思う」。
朝刊の特集記事にあった中学生の発言です。なるほど…。
では、生きているのがつらくなければいい、ということか。つらいと感じなければ、自殺まで自分を追いつめてしまうこともないわけです。でも、つらいことは山ほどあります。実際的な解決や、家族や友人の支えや、ちょっとした気分転換の工夫で解消できるつらさもありますが、どうしても取りのぞけない「生きているのがつらい」としか言いようのないつらさもあります。「つらくなければいい」なんて言われたらもっとつらくなるようなつらさです。
…でも「死にたいんじゃない」のです。誰でも生きたい。
生きるには、このつらさをつらさのまま、喜びと一体のものとして受け取るほかありません。
その死がまぎれもなく死でありながら、いのちへの入り口であったという出来事、ハリストスの死と復活が告げたのはまさに、このつらさがまぎれもなくつらさでありながら、喜びへの入り口であり得るということでした。キリスト教はつらくない人生を約束してくれる「幸福への処方箋」ではありません。ハリストスによって意味を取り戻したつらさを生き抜く生き方です。これを信じてみませんか。
満腹
教会にお誘いしても、「神さまがいるなんてとても思えないのに、行っても意味がない」とおっしゃる方がよくいらっしゃいます。若い人たちばかりではありません。
でも探そうとしないなら、神さまはいつまでも決して見つかりません。「いるなんて思えない」は実は「求めていない」を言い換えたにすぎない場合が多いのです。
満腹している心は神さまを求めません。
人はいろんなもので満腹して、神さまへの「飢え」を忘れます。お金や社会的地位、明るい家庭とオシャレな交友、充実した仕事や趣味、深い知識や教養…、「熱心な宗教心」でさえ自己満足してしまえば、神さまを忘れさせます。そして、文字どおりごちそうで満腹した腹は人を眠気に誘うか、新たな欲望の満腹へと駆り立てるばかりです。
教会は今「大斎」という節食と祈りの期間にあります。ひもじさは「お気に入りの自分」をあっけなく引き倒します。目は浅ましく食物を追いイライラが募ります。しかし祈りがこのひもじさを神を求めるエネルギーに変えてくれます。あらゆる心の満腹を壊してゆき、神さまへの飢えを高め、心からの祈りを取り戻し、復活大祭で神さまの愛に満腹するしたくです。
喜び
幼い時から、たくさんのうれしい経験をしてきました。はじめてのお年玉、遠足や家族旅行、志望校への入学、就職…そして恋が実って結婚。これからも次々うれしいことが続くでしょう。いっぽう悲しい経験もありました。これからもあるでしょう。最後には死が待ちます。たくさんのうれしさを分かち合った人たちと別れなければなりません。悲しさが人生の終止符です。私たちのうれしさには限りがあるのです。
しかし復活祭で味わううれしさには限りがありません。昨日までの悲しさ、そして明日からの悲しさもよく知っていて、なおうれしいのです。実は「ハリストス死より復活し、死を以て死を滅ぼし…」と声をかぎりに歌う時でさえ、悲しさは消えません。しかし、それでもなおこのうれしさには終止符が打たれません。これは理屈ではなく、復活祭のあの明るさ、あの賛歌の渦の中で「ハリストス復活!」と呼び交わした者なら誰でも知っている体験です。
「喜び」とはこのうれしさのためにとっておかれた言葉です。クリスチャンはこの世に生きる悲しさを潔く認めます。しかし、いつも目に涙をたたえながらも、ハリストスがくださる永遠の喜びに生きます。
謙虚に耳を
人の話に謙虚に耳を傾けなさいと教えられます。これは、その内容をもれなく、間違いなく、誤解なく、正しく理解しなさいという以上のことです。もちろん正確な理解は大切ですが、ケンカをする時だって私たちは相手の言うことに真剣に耳を傾けます。筋道の通らないところを見つけ、そこを暴きたててギャフンと言わせたいからです。しかし、そこには謙虚さはありません。
謙虚さは愛から生まれるものです。愛は「寛容であり、情け深く、…高ぶらず、誇らず、…自分の利益を求めず、いらだたず、すべてを忍び、すべてを耐え」ます(コリンフ前書13:1-7)。互いの理解を求め、一致をさがし、神さまがお喜びになる実りを生み出そうと心を開き続けます。筋道の通らない部分をあげつらうのではなく、むしろその矛盾そのものに、相手がほんとうに言いたいこと、言いたくても知識や、事情や、わだかまりで言えないことへの入り口を、また行き詰まった議論の突破口を探します。
ハリストスの「教え」さえ、私たちが主を愛し神さまの恵みが注がれてはじめて、人を生かすことができます。まして、私たちが愛に欠け、神の恵みの内にないなら、私たちの言葉は鋭い矢として互いを傷つけ合うばかりでしょう。
テーラー・ウスイ
散歩してたら「仕立屋ウスイ」ときまじめな楷書体で記した、すすけた白ペンキの看板。木枠のガラス窓を透かして、黒縁の丸めがねの親方が一人でミシンに向かっていました。楽しそうでもなく、つらそうでもなく。
もう何年この仕事してるんだろう。家族はもう奥さんと二人きりかな。ついにカリスマ・テーラーにもならず、死んで五十年もすれば誰も思い出さなくなるだろうな…。
しばらく目を留めていると「こういう人生にも、神さまはちゃんと眼差しを向けてくださっているはず」という思いが突然湧いてきて、鼻の奥がツンツン。
大変不謹慎な表現でビクビクものなんですが、「派手に」不幸な人でもなく、また大変すねた物言いで躊躇しますが、嫌味も言えぬほど敬虔で「霊的」な人でもなく、まずこういう人にこそ喜びが与えられ、神さまからいただいた人生は生き通すに値することが証されなければならない、断じて! と一人で力んでしまいました。
こういう人とは、凡俗な生活を無名で生きる私たち自身、私たちの親やきょうだい、隣人のことです。こういう人々が「スーパースター」とされ、「我が霊よ、主を讃め上げよ」と手を広げ声をあげる交わりの場、それが教会です。
営業成績?
セールスマンは愛想よく私たちを迎え、親身に耳を傾け、骨身を惜しまず世話を焼いてくれます。しかし、彼らにとって「お客さん」は営業成績のためのコマにすぎません。こちらもそれを心得ていますから、親切な売り子さんが「ぼくを愛してるのでは」なんてカン違いはしません。
しかし慈善運動に寄付したり活動に参加すると、その「愛」によって自分はまた少し天国に近づいたというカン違いはよくします。善行を「自分の救い」へのポイント稼ぎとして行うなら、セールスマンの「親身さ」と変わりありません。その時その場所で出会う隣人たちのかけがえのなさを知り、そのかけがえのない隣人との、互いが変えられ高められてゆく交わりに勇気を持って入ってゆくこと、それが愛の本質です。クリスチャンの愛の実践は大がかりな慈善運動であれ、通りすがりの親切であれ、隣人一人一人のかけがえのなさへの愛おしみが支えます。
なぜって、まず神なのに人となり、人と共に生き、私たち一人一人をかけがえのない隣人とし、その上で「友のために自分の命を捨てる」(イオアン15:13)ご自身の愛に呼び掛けるハリストスを信じるからです。何と神さまから「かけがえのない者」とされた喜びに生きるからです。
ただ一つの答え
太陽がカッと照りつけるなか木陰で一休み。涼しい風が吹いてきて、汗がひんやりと渇いてゆきます。目を上げると真っ青な海、高く高く盛り上がってゆく真っ白な入道雲。この太陽の熱や、風のそよぎや、海の青さや、雲の白さ…、それらすべてに包まれて私たちは一瞬考える力を失い、立ちつくします。そして我に返ったとき「どうして、なぜ」とこの「不思議」への答えを探します。
科学的な物の見方も知識もなかった時代、人々は自然のこの不思議さを神や神々、目に見えない霊たちの働きだと考えました。でも、それは彼らが「科学的」でなかったからなのでしょうか。科学が進歩すればやがて取りのぞかれる「迷信的」な世界観にすぎなかったのでしょうか。
あらゆる自然現象が科学的に説明しつくされ、人の感情や思いまで脳内の化学変化で説明されようとする現代でも、どこかから吹いてきて、私の身体を包み込み、胸に吹き込まれ、やがてどこかへ去ってゆく風、「今、ここで、私が」味わっているいっさいは、依然として「不思議」のままにちがいありません。「我がたましいよ、主を讃めあげよ」(晩祷や聖体礼儀で歌う聖歌の冒頭)と歌い上げることだけが、私たちの心をほんとうに満たすただ一つの答えです。
