§質問§
教会に熱心な方は自分の意思で洗礼を受けた方が多いように見受けます。私は幼児洗礼。正教は親から押しつけられた家の宗教としか感じられず、教会も冠婚葬祭やパニヒダで神父さんとそこそこにおつきあいしとけばと…いけませんか?
<答え>
いわゆる無宗教の家庭で育ち、中年近くなって正教に入信したある親しい友人の話。
「僕の家には仏壇も神棚もなかった。神殿の前では手を拍てとも、仏像の前では合掌をせよとも教えられなかった。クリスマスのプレゼントはある年齢から、親の無宗教教育の最初の成果だろうか、自分はクリスチャンじゃないからいらないと言ってきた。イヤなガキだね…。でも、高校ぐらいからかな、友人の家へ行くと、ちゃんと仏壇も神棚もあるじゃないか、そして、水やご飯を上げて、毎日格好だけかも知れないけれど拝礼するって言う、…正直言って少し羨ましかった。大学生の頃、僕は無宗教だが無神論者ではないことに気づいた。社会人になり結婚し子どもができた。嬉しいこと、苦しいこと、悲しいことがたくさんあった。「神」とやらいうものに声をあげたくなった。でも、何に向かって、どんなことを、どのように祈ればいいのかわからなかった。そういうときは、たくさんお酒を飲んで、はしゃいだり、暴れたり、泣いたりしていた。聖像(イコン)が飾られ聖書がいつも身近にある家庭で育っていたら、…じゃなきゃ、せめて仏壇や神棚のある家庭で育っていたら、こんな遠回りをしなかっただろうな、女房や子ども達や、たくさんの人たちを傷つけないですんだろうにと、本当にそう思う」。
宗教、とりわけキリスト教は、基本的に神の呼びかけへの人間の自由な応答が前提ですから、家庭や教会による「適切な導き」(「厳格な導き」とはイコールではない)が欠ければ、幼児洗礼者にとってキリスト教はうっとうしい抑圧・生きた信仰を欠いた単なる「生活慣習」に堕してしまいます。
しかし、そんなことをブツブツ言っても、私たちが相当やっかいな人生を生きている、仕事も厳しい、病気もする、人を憎んだり、人と争ったりもする、そんな人生が、いつプツンと死によって断ち切られるかも知れないという事態は変わりません。反対に、愛おしい人たちや美しい世界が私たちを、より善いもの、より真実なもの、より美しいものへと駆り立てていることも。
いずれにせよ人間には祈りや讃美が不可欠です。それがなければ祈りや讃美のエネルギイは呪いと高慢に変ってしまいます。せめて、この祈りや讃美の心を容れ、それに形を与え神に向ける器として、あなたには正教が与えられていると考えられませんか。押しつけられたものにせよ、また気に入らない所、納得いかない所があろうと、それらをとりあえず保留し、まずこの器を受け入れ、この器を用い続けるなら、単なる「家の宗教」はいつかご自身を「生かす道」へと変容するでしょう。