§質問§
高校生の息子が学校で、キリスト教は神にあらかじめ定められた「選ばれた者」だけが救われるという教えだと習った、そんな閉鎖的な宗教は嫌いだ、と言っています。ほんとうにそうなんですか?
<答え>
カルヴァンの予定論
この考えは、ルターとともに宗教改革とプロテスタント教会の潮流を決定づけた、ジャン・カルヴァン(1509〜1564)の「予定論」です。「人間の自由意志は罪によって絶滅しており、回心は自力ではできない。神の恵みだけがそれを可能にする。人間は、この恵みによる救いにあらかじめ定められている(予定されている)者と、そうでない者に分けられ、後者はどんなに信仰的な努力をしても真実にはハリストスのもとに来ない(救われない)」というものです。日本ではプロテスタントの影響が強く一般のキリスト教観に根深く食い込んでいます。そのため一部の人々の教義にすぎないものが、キリスト教全体に誤解を与え、教会の門をたたく人々を躓(つまづ)かせています。
救いは「決定」されていない
正教会は、この予定論という「教義」をすべての人々を救いに招く神の愛の本質を傷つけるものとして退けます。
痛悔機密(告解)の祈祷でいつも耳にしているように、神は「わたしは生きている。わたしは悪人の死を喜ばない。むしろ悪人がその道を離れて生きるのを喜ぶ(エゼキエル33:11)痛悔機密祈祷文<罪人の死するを欲せず、転じて生きん事を欲する>)」お方です。このような「愛」であるお方が、特定の人々を滅びに予定(決定)しているはずはありません。
確かに聖書には神の「選び」を強調した言葉が多くあります(例、ロマ9:15−18、ロマ11:7)。しかし、これらは、恵みに応え神との交わりに回復された者の、「神の恵みと愛の圧倒的な大きさの前で自分の自由意志など『けし粒』ほど小さなものにすぎない…」という筆舌を超えた「恩寵の体験」を、敢えて人間の限りある言葉で表現したものです。カルヴァンの予定論も神の主権や力ヘの讃美のほとばしりだったものが、西欧の主知主義により教義に固定されてしまったものでしょう。正教会はそういう、生き生きした神との交わりの体験を損なう不必要な「教義化」はできるだけ避けてきました。
恵みと人間の自由の応答
たとえ、けし粒ほどのものであれ、また、罪によって損なわれていても、人間には神の恵みに応え得る自由意志が残っています。神の救いに決定論・運命論は似つかわしくありません。どんな悪人にも、頑固者にも回心の可能性があります。これが、主の「全世界に出て行って、すべての者に福音を宣べ伝えよ(マルコ16:15)」という、教会へのお命じの前提です。