怒る者
人を怒鳴りつけたとき、また直接人には向けないまでも、怒りの発作が心を荒れ狂ったとき、そのなだめきれない暴風は結局自分に帰ってきます。二,三日ものを言う気もしなくなるほど打ちのめされるということ、よくあります。
いっぽう人を蔑んで「バカ」と呼んだり、本人のいない所で「あれは、どうしようもないアホ」などと陰口を言っても、そんなに自分が傷つくことはありません。
ところがイイススは言います。「人に怒る者は裁判所に引き渡される。人に『能なし』と言う者は議会に引き渡され、人を『馬鹿者』と呼ぶ者は地獄に落ちる」(マタイ5:22)。
当時議会は普通の裁判所が扱えない重大な罪を裁きました。また地獄に落ちたら決定的です。人に怒るより人をバカや間抜けと呼ぶ方がはるかに罪が重いと主は言うのです。
怒る者はまだ相手を認めています。相手への愛や尊敬があればこそ(あったからこそ)怒りにはまだ人間的な熱さがあります。しかし人を蔑むとき、私たちは人を共に生きともに成長していく大切な人格(あなた)と認めていません。そこには人を「あれ」と呼び捨てる冷たい拒絶しかありません。
そのうえ、自分のこの冷たさに少しも傷つかないなら、私たちの「孤独地獄」の底知れなさはどれほどでしょう。
キョトン
「サザエさん」の作者、故長谷川町子さんのもう一つの代表作は「いじわるばあさん」。週刊誌に長年にわたり連載された四コマ漫画です。毎回、その徹底した意地悪ぶりに爆笑、時に激笑をさそわれ、お腹の皮はよじれっぱなし、息が詰まって死にそうになったことも。
ある時、同年配のご婦人と思い出話しをしていて、話のつぎほに「『いじわるばあさん』面白かったですねえ」と持ちかけたら、真顔でキョトンと…。そのキョトンに今度はこちらがキョトン。やがて彼女から、おずおずと「意地悪の話がどうして?」と問い返されたとき、思わず恥ずかしくなって頭を垂れてしまいました。
自分は、そこそこ善良な人間で、罪など犯したことはないと思うなら、立ち読みぐらいしてみてください。二、三ページでけっこう、その間、ニヤリともしなかったなら、あなたには聖書もまた面白くも何ともないでしょう。でも「うふふ」なら、あなたは充分罪深い。聖書が面白くなる素質があります。手ほどきいたしましょう。
そういえば長谷川さんもクリスチャンでした。もっとも牧師さんや神父さんたち、また「敬虔」な信者さんたちも、よく「ばあさん」の餌食になっていましたが…。
はじめに「自己中」あり
「自己中心的」ほど悪いことはない。どこへ行っても、そう叱られ続けてきたような気がします。
でも、ほんとに「自己中」いけないんでしょうか。
自分の経済的利益や肉体的快楽や、権力や名誉やプライドを最も大切なものとして生きるのが「自己中」です。
求めているのは「自分の気持ちよさ」につきます。ところが「自分の気持ちよさ」を求めれば求めるほど、結果は反対に「気持ち悪さ」として帰ってきます。これがわからないなら、まだ、まじめに「自己中」やってないのです。
自分がほんとに「気持ちよく」なるには、自分の「気持ちよさ」を求める生き方を棄てなければなりません。でも、そんなことを、ただ説教されて心からわかる人などいません。徹底した「自己中」を生きてついに、そのどんでん返しを教訓や道徳ではなく、まことの喜びとして発見します。孤独な「自己中」から人との「交わり」へと解き放たれて初めて、人はほんとうの「気持ちよさ」を味わい始めます。
「自分を棄てなさい」「互いに愛し合いなさい」と教え、教えただけでなく、私たちのためにトコトンご自身を棄てきった神・ハリストスに出会う時です。
「嫌な奴」
ひどい世界です。憎しみと恐怖が人々を支配し、報復以外には、黙って殺されるしか選択肢がないかのようです。しかし、毎晩のニュースに嘆きながらも、私たちは身近な「嫌な奴」への攻撃的ないらだちを抑えようともしません。
イイススも「嫌な奴」でした。金貸しや娼婦など、いかがわしい連中とメシを食い大酒を飲みました。しきたり通り行儀よく振る舞っていることを、愛のない偽善だと告発しました。黙って見つめられただけで、しみ出てくる自分の悪さで、心がひりひり痛みました。
衆議一決。「嫌な奴」は消し去られることになりました。人々の敵意が十字架のイイススを刺し貫きました。しかし主は一瞬で彼らを滅ぼせたにもかかわらず、抗弁もせず、呪いもせず、反対に彼らのために赦しを神に祈りました。
おかげで、神の子を殺したこの世の滅びは少し先送りされ、私たちには悔い改めの猶予が与えられました。私たちの「嫌な奴」への小さな敵意が、世界のどこかで自動小銃乱射の引き金を引いていることに気づく猶予が。
降誕祭、私たちはこのイイススに祈ります。
「世界は美しい…」
キザなタイトルで恐縮ですが、思わずそう声をあげたくなったことはありませんか。
最近では、中央高速を山あいから広々とした伊那盆地に下りて行ったとたん、息をのみました。すっぽり雪をかぶった南アルプスの山なみが、夕陽に染まっていました。
意味もなく世界は美しいのではありません。神に創造された世界は神を讃え、神に感謝します。世界の美しさはその礼拝の献げ物です。いただいた美しさを、それを下さった神に献げ返す他に何もできませんという究極の感謝です。
人がしなければならないのは、この礼拝の完成以外には何もありません。人が神を讃え、感謝するとき、神に造られた森羅万象の壮大な礼拝がついに仕上がります。世界は美を献げますが、人は愛を献げます。私たちに「いのち」を与えた方への胸を焦がすような愛、互いの内にその方に備えられた美を見い出し、育て合おうという愛です。
その愛、すなわち真の礼拝を失っていた私たちに、神はハリストスによってもう一度、愛を注ぎました。主に集う礼拝、聖体礼儀が回復しました。そこで私たちが、心を一つに声をあげる時、世界は輝きに輝きを加えます。生きることそれ自体、生活の一切が礼拝に変えられてゆきます。
「裏技」
「人をさばくな」(マトフェイ7:1)とイイススは教えます。
これが、なかなか、むずかしい。たいてい失敗。だれでもやすやすと守れるような戒めを、主はわざわざ教えません。生真面目にとりくめばそれだけ、しくじった時の落ち込みがひどく、結局投げ出してしまう結果になりがちです。
そこで「裏技」を紹介。
その一。「さばくな」とは言わないけれど、明日に延期しようよ。いつでもさばけるんだから。その猶予の中で「嫌な奴」が実は「いい奴」だった例を思い出せるかも知れません。そうすれば、見えている姿の向こう側にあるものに耳を澄まし、眼差しを向ける余裕ができます。
そこで、その二。自分がさばかれたときのことを、思い出してみようよ。誰だって、決めつけられ、レッテルを貼られて悔しく、悲しい思いしたことあるはずです。
だから、その三。自分が損だから。結局、人をさばけば、さばき返され、自分が傷つきます。だからイイススも「…さばくな。自分がさばかれないため」と付け加えます。
蛇足。「人をさばくな」、一番さばいちゃいけない「人」は自分です。「こんな俺だめだ!」と絶望するのも、一日延期してみようよ。神様だってさばかないで待ってんだもの。
赦さない権利
「人を愛さない」、「人を赦さない」という理由で、人を裁き、赦さなかったことが何度もあります。殺戮と報復を繰り返すテロリストや権力者たちを赦さなかったのではありません。ごく身近な人、身近だった人たちです。
私も「新しいいましめをあなたがたに与える、互いに愛し合いなさい」、「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」と教えられ、「人々のあやまちをゆるすならば、…天の父も、あなたがたを赦してくださる」ことを信じる、クリスチャンのはしくれです。できるだけ人に親切を尽くし、ときに侮辱を耐え、受けた迷惑を見過ごしてきました。しかし「愛さない人」「赦さない人」に関しては、福音書を振りかざして「クリスチャンとして赦せません」といつも弾劾してきました。しかし十字架のイイススが、私のその自己撞着を暴いてみせてくれました。「愛さない」「赦さない」ということは、「愛せない」「赦せない」ことかもしれないよ、その苦しみが君にわかるのかと…。
