§質問§

 ご祈祷以外の、教会の行事や催しはなぜ必要なのでしょう?その準備で疲れたり、 他の方たちに悪いと無理をして、家庭生活などにしわ寄せがきてしまうなら、ない ほうがいいんじゃないかと思うこともあります。

<答え>

諸行事に正しい位置づけを、

 教会生活の基本は聖体礼儀です。その意義がよく理解され、感謝と讃美の祈り、そして領聖によって、神様との交わりが実現されれば充分とも言えます。信徒互いの交わりも領聖を通じてこそのものです。いろいろな会合や、行事・活動は、教会の建物と聖務の維持・管理、伝道、病者・高齢者など「小さき者」への愛の活動など、必要最小限以外は、懸命に御奉仕いただいている皆さんの誤解を恐れず言えば「おまけ」です。領聖で実現した信徒の交わりを育てるのに役立つ限り有意義で、そのためには参加する人たちの心の余裕が前提です。この余裕がないと無理が生じ、信徒の協力関係にかえってひびが入り易いのです。聖体礼儀で領聖し神の平安をせっかくいただいても、「放課後」で神経と体力をすり減らし、あげくに信徒間の気持ちのきしみまで背負い込んだら何にもなりません。司祭や教会役員には行事や催しが正しく位置づけられているかにいつも心を配り、必要であれば取りやめや縮小を考慮する柔軟さも求められます。

現状での諸行事の必要性

 ただ、残念ながら多くの信徒の皆さんが、特に信仰を受け縦ぐべき信徒子弟の皆さんが、教会生活への親しみに今一歩という残念な現実の中では、司祭が牧会・伝道に走り回ると同時に、教会への参祷の機会作りの意味で幾つかの行事は必要ではないかと思います。

それぞれの「余裕」で御奉仕を

 そこで、協力・奉仕の問題ですが、難しいのは各人の「余裕」が同じでない事です。まだまだやれるという余裕のある方もいれば、家族のお世話、お仕事、社会活動、体力などの事情で、余裕が作れない、聖体礼儀参祷だけで精いっぱいの方もおられます。

余裕のない時は率直に

 そこで、諸行事への奉仕の際、求められるのは、余裕のない方ははっきりとそれを表明することです。気兼ねや遠慮は禁物です。みんなが率直に、自分の限界を出すことによって、無理のない計画が立てられ、ほんとうの余裕の範囲の中で活動ができ、間違った方向に進むことが防げます。また、「ごめんなさい。余裕がなくお手伝いできません」と申し出られた方に、「なぜ?」と「尋問」してはなりません。互いの言葉への信頼がなくて教会といえましょうか。
 とにかく、「おまけ」だという事を忘れずに、「おまけ」なりの気楽さ、軽さで、物事を進めましょう。「放課後」が負担になって、聖体礼儀への参祷さえ足踏みする様な状況を作らないよう互いの気配りを!