「もし人をゆるさないならば、…天の父も、あなたがたをゆるさないであろう」(マトフェイ6:15)。愛さない、赦さないことを赦さず、罰する権利は神だけのものです。しかも地獄の火によってではありません。愛せない赦せない私たちをそれでも愛しぬく、その愛の炎の焦熱によってです。
正直に言いましょう
誰でも知ってて、ただ教会ではエチケットとして黙ってることを正直に言いましょう。「勝手に職場放棄するなよ」と怒られるのを覚悟で。
キリスト教に限らず特定の宗教を信じなくても、たいていの人は幸せに生きられます。
そうでしょう? 周囲の人々と常識をわきまえた付き合いをし、勉強や仕事にマジメに励み、朗らかで健康なパートナーを見つけたらつかんで離さず、無茶しなければ、死の床で「ああ、俺の人生を返してくれ!」などと叫ぶことはまずありません。たまたま不幸に見舞われても、たいていの人はそれをはね返すしなやかさを持っています。みんなそう生きているではないですか。けっこう楽しそうに…。
「それでいい」人たちにわざわざ人間の「救いがたさ」など吹き込んでもしかたないでしょう。救われたいとも思ってない人にどうハリストスの救いを伝えられるでしょう。
しかし、そんな人たちにでも、幸せの追求からは決して見いだせない「喜び」は約束できます。実はその「喜び」を失っていることこそが人間の「救いがたさ」の正体です。復活祭の「よろこび」です。(職場復帰できました。ホッ…)
足るを知るな
「足るを知れ」と教えられます。しかしクリスチャンの生き方は「足るを知る」こととどうもなじまないようです。
聖使徒パウェルは、自分は何の落ち度も不足もない模範的ユダヤ人だったと述べた上で、こう言います。
「しかし、…益であったこれらのものを、ハリストスのゆえに損と思うようになった。…すべてを失ったが、それらのものを、糞土のように思っている。それは、…ハリストスを得るためであり、…すなわち、ハリストスとその復活の力とを知り、その苦難にあずかって、その死のさまとひとしくなり、なんとかして…死人のうちからの復活に達したいのである。…すなわち、後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ…」(フィリップ3:7-14)。
欲が深いと思いませんか。やり切れない事ばかりのこの世が「ウンチや土くれみたいなもの」というのは多少共感できても、ここにある「前のものに向かって」の狂気のようなあこがれには、なかなかついていけません。
しかし、このあこがれがあってこそキリスト教は小うるさい道徳であることを越え、人を真に生かす力となります。
正教の礼拝はこのあこがれを育ててゆく場でもあります。
死をいのちに変えるために
つい先頃、大戦中ナチスの手からユダヤ人たちを救出する活動に奔走し、ついに自らも捕らえられガス室で殺された、女子修道院長のマリヤ・スコブツォアら四人が列聖されました。もちろんローマ帝国時代、オスマン・トルコ支配時代、共産主義時代にも、多くの信徒が信仰を貫き、また主の教えを実践したため致命(殉教)しました。
彼ら致命者のことを思うと、文字通り「足下にも寄れない」という思いに打たれ、めまいすら感じます。信教の自由が保証された平和なこの国で、のうのうと生きている自分たちと彼らが、どうして同じクリスチャンと言えるんだろうか、そんな疑問にさえ捉えられてしまいそうです。
でも考えてみて下さい。致命者たちは死にました。しかし私たちもやっぱり死にませんか。致命者たちは「ハリストスに生きる」ために死にました。私たちだって、いずれは直面するたった一度の死を致命に変えるために「ハリストスに生きる」ことはできるでしょう。
ハリストスに生きる。愛を生きることです。愛のために自分を捨てることです。その時、致命者たちとつながった黄金に輝く輪の中に、私たちも生きることができます。
赦しませんか。我儘を止めませんか。忍耐しませんか。
同じ病
駅の待合室で目に入ったテレビは、ガン患者の社会復帰特集が始まったばかりでした。再発や転移を繰り返しながらも、その闘病体験を社会に生かすため、また同じ病に苦しむ人たちを励ますために発言し続けている三人の方の座談会です。最後に紹介された高齢のご婦人は乳ガンの手術後、骨と脳へ転移してしまっているとのこと。さすがに体力的におつらそうな様子でした。司会者が「大丈夫ですか?」と問いかけると、何とか笑みを浮かべて「話したいことは山のようにあります。二時間ぐらいなら何とかがんばれそうです」とのお答えでした。
ちょうどその同じ画面に写っていた他の二人の方の表情に思わず息をのみました。婦人を見守るまなざしと、その口元に浮かぶたとえようもない優しさの深さ…。同じ病を分かつ者どうしだけにある愛でした。
たがいに憎しみあい争いあう私たちが、自分の正当さを言いつのるのをやめて、互いが共に陥っている「人間性の病」の深さを知るなら、この「優しさの深さ」に少しずつ近づけるのではないでしょうか。ハリストスがあわれんでおられるのも、そのよみがえりによって私たちにくださったのも、この病の深さと、そのいやしでした。
無責任な助言
人間関係がこじれたら、思いをお腹にため込まず、洗いざらいぶちまけあった方がいい、「雨降って地かたまる」というじゃない…。
こんな無責任な助言に耳を貸してはなりません。
「君を恨む」と一言、正直な思いを漏らしてごらんなさい。やりとりが始まり、言葉は次第にエスカレートし、やがて、まるで自分のものではないような異様な力が、体をぶるぶる震えさせ、煮えくりかえった腸腑から火が吹き出し、繰り出される罵りの熱さが喉を裂きます。
ぶちまけてはならないものを、私たちは持っているのです。最後にナイフが飛び出さないとも限りません。そう、子供だってあれほどの魔のエネルギイを持っていたんです。
こんな私たちには、こじれた人間関係をほぐすことなどできません。たとえ非が相手にあることが明らかでも、「告発」や「弾劾」などしてはなりません。「敵を赦せ」などと言いたいのではありません。憎しみをぶちまけ「正義」を貫いて、気持ちが晴れたなどという話は聞いたことがないからです。まして和解などは。
ただ、ハリストスの前で泣き続けるべきです。その涙のあたたかさだけが希望です。
ギリシャにありがとう
ブラジルのマラソン選手がレース中、突然一人の男に妨害され、それでも三位に入賞しました。アテネオリンピックのエピソードです。銅メダル受賞後のインタビュー、彼は事件についてはサワヤカにやり過ごし、瞳を輝かせて「ギリシャにありがとう!」と言ってのけました。
多くのメダリストたちが、自分がどんなに嬉しいか、自分がどれだけ頑張ったか、また「金」を逃してどんなに悔しいか…を夢中で語りました。自然なことです。しかし、恥じているに違いない主催地の人々を思いやって「ありがとう!」と、しかもあんな出来事の直後に発言できた彼の「たましいの高貴さ」こそ、あっぱれです。
悔しかったと思います。その悔しさや、ことによれば「怒り」を率直に表現した方が「自然」かもしれません。しかし人間の「自然」は必ずしも美しくはありません。
彼がどんな信仰を持っているかは知りません。しかし、祈りがいつも身近にある人に違いありません。その祈りの心が、ギリシャの人々の大変な骨折りがあってあのような大イベントが成り立つことを、いの一番に思い至らせる「余裕」を生んだのではないでしょうか。
感激屋の勝手な思い入れかな…。
名せりふ 二つ
「過去のない男」という映画を見ました。お察しの通り「記憶喪失もの」です。名せりふを二つパクリました。
主人公は地方から職探しにやってきましたが、ちんぴらに襲われ気絶します。目が覚めたら、港湾地区のはずれ、捨てられた幾つもの貨車のコンテナを住まいに、貧しい人たちが生活するスラム。記憶を失い落ち込んでいる男に、彼を拾ってくれた一家のオヤジが言います。女房に隠れてこそこそビールを飲むような情けない男です。
「過去はなくても生きられる。人生は前にしか進まない」。
「前向きに生きよ」とお尻をたたかれるより、はるかに「説得力」ありません? まさにオヤジの説教。
スラムの人たちは優しい。彼もコンテナを一つ世話してもらいます。でも電気がありません。すると一人のあんちゃんが電線のでかいコイルを持ってきて、電柱からコンテナまで電気を引き込んでくれました。要は電気泥棒。主人公が「お礼はどうしたらいい?」とたずねると、あんちゃん、表情一つ変えずにこう答えます。
「おれが死んだら憐れんでくれればいい」。
カンヌ映画祭グランプリ受賞のフィンランド映画です。
ああ、よかった
「神も仏もない」ことの、「神は愛である」のがまったくの絵空事にすぎないことの証拠のような半生を生きてきた方がいます。文字どおり鬼のような親たちに虐待され捨てられ、草の根を食むような生活の末にやっと出会った夫は、家族を顧みず放蕩のあげくに蒸発、十数年後に戻ってきた時は交通事故で全身麻痺、それでもわがままだけは言い放題。何度も車いすを階段から突き落としたくなったと…。
彼女が疲れ切った声で電話の向こう側から問いかけてきました。
「神父さま、神さまはいらっしゃるのでしょうか? 私のことをみんなご存じで、いつも一緒にいて下さるんでしょうか?」
ことばに詰まりました。そして、ほとんど「職業意識」だけで何の確信もなく申し上げました。「いらっしゃいます。あなたのすべてにいつもまなざしを注いでおられます」。
「ああ、よかった」。受話器から安堵のため息が聞こえました。「神父さまに電話して、ほんとによかった」。
「神や仏もない」と呪える苦しみは、まだ耐えやすいのです。神を信じられなくなるほどの苦悩は、神なしでは耐えられないのです。神の愛です。
「籠城」
子供の頃、何かですねて、部屋に鍵かけ「籠城」したことがあります。母が何度か「もう夕飯だよ、きげん直して出ておいで」と声をかけてくれますが、ますます意地を張って返事もしません。しかし、次第にその声かけの間隔も長くなり、やがて居間からテレビでも見てるのか、どっと笑い声まで聞こえてきます。悲しかった。
ハリストスも「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている」(黙示録3:20)というお方です。神であるお方が人となって、私たちが閉じこもっている「内側から鍵のかかった」(聖イサアク)心の戸口まで来て、「あけておくれ」と呼び掛け続けます。
もし「教会」が気になるなら、あなたはその呼びかけを聞いているのです。うっとうしいでしょうが。
主はあの時の母のように、あきらめて退き帰しません。たとえ私が地獄に堕ちてもその火炎の中で私を呼び続けます。もしその呼びかけが絶えてしまったら、どんなに悲しいでしょう。でもそんなことはあり得ません。主の愛は完全です。
「あり得ない」ことに甘え、私たちはいつまですね続けるのでしょう。クリスマス、こっそり鍵をはづし、笑い声のあふれる食卓をそっとのぞきに来ませんか。
たましいの怠け者
カッコつけて難しそうな本ばかり読んでいた頃、ある思想家が「世界は意味に満ちている、そこにある美や喜びには価値がある、人生には至高の目的があるというのは、何の根拠もない人間の思いこみに過ぎない」ことを、水も漏らさぬ推論を重ねて「立証した」本にぶち当たりました。
「ウソだろう…」と思いましたが、「そんな思いこみは人が考え続けることにへこたれてすがりつく、いわば知的怠け者の感傷にすぎない」という主張を崩せませんでした。
それでも私は世界に、その美しさや広大さやこまやかさに驚嘆し続けました。生きる喜びに、失うこと傷つけてしまうことへの悲しみに、価値や意味の存在を予感し続けました。そしてついに「知的怠け者の極限の開き直り」とでも言われそうな「信仰」という生き方を与えられました。
今ならこう言うでしょう。
「全てが無意味だ」といかに堅固に立証しても、それを他人に伝えたいというあなた自身の「たましいの望み」そのものが、個々人をこえた「交わり」とその価値を自ずと明らかにしてませんか。知性だけが「知る力」でしょうか。
知的には働き者でも「たましいの怠け者」には見えない聞こえない真実こそが、人を生かしています。
名古屋弁丸出し
半月ほど入院しました。お医者さんももちろんですが、看護婦さんたちには、どう言葉を尽くしても足りないほどお世話になりました。
手術後一週間で個室から大部屋に移りすぐに気がついたのですが、看護婦さんたち名古屋弁丸出し。病理学や看護学など難しい勉強をこなしてきた優秀な人たちです。きれいな標準語が使えないはずはありません。ところが患者さんたちに接するときは、お互いに一番気軽にやりとりできる名古屋弁が飛び交います。おそらく大阪の病院なら浪速弁、鹿児島なら薩摩弁でしょう。
病気は職業や地位や学歴に関係なく私たちを襲います。病院はこの世の縮図。「標準」語で話しかけたのでは患者がどんな風に痛いのか、苦しいのか、何をしてほしいのか十分に聞きだせません。どう病気と闘えばよいのかうまく伝えられません。
「罪人」たちと親しくまじわり飲み食いしたと伝えられるイイススも「ご当地弁」丸出しだったに違いありません。病院であれ、どこであれ、人の痛みや苦しみの真ん中にいるなら、どれほど「聖書的」であろうと「正教会的」であろうと「分かち合えない」言葉づかいは無力です。
すべてはつまみ食いから
人類の元祖アダムとエヴァは、悪魔の化身、蛇にそそのかされて、神から食べることを禁じられていた「善悪を知る木」の実を食べてしまいました。この神への背きによって、人は自らに「死」を招いたと聖書は教えます(創世記2-3章)。「死」とは、心と肉体のちぐはぐな生き方、聖使徒パウェルの嘆く「したいと思う善は行わず、してはいけないと知っている悪を行う」(ロマ7:17)、だれでも自分のこととして痛切に知る人の罪深い現実です。すべてはつまみ食いから始まりました。いわば斎(食の制御)の失敗。
ハリストスは宣教開始に先立ち、荒れ野でたった一人、四十日間の断食を敢行。悪魔は何度もそそのかしましたが、主は敢然と斥けました(マトフェイ伝4章)。このいわば「斎の完成」から主の救いの業が始まり、私たちの前に再び「死」から「いのち」への道が開かれました。アダムのしくじりは、「第二のアダム」ハリストスによって挽回されたのです。
私たちも復活の喜びへいたる「いのち」への道を歩もうというならまずハリストスとともに、すなわち祈りとともに四十日の斎を過ごします。たかが食欲すら制し得ない私たちが神とその恵みを離れて生きようとする愚かさを、身に沁みて知るために。
「パッション」
「パッション」という映画、イイススがユダに裏切られてから十字架で息絶えるまでを聖書に忠実に描いたといいます。先端に尖りの付いたムチが皮膚を裂き、手のひら足の甲が太い釘で打ち貫かれ、文字どおり血まみれのイイススが吐息をぜいぜい吐き続けます。
しかしイイススの苦しみは肉体的な苦痛だけだったのでしょうか。ユダに裏切られ、弟子たちは怯えて逃げ去り、人々に嘲られ、群衆に「殺せ、死ね」と罵られ、ついに「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」と叫んだ、主の魂の叫びが聞こえてこなければ、「忠実に」その受難を描き得たことにはなりません。イイススはたんに「痛い思いをした方」ではないからです。どんなに愛しても愛されず、理解すらされない苦しみ、ついには神にまで見捨てられる極限の孤独を分かち合った「究極の隣人」として、私たちを孤独から解き放つお方なのです。
ただこの映画、信仰生活は「慰め」や「いやし」や「復活の喜び」だけの「いいとこ取り」ではあり得ないこと、せめて歯ぐらいは食いしばり、汗ぐらいは流さなければ、「神の国」への門すらくぐれないことは、思い出させてくれます。
大それたこと
人は、ゆるせない苦しみでのたうちます。「へっちゃらさ、ゆるしてなんかやるもんか…」、そう言い放つ人の隠してい
る悲しみの前で何度目を伏せたことでしょう。
「ゆるさなくていい。いや、ゆるしてはいけない」。
受難週の祈りで、ハリストスの受難のさまをくり返し読み上げ続け、またそれに応える「主や光栄は汝の寛容に、汝の苦しみに帰す」と歌う祈りを聞き続け、主が十字架からそう呼び掛けているように感じてなりませんでした。
誰かをゆるそうとする心には、ゆるされるべきは相手だという思いがあります。苦しめられたという思いは、誰かを苦しめ、傷つけていることを忘れています。
人をゆるそう、苦しみを忍ぼうと企てるほど、大それた傲慢はありません。
まったく悪意がなくても(あり得ないことですが)、私たちは人を苦しめます。何も言えない子どもや、オロオロするばかりの親兄弟など、いちばん自分を愛している小さな人たちを苦しめます。ゆるされるべきはまず自分です。
苦しみを忍び、人をゆるすことができるのは最も「小さな」お方、ハリストスだけです。
いのちのことば
ずっとむかし教習所に通った時の「運転教本」がひょっこり出てきました。ゴミ箱へポイ。その時、気づきました。同じように「教え」を伝授する本であっても、聖書は、勉強会を卒業して晴れて洗礼を受けてしまえばポイと捨てられるような本ではなかったということ。
そもそも聖書は「教える本」ではありません。人を生かす本です。(もちろん「教え」や「戒め」はみっちり仕込ま
れていますが)。そのことばに心を開いたなら、人はそのいちばん深い所から揺り動かされます。いのちが与えられ育くまれます。風が入ってきます、泉がわき出します。
たとえば、イオアン福音書の九章に生まれつき目の見えない乞食がイイススに癒された奇跡が伝えられています。イイススは自分の唾で泥をこねて彼の両目に塗り、池に行って洗えと命じ、彼は言われた通りにして目を開かれました。両眼に泥を塗りたくられた一人の乞食が、大勢の人々があざ笑う中を、ころんだりつまづいたりしながらも、池に向かって手探りで走っていく姿を想像してみてください。
「ころんだりつまづいたりしながら自分は今まで何を求めて走ってきただろう」と立ち止まってみてください。
ふとっている者は
イイススは「命にいたる門は狭く、その道は細い」(マタイ伝7:14)。と教えます。「だから」と、ある正教の修道士が言いました、「ふとっている者は天国に入れない」。
耳の痛い話です。ただ、これは肉体の肥満を指しているのではありません。精神の「肥満」です。修道の伝統ではよく「膨満」していると表現します。
何でふくらんでいるのか。プライドです。プライドが様々なこだわりや意地を引き寄せ、争いを起こし、自分も他人も苦しめます。そう言うと、プライドなくしてどうやって「自分」を保つんだ!といきり立つ方がいるでしょう。確かにこの世では、プライドを持たない人はプライド高き人々のぱんぱんに膨らんだ自己主張に押しつぶされてしまいます。この世で「勝ち組」に残りたければ、たとえやせ我慢でもプライドを高く保ち続けなければなりません。
しかし天国には、入り口につっかえて入れません。
天国など信じない人々には通じない話ですが、「プライドの地獄」は現実です。その苦しみを知るなら多少イメージのつかめる話ではなかったでしょうか。
土産物の茶碗に「ないと思うほどあるもの、プライド」とありました。それほどやっかいな情念です。
ピーマン
幼い頃から病気で手も足も動かせない方が、筆を口にくわえて描いた絵はがきを、そう説明して、ある婦人にお見せしたところ、「ふーん」と感心し「おいしそうなピーマンだねえ」とおっしゃいました。
身体の不自由な「気の毒な」人が、なんと筆をくわえて描いたから感心する、もしくは、大きなハンディキャップにめげず前向きに生きる姿に感動する、これがふつうの私たちの反応でしょう。お見せした私にも、そんな反応を引き出して、「ためになる話でもしてあげよう」などという下心がありました。いやだねぇ…。反対に絵を見もせず「そういうのって、あまり…」と口ごもり、あわてて話題を変えてしまう「正直な」人も、よくいます。
「おいしそうなピーマンだねえ」。
この「絵描きさん」には一番うれしい感想ではないでしょうか。アクロバットみたいに巧みに筆が使えることに感心されても、「前向きの生き方」をほめてもらっても、もどかしいばかりでしょう。「そんなことより、僕の絵はどうですか。おいしそうでしょう」…。
そうそう、このご婦人も十数年前交通事故で体中の骨がくだけ、今も杖なしでは生活できないお方でした。
役に立つなら
偽善を恐れるあまり、ちょとした親切にも尻込みし、思いやりも表現できずに凍り付いてしまう人がいます。こういう凍り付きはツライものです。空回りする悪ぶりの中で孤独を深めるばかりです。私自身がそういう人でした。
ある時、正教の師父がこう言っているのを読みました。
「偽善者になることを恐れる者は、自分がすでにたっぷり偽善的であることに気づいていない」。
脳天をいきなりガーンと後ろから殴られたようでした。
偽善的でない愛は、ハリストス・神の愛だけです。私たちの愛は何かしら不完全です。偽善や自己顕示が混じります、ひとりよがりな自己陶酔や、ときに身勝手な利己心だって忍び込みます。それでも親切やいたわりの言葉は凍り付いた心を少しばかりは解かします。手助けや援助は現実に困っている人々をわずかながらも助けます。自分の「純粋さ」への甘っちょろい拘泥はそのチャンスさえ失います。
「私は愛せません。でも主ハリストス、あなたは愛せます。どうかあなたの愛の道具として私を用いて下さい。必要で、役に立つなら私の偽善だって使ってください」。
こう祈り始めた時、少しずつらくになり始めます。
しゃがんでみませんか
せっぱつまったら、しゃがんでみませんか。
写真を撮るのが好きです。得意かもしれません。こつがあるからです。お行儀のよい絵はがきみたいな写真は絵はがきに任せて、しゃがんだり背伸びしたり、自分だけのアングルでファインダーを覗いてみるのです。毎日見慣れたあたりまえの景色でも、思わぬ発見があります。
「そのようにしか見えない」という思いこみを破らなければ、心の袋小路から私たちは出られません。
とはいっても、黙ってしゃがめばピタリと突破口が開けるというわけではありません。依然としてせっぱつまったままでしょう。でもとにかく自分の部屋でも、街頭ででも、公園ででも…、まずしゃがんでみましょう。
突破口は見つからなくとも「ほかの見方もあり得る」という発見は、たとえわずかではあっても心に余裕をくれます。「今自分が見ているものがすべてではない」という思いは、人生への軽率な断定による失速から私たちを救います。しかもこれは「思い」ではなく「真実」です。
目をこらせば、ハリストスが見つかるかもしれません。
ポリポリの法則
かゆいところって、かけばかくほどかゆくなりませんか。最初はちょっと気になってポリ。ポリっとやると、ほわんといい気持ちがひろがって、またポリポリ。いやーあ天国。ポロポリポリ。たまらんわい。ポリポリ、ザリザリ、グリグリ。ついにはボリボリボリッ。皮膚にうっすら血までにじんできます。天国はいつの間にか地獄。やがてそこが慢性的にはれ上がって、そこに爪を立てるのが生活の一部にまで…。知ってますよね。
わたしたち、いろんな悩みやこだわり、はたまた誘惑で苦しみますが、ほとんどの場合、大したことではないことをいじりまわして必要以上に苦しみを大きくしています。最初のポリッがイケナイのです。
この「ポリポリの法則」を知って、最初のちょっとした違和感を無視する練習をしてみましょう。かゆくなったらまず十字を切る。「主憐れめよ」と静かに一度祈る。おもむろに「主憐れめよ」をくり返しはじめる。いつの間にか、なぜ祈り始めたのか忘れています。いや忘れるまで祈る。
生きるのはただでさえ苦しい。だから実体のない苦しさに引き裂かれ、ほんとうに耐えねばならない苦しさ、愛のために背負う苦しさが見えなくなっては一大事です。
意向
「あなたは神の子を産むだろう」という天使の言葉に一度は戸惑ったもののマリヤは「お言葉どおりこの身になりますように」と答えました。彼女は救い主を宿しました。
この出来事を神の動かし難い決定を前にマリヤが畏れひれ伏したことと理解してはなりません。マリヤは天使に問い返し、答えを聞いて「思いをめぐらせ」ついに「お言葉どおりに…」とうなづいたのです。神はご自身の意志を示し、それに対するマリヤの「意向」を訊ね、答えを待ちました。…マリヤを通じて実は私たちが問われています。
人は神の奴隷ではありません。意向を訊ねて下さるほど神に愛される自由な存在です。小さな怒りや憎しみ一つ自分でどうすることもできない惨めで無力なこの私が、何と神から「自由な者」として意向を訊ねられている…。この事実に励まされマリヤ同様に「神の子を産む」か、すなわち人生をイイススを通じて示された神のイメージに生き始めるか、反対にこの丁重な申し出を「重荷」として、そこから逃げ続けるか、私たちは人生の一つ一つの瞬間ごとに問われています。 ハリストス生まる!
うかつなカンチガイ
誰からも好かれ、理解され、共感してもらいたい。そう願わない人はいないでしょう。でもそうはいきません。
「誰からも好かれてる」といううかつなカンチガイが破られたとき人はうろたえ、悲しみ、やがて憎みます。自分を嫌い理解せず、共感してくれない人々を「イヤな人」「悪い奴」「アホ」と決めつけ心に安定を回復しようとします。
しかし実のところは、その大半はイヤな人でも、悪くも、アホでもありません。仮にそうであっても、当の自分がそうである程度のことです。
自分を嫌いな人がいるという現実に、いても立ってもいられず悶えてるなら、それをいなすコツを伝授します。
「私のこと好き?」なんて訊ねまわらないことです。
イイススはたった一度しか「わたしを愛するか」と人に訊ねたことはありません。それも師を見捨てたことで苦しむ弟子ペートルを元気づけるためでした。彼の愛はよくご存じの上で、彼を愛するためでした。
イイススは愛することにしか関心がありませんでした。愛されることにではなく…。
嫌われ、理解されず、共感されずついに殺されました。全く正しく完全な愛のお方でさえそうでした。まして…
笛のおそうじ
笛は息を吹き込むと、笛そのものが息の流れに共鳴して微妙に振動し美しい音がでます。教会はしばしばこの笛のイメージで、クリスチャンの生き方をたとえます。
日本に正教を伝えた亜使徒聖ニコライを讃える賛歌は、「聖なる神に選ばれたる笛」と聖人を讃えます。「聖なる神」は「聖神(せいしん)」、「聖なるプネウマ」で、実は聖なる「息」(ギリシャ語)、すなわち神の息です。人は、神さまがご自身の息を吹き込む笛として創造されました。神さまから注がれる恵みに私たちが信仰と祈りで応えれば、その笛はすばらしい音色を響かせるものへと変えられてゆきます。
しかし笛も息の流れを妨げるものが中にあると鳴らなかったり、きたない音しか出ません。私たちも神さまの息の流れを邪魔するものを自分自身から取りのぞかなければ、「聖なる神(しん)に選ばれた笛」にはなれません。
「心をきよめる」、「自分を捨てる」とは、神さまがたえず注いで下さっている息を招き入れ、その息に響きあい、美しい音を響かせることができるよう、自分という笛をきれいに掃除することです。いろんな汚れがありますが、いちばん掃除しにくいのが、ピカピカになればなるほど気づきにくいやっかいな汚れ、プライドです。
美人が増えてきた
他人のあら探しばかりしている人がいます。たしかに「他人をとやかく批判したり悪口をいうことほどの快楽はない」ことでは、古今東西の「皮肉家」たちは一致しているようです。
でもほんとでしょうか。自分を棚に上げて人を批判するのは…、などと道徳家ぶりたいのではありません。欠点だらけの人々に取り囲まれて生活することがほんとに「快楽」でしょうか。愉快でしょうか、楽しいでしょうか。
ハリストスは人のあら探しをするためにこの世に来たのではありません。人の罪深さはことさら言いたてなくとも、人自身がよく知り、それにたっぷり涙を流し続けてきたことをご承知です。神にとって人の罪は「快楽」などではありません、この上ない悲しみです。だからハリストスは私たちの内に何とか保たれている「良いところ」を探し出し、そこに呼びかけてくれます。「私とともに生きよう」。
それに応えたとき、見つけていただいた「良いところ」が楽しくなります。そして私たち自身も、これまで「あいつはダメだね」と辛辣に裁いていた人たちの中に「良いところ」を探すのが愉快になります。
あら探しをやめると「美しい人」が増えてきます。
どんちゃん騒ぎ
正教会の復活祭、はっきり言って真夜中のどんちゃん騒ぎ。外は真っ暗闇ですが堂内はめいっぱいに灯されたローソクやシャンデリヤの光でキラキラです。色とりどりの玉子やお祝いのケーキが盛りつけられ、めいっぱいオシャレした老若男女はうきうき。聖歌はまるでとどろくように聖堂を揺るがせます。「ハリストス復活」「実に復活」という呼び交わしが各国語でくり返され、「ど派手」な祭服でぴかぴかの聖職者や堂役たちは、年に一度の慣れない礼拝に右往左往…。決して整然とした厳粛な礼拝ではありませんが、喜びが渦巻いています。その喜びに説明を求める者も、説明しようとする者も、もういません。
この喜びそのものが神が人に与えた「人の目的」だからです。神は人をこの喜びに招きましたが、人はその喜びを罪によって見失ってしまいました。そしてついにハリストスが、ご自身の死と復活によって、その喜びへの道を開いてくれました。
罪とはこの「人の目的」、復活祭の喜びを生きないことです。復活祭の喜びに入らないことです。人生を復活祭の喜びで満たそうとしないことです。
ワカッタ、ワカッタ
こちらが何か話し始めると「ワカッタ、ワカッタ」とすぐに話を引き取り自分の考えを語り始めて止まらない人がよくいます。「ちょっと違うんだけど」と内心当惑し、恐る恐る「そうじゃなくて」と一言二言遮ると、「そう、ワカッタ」とまた同じことの繰り返し…。疲れ果てて終いにはもう「どうぞご勝手に」と沈黙してしまう。そんな経験ありませんか。伝えたいのが「大切な思い」なら尚更です…。
私たちは「わかりません」とハネつけられるのはイヤですが、「よくわかった」と出来合いの理屈や常識で整理されてしまうのはもっとイヤなのです。私たちは解剖台で腑分けされて観察される死体ではなく「生きて」いるからです。私たちの「わかってほしい」という切なる思いは、実は「分かち合ってほしい」という胸を焦がす渇きなのです。
神さまも「生きて」います。私たちでさえ「ワカッタ、ワカッタ」とお手軽にうなづいてなどほしくないなら、まして神さまならどうでしょう。
「神さまがわからない」のはあたりまえです。人の小さな理解など神さまが望んでいるはずありません。神さまの望みは私たちとの「分かち合い」です。「神さまのこと」のむずかしさは、その望みの途方もない深さの表れです。
野菜は嫌いですか
最近「絶対に好きなものしか食べない」子供たちが激増しているそうです。給食では野菜が山ほど残され、捨てられているとか。嫌いなものを「無理して食べさせなくてもいい」とする風潮が親たちにもあるようです。
いっぽう、しなければならない、またして欲しいと期待されていることはしようとせず、自分がしたい頼まれもしないことばかりに精を出す「絶対に好きなものしか食べない」大人もけっこう増えているようです。
それはそれとして、子供たちが給食の野菜をまったく残さないようにさせることに成功した学校があります。どうやったと思います?
子供たちに給食用の野菜を栽培させたのです。種まきや苗植え、水やりや草取りを自分自身でやってみて、にんじん一本、ピーマン一個にどれだけの自然の恵み、人々の骨折りがつまっているかを知って、野菜のホントのおいしさに目覚めたのです。
したいことではなく、しなければならないことをコツコツと果たすことが何よりの「おいしいごちそう」であることも、人生を神さまから贈られた「贈り物」として知ってはじめてわかることのようです。
スペシャル
持病の定期検査の日、病院の採血室で採血してもらっていると、隣でおじいさんがそでまくりをしながら、採血の準備をしている看護婦さんに話しかけています。
「わしゃ、こことは二十年来のつき合い。最初に診察受けたのがまだ駆け出しの今の院長。院長には今でも『○△さんだけはずっと診たるから』って世話になっとる」。
看護婦さんの「スペシャルだねえ」というお愛想を聞いて、おじいさんは我が意を得たりと「そうだがや、スペシャル、スペシャル…」。
人は誰でも自分を「スペシャル」だと思いたいし、思ってほしいものです。でもそれははたから見るとしばしば滑稽です。いやらしくも、うっとうしくもあります。みっともないです。そしてたいていの人が「スペシャル」な自分をひけらかした後に、索漠とした思いにとらわれます。それでも性懲り無くやめない…。なんで?
人は一人一人ホントにスペシャルだからです。神さまがそう造ったのです。それが「大衆」や「消費者」にくくられ統計数字の一つにされてしまうから、私たちはいつも欲求不満です。「おれは…」、「私は…」と一人でしゃべり散らし続けます。止められるのは神さまだけです…。
必ず
「神さまを求めて一生懸命祈っても神さまはちっとも来てくれない」と私たちはよく嘆きます。神との奇跡的な遭遇など求めているのではなく、神を「実感したい」という「ささやか」ではあっても切実な願い、それが叶わないというのです。
しかし「神は、それを求める者には必ず応えてくれる」と正教の聖人たちは教えています。「必ず」です。おかしいですね。聖人たちがウソを言っていないなら、こちらに何か問題があるのでしょう。
どうやら私たちはホントの神ではなく、自分にとって気持ちのいい「神さま」を求めているだけのようです。敵のために祈れ、何度でも赦せ、右の頬を打たれたら左の頬を差し出せ、淫らな思いで女を見るなら眼をえぐり出せ、そして自分を捨て自分の十字架を背負ってついて来い、そう命じる神ではなく、「慰め」や「受容」や「いやし」のイメージだけで思い描かれた「自分好みの神」です。そんな神は存在しないので、祈りは届きようがありません。
自分をホントに捨て、「あなたのご意志のままに」と祈るなら、神は私たちそれぞれの愛の課題の中で応えてくれます。神と隣人のために自分を捨てた、少なくともそのために苦闘した者だけが、ためらわず「必ず」と言えるのです。
人に迷惑をかけるな
子供の頃から青年時代まで、くりかえし父にたたき込まれたことがあります。
「人に迷惑をかけるな、自分のした事には自分で責任を取れ、その上で自分のしたい事を好きなだけやりなさい」。
私は「いい子」でしたから、父のこの教えを金科玉条にして生きてきました。でも今ではこう思っています。
「人に迷惑をかけないで生きることなど、絶対にできない、自分のしたことの責任を完全にとることなど、決してできない」。
ベストは尽くせても、パーフェクトは無理ですよ。
考えてみれば「人に迷惑をかけるな、自分のしたことには自分で責任を取れ」というこの教えは、それぞれが「好きなこと」「自分のしたいこと」をして生きるために約束しあっている最低限のルールです。私たちはそれを守れる、守ってると錯覚しながら、自分の「幸せ」をひたすら追求しているわけです。「それでなぜ悪い、パーフェクトは無理でもベストを尽くしてルールを守りあえばいい」という声も聞こえてきます。
ほんとに、それでいいんでしょうか。「幸せ」になることだけが人生の目的なんでしょうか。立ち止まりません?
十字架
二十世紀初頭、無神論者たちによってロシヤ革命が勃発、教会は次々と破壊されてゆきました。しかし熱狂的な共産党員たちでさえ、十字架が屋根に上がったままの聖堂をいきなり破壊するのはためらい、最初にまず十字架を取り外してから手をつけたと聞きました。
私たちクリスチャン一人一人も十字架を胸にかけています。そのことは、ふだんはほとんど意識されていないでしょう。しかしどんなに神さまを忘れてひどい生活に堕ちていっても、どんなにおぞましい思いで心をどす黒く染めてしまっても、どんなに人を裏切り傷つけても、胸の十字架だけははずせません。はずしてはなりません。
はずしてしまったら、いつか白黒の記録映画で見た爆破され土煙をあげて崩れ落ちる聖堂のように、私たちはつっかえ棒を失ってあっけなく滅びてしまうでしょう。
十字架など胸にぶら下げなくても、心にしっかり信仰を持っていれば大丈夫と言い切れる人は、それでけっこう。しかし私たちは弱い。十字架というシンボル、十字を胸に切る習慣…、そういうものが私たちの心の片隅にかろうじて立っている「十字架」を支えていること、革命のエピソードが思い出させてくれました。
御利益
正教の古代の修道師父たちの言葉を集めた「フィロカリア」(「美への愛」という意味)という本にこんな話が出ていました。少し脚色してご紹介します。
ある人がケンカをした友人を憎んで、嫌がらせをしようと手ぐすね引いて機会を待っていました。でも「いざ」という時、いつもの習慣でつい十字を描いて「主イイスス・ハリストスよ、わたしを憐れんでください」と口ずさんでしまいました。たちまち彼の心には苦い思いが広がり、決心はすっかり萎えてしまいました。
彼は心から感謝した…、とあります。
「祈り」には心を込めて、と教えられます。しかし心のこもらない、習慣やくせにしかすぎない、かたちばかりの祈りでもこれほどの「ききめ」があるようです。まして、心がこもっていたなら、どれほどの「御利益」があるでしょうか。
同じ「フィロカリア」で修士マルコはこう教えます。
「神を覚えているときには祈りをいっそう頻繁に行いなさい。そうすれば、あなたが神を忘れたとき、主が神を思い出させてくれるでしょう」
なりふり構わず
「クリスマス・シーズン」街全体が赤と緑のクリスマスカラーに染め上げられます。電飾が点滅し、耳をすませばどこかからクリスマスキャロルが聞こえてきます。この風俗に「潔癖な」クリスチャンは「無節操な」と眉をひそめ続けてきました。
でも、ベツレヘムの家畜小屋にお生まれになった主をわざわざ贈り物を持って「拝み」に来たのは東方の博士たちでした。彼らは「異教徒」。そもそもの始まりからハリストスは宗教、民族を問わず、すべての人々のものでした。
キリスト教が「キリスト教国」の宗教になると「潔癖な」クリスチャンたちはそれを忘れて、ハリストスを「キリスト教」に閉じこめ、自分たちの専有物にしてしまいました。そして伝道を忘れました。
主はその「潔癖さ」を望んでおられるでしょうか。神であるのに人となった主、最も屈辱的な十字架の死を甘んじて受けた主…、その方がいまクリスマス商戦の最前線にお立ちになり、お嬢さんたちが「オシャレ!」と胸につける十字架にやっぱりひとりぼっちで釘つけられています。
降誕祭、この方の愛の「なりふり構わない」途方もない大きさを知る日です。お友達、招いてください。
このお方が
神が信じられないのはあたりまえです。それは何も現代に限ったことではありません。古代ユダヤ人たちの格言を集めた「知恵の書」も「神を信じない者たち」を嘆いています。当時から神が信じられないのはあたりまえだったということです。だから神が信じられなくても、そんなに悩まないでください。見えもさわれもしないものを信じろという方が無理な注文なのです。
でも二千前、見えもさわれもする一人のお方として人々の前に姿を現したイイススなら信じられないでしょうか。「敵を愛し、敵のために祈れ」と教え、「互いに愛し合いなさい。私があなたたちを愛したように」と弟子たちを戒め、「友のために命を捨てること、これ以上大きな愛はない」と宣言し、そして自ら十字架上でその愛を実践し、命を投げ出したお方なら信じられないでしょうか。
このお方が「わたしは道であり、真理であり、命である」と宣言し、「わたしを見た者は父を見たのだ」と告げ、「心を騒がせるな、神を信じなさい」と命じています。
このお方が今も「神を信じ、もう一度いのちを神の贈り物として生きないか」と呼びかけています。そのいのちをご聖体「いのちのパン」として差し出し続けています。
怒るのをやめれば、救われます
カンシャク持ちの私、最近ある本にこう書いてあるのを見つけました。「怒るのをやめれば、救われます」。
思わず笑ってしまいました。「やめられない」から困ってるんだけれどな…。そう思いつつも、確かに至言です。
それにしても「やめられません」。怒り狂ってしまった後のあの苦い索漠感、聖使徒パウェルの「わたしは自分の欲しないことをしている…、わたしは何というみじめな人間なのだ」(ロマ書7章)という嘆きが身に沁みます。
でも最近少しわかってきたのは、もしかしたら「やめられない」ではなく「やめたくない」のではないかということです。カンシャクを起こす直前に、怒り狂う自分に自分を引き渡してしまう一瞬があり、「起こしたい」という欲求に同意して、「起こそう」と決心してしまい、そしてあとは情念の嵐に我を忘れる。「心ならずも情念に翻弄されて、苦しい」なんて言っても、ほんとは「起こしたい」のです。翻弄されたいのです。人はどこまで罪深いのでしょう。
しかし、ここに希望がないでしょうか。逆に「や〜めた」と、決心を翻す余地が一瞬でもないのでしょうか。
そこに「主、憐れめよ」と祈りを滑り込ませ十字を切れば、踏みとどまれるかもしれません。やってみます、今度。
「できる」を取り戻しませんか
一度、完全に死んだ人がよみがえった。イイススに起きたこととして、クリスチャンはそれを信じ、復活祭で祝い、この世に宣言します。歴史的事実としてそんなことがあり得たのか、と不毛な議論をしても仕方がありません。クリスチャンは信じられようが信じられまいが、それを信じる生き方を自分自身に引き受けたのです。
しかしその時、私たちを信じることへ駆り立てた根本的な関心はイイススの復活が歴史的事実であるかどうか、世の終わりに全ての死者が復活するかどうかではありませんでした。人のよみがえりが可能か、いやもっと厳密に言えばこの弱く、罪に傷ついた「わたし」の今、生きるこの場でのよみがえり、新しい歩みだしが可能かということです。
十字架を負うハリストスに、それぞれの十字架を背負って従うならそれは「できる」と信じ、その信仰に人生を引き渡したのが私たちです…、であったはずです。
復活祭の深夜の教会、その輝きのなかで「ハリストス復活!」と呼び交わすとき、私たちは忘れかけていたその決意を思い起こします。「できる」を取り戻します。
「健康な精神は健康な肉体に」?
「多病者ピーメン」という聖人がいます。幼少から病弱で、両親は日夜、当然にも彼の病気が直るよう熱心に祈りました。ところが彼自身は自分がどんな時にもへりくだった心で神に向かえるよう、なんと「病気を治さないで」と祈ったといいます。聖人とはいえ、何だかねえ…。
しかし最近、病気に真正面から立ち向かい、その限界の中でせいいっぱい生きている、また生きた多くの人々を知るようになって、「健康な精神は健康な肉体に宿る」という格言に疑問を感じ始めました。
もちろん「病気の人の方が幸せ」などとは口が裂けても言えません。しかし、ほんとうの意味で「健康な」精神の器は、風邪一つひかない人々より、むしろ病を負う人々ではないでしょうか。病気が課した限界の中でこそ、人がほんとうに必要とするもの、人のほんとうの希望と喜びが体得されます。そして実は誰も病気を、そして死を免れることはできません。だから病気や死に前向きの意味が見いだせなければ、私たちの人生は究極でズッコケています。
健康を自己目的化して「サプリ」だの何だのと騒々しい「健康おたく」の「不健康さ」はどうでしょう…
「天にいます…」
正教会では食前の祈りは「天にいます…」と始まる、ハリストスが弟子たちに直々に教えた「主の祈り」(天主経)です(マトフェイ6:9〜)。そして、聖体礼儀でいよいよご聖体をいただく直前に教会全体が声をそろえて祈るのも「主の祈り」です。これは偶然ではありません。
日常の食事と聖体礼儀での「食事」が「主の祈り」によって結びつけられ、日常の食事が聖体礼儀での聖体血の領聖と同じ意味を分かち合います。意味だけではありません。むしろ同じ「現実」を分かち合うと言うべきでしょう。
聖体礼儀では私たちが、そこに溢れる聖神の働きによって、この世にありながら、やがて世の終わりにハリストスが再臨して完成する「新たなる神の国」の宴に連なります。その「神の国」の食事が「主の祈り」によって日常の食事を変容します。日常の食事がいわば「聖体礼儀」へと、すなわち「神の国」の宴へと変えられ、「食事」を中心にして生きることの全体が「神の国」の現実、少なくとも「神の国」をめざした旅路へと変えられます。
聖体礼儀で恭しく礼拝するなら、日常は投げやりに生きられてはなりません。
せめて、それでも…
シリアのイサアクという聖人がこう言っています。
「もしあなたが憐れみ深くふるまえないなら、せめて自分が罪深い者であるかのように語りなさい。もしあなたが争っている人々を仲直りさせられないなら、せめて争いの原因を作らないようにしなさい。もしあなたが勤勉ではないなら、せめて怠け者にはならないようにしなさい。もしあなたが人の悪口を言う者の口を閉ざせないなら、せめて彼と一緒になって悪口に興じないようにしなさい」。
別の師父がこう言っています、
「もし人に憎しみを抱いたら、それでもその憎しみを口に出すことを止めてくれた神に感謝しなさい。もし憎い相手をののしってしまったら、それでも手を出すことを止めてくれた神に感謝しなさい。もしぶん殴ってしまったら、それでも殺すことを止めてくれた神に感謝しなさい」。
私が禁煙で四苦八苦していたころ、突破口を開いてくれたのはある神父さんとの次のようなやりとりでした。
「吸っちゃいました。なんて意志の弱い人間でしょう。情けなくてたまりません」
「半日ガマンできたじゃない、よかったじゃないか」
ほどなくタバコから縁を切ることができました。
「神父」も逆に「説教」されることがあります。 ある神父さんの告白です。
あるお方に、自分の思い上がりには少しも気づかず得々と「ご意見」を申し上げたら逆襲され「ギャフン」だったとのこと。その方はこう吐き捨てるようにおっしゃたと言います。
「あなたには裁かれたくありません。あなたに何か迷惑をかけているなら裁かれても仕方ありません。でも私はあなたに一銭も借りておらず、あなたの髪の毛一本すら傷つけていません!」
これを聞いて「最後の審判」で裁くのが、なぜ「父なる神」ではなく子・ハリストスなのかストンとわかったとおっしゃいました。私たち人類が十字架に釘つけたのはハリストスだからです。私たちが、難儀しているのに水一杯あげなかった「最も小さい者」は実はハリストスご自身だったからです(マトフェイ25:31-46)。
アレキサンドリアの聖キリルがこう言っています。
「神が人となったのは、もしそうしなかったなら、神が貧しい人々に何もしてやらなかった非情な金持ちを裁く時、悪魔から『あんただって神であるまま、高い所でふんぞり返ってたではないか』と逆襲されてしまうからだ」。
信仰が足らないからだ
「からしだね一粒ほどの信仰をもって祈れば、山を移すことでもできる(マトフェイ18:20)」とイイススは教えました。しかしどんなに熱心に祈っても取りのぞけない理不尽な病や苦難があります。それを「信仰が足らないからだ」(18:20)とは言えません。ある正教の高名な神父がこう告白しています。「何度か、いとけない子供の死に立ち会った。ベッドを取り囲んでいる人々に、私は慰めも希望も与えることはできなかった。ただ『それでもここに神はいるのです』と言うほかなかった」。ここには神への信仰の「極限」が示されています。
いっぽう六世紀のローマ主教聖大グレゴリイは言います。「盲人は『ダビデの子イイスス、私を憐れんでください』としつこく叫び続け、通りかかったイイススの足を止めた。邪悪な思いの激動に苦しめられているなら、あなたも熱烈に祈れ。イイススを立ち止まらせることが必ずできる」。
私たちの意志や努力に無関係に起きる不幸については、沈黙するほかありません。しかし私たちの「よい意志」の関わることならどんなことでも、神は必ず私たちの熱心な祈りを聞きとどけてくれると言うのです。
できないなら「信仰が足らない」のです。
花に水でも
かつては、生活のあらゆる面での「役に立つ知識」をいちばんタップリ持っているのはお年寄りでした。若者たちが難問にぶつかれば、お年寄りの蓄わえてきた経験と知識が生きました。だから「長老」とよばれて尊敬され、大切にされました。社会の変化がゆっくりしていれば、何十年も前に身につけた知識や長い間みがきあげてきた技能は、すこしも古びることはなく立派に生き続けます。
しかし今日のような変化の時代ではそうはゆきません。「役に立つ知識」は新しい変化に柔軟に対応できる若者たちが独占しています。お年寄りは次々に生まれる新しいシステムや技術にオロオロするばかりで「花に水でもやっている」しかありません。その若者だって、次の世代においてきぼりにされる不安にいつもおののいています。
教会、とりわけ正教会では基本的に変化ということはありません。だから信仰生活の経験は古びたからといってホゴにされず、お年寄りから若者たちへその知恵が伝えられてゆきます。「長老」が生きているゆえんです。
旧約時代の「長老」たちの知恵を一つ(「箴言」26:20)。
「人のよしあしを言う者がいなければ争いはやむ」
なぜ殺してはいけない?
「なぜ人を殺してはいけないのでしょう。もちろんボクはイケナイって確信してますが、いざ『どうして?』と考えてみると、答えられません」。
ある青年の問いかけです。
クリスチャンなら「『汝、殺すなかれ』と神に命じられているから」(出エジプト記20章)と答えるかもしれません。
でもこれはたいへん危うい答えです。神を信じない人には答えになっていないし、「神が存在しない」なら殺人がイケナイ理由は特になくなってしまいます。実際は、神を信じない人でもむやみに人は殺しません。むしろ神を信じているという人の方が、たくさん殺してきたかも…。
こんな問いが発せられ、その答えを真剣に考え始めること自体がとても危険なことに思われます。「なぜ」と問うた時、封印していた鍵は半分開いてしまうからです。殺してはいけないことを立証しようと一生懸命考えた末、ついに殺しても構わないという結論に達しかねません。
人には答えを出せないいくつかの「自明なこと」が、私たちのいのちを根底から支えています。それを「畏れる」ことこそが、「信仰」の始まりかもしれません。
ピアノコンサート
アンドレイ・イワノビッチのコンサート。力強く華麗で、そして繊細な演奏に息をのみました。曲目への愛、そこに盛られているイメージや感情への深く熱い思いと、楽しげな共感が溢れています。その上なお、少しの破綻もありません。しかしそれはコントロールが行き届いているということではないのです。いささかも窮屈さを感じさせず、心地よい風に舞っているような自由さに、聴衆の心も共に解き放たれます。おそらく入念な研究と訓練があり、そして吹く風への「委ね」があり、そして愛があります。
私たちはしばしば「思いの過剰」をついに持ちこたえられず、人をひどく傷つけてしまいます。そんなことがあったばかりの私には、彼の演奏には奇跡を聴く思いでした。たとえ善なる動機から発した思いでも、自己過信やプライドが悪魔につけこませるスキを与えます。思いの溢れは豊さへと昇華せず、逆に過剰へと堕し、ついに破れます。
心を誘惑から守るための絶えざる祈りの訓練、そしてなお自己の限界を知り、神のはたらきに委ねきる剛胆な開き直りが必要です。…その上さらに、私たちクリスチャンにはある思いが不可欠です。ハリストスに赦され新生された者なら持たずにはおられない、主が身を以て示した人の姿への執拗なのぞみと意志、――すなわち愛が不可欠です。
醍醐味
本気にならないと醍醐味が味わえないもの、二つ。
一つは恋です。ある人が気になりはじめ、やがて寝ても覚めてもその人のことばかり…、食事はのどを通らず、面影を心に一日中うわの空、急にはしゃいだり、涙がわけもなく流れてきたり…。しかし実際の恋はこんなふうに、魔法にかかったようには舞い上がってはゆきません。気になっていても、そのままうっちゃっておけます。「本気になろう」と決意して始めて燃え始めます。その人のためだけに存在しようと自分を投げ出した者だけが知る、あの目もくらむような醍醐味に酔いしれることができます。
二つめは信仰です。恋に言えることは皆、信仰にも当てはまります。皆さん、少しはハリストスが気になっているでしょう。でも、いつか時が来れば信じられるだろうと、その気がかりを「うっちゃって」いても、信じられるようにはなりません。「それでいいんです…、ほかに楽しいことがあるから」。結構でしょう、でも残念。恋の醍醐味に似ていて、そしてもっと「おいしい」のに。
「気がかり」を「本気」に変えてみませんか。あなたの決意一つです。降誕祭、お待ちします。