§質問§

 領聖のための心の準備に痛悔(悔い改め)が必要なことはわかりますが、痛悔機密 の時なぜ口頭で罪を告白しなければならないのか分かりません。全能の神は何も言わ なくても私の罪は見通され私の悔い改めの心もわかっておられるはずですよね。

<答え>

「告白」に失敗したアダムとエヴァ

 アダムとエヴァは、神様の言いつけを守らず「善悪を知る木」から実を採って食べてしまいました。二人は罪を意識し、神様の目から隠れようと楽園の木々の間に身を隠しました。神様は、二人がどんな罪を犯しどこに隠れているのかをお見通しだったにもかかわらず、二人に「あなたはどこにいるのか?」と問いかけました。なぜでしょう?答えは、彼らが自分たちの罪を正直に認め、赦しを願い出るのを期待されたからです。これは二人に赦しのチャンスを与えたと理解することもできます。しかし、二人は神様をさらに裏切り、言い訳と責任転嫁に終始しました。人は楽園を追われました。(創世記3:8〜13)

父が子を赦すように

 神様は、父親が子供を愛するように、私たちを愛して下さっています(ルカ15:11〜)。子供が何か悪さをして隠していても、親は、だいたい感づきます。何となくオドオドしている子に何も知らんふりをして、「どうかしたの?○○ちゃん」と聞きます。子供はふるえながらも勇気を振り絞って「お母さんの財布からお金を取ってお菓子を買っちゃった」と告白します。ここで馬鹿野郎!とぶん殴る親はあまりいません。たいていの親は「正直に言えて偉かったね。ゆるしてあげるから約束しよう、もうしちゃいけないよ」と泣きじやくる我が子を抱きしめます。親自身も我が子の良心の苦しみと健気な勇気に目頭が熱くなります。
 痛悔機密も全く同じです。恥ずかしさや、「こんな神父に、なんで…」という思いを克服し勇気を持って罪を告白した時、罪の苦しみや、わだかまりから解かれ、涙さえ流して赦して下さる父なる神に抱き取られる安堵感に、生きる力を回復いたします。
 ほんとうに悔い、ほんとうに苦しんだ末、痛悔告白した経験のある方ならこの安堵感はよく理解できるはずです。この体験が一層神への愛を深めます。(ルカ7:36〜50)

告白の「機密」としての意味

 司祭への口頭の告白は、実は司祭への告白ではなく神への告白です。洗礼の水に沈みまた上がるという具体的な行為が、ハリストスによる、それまでの一切の罪からの浄まりと新しい生命への再生を現実のものにするように、司祭を「証人」とした口頭の告白と司祭による赦罪という具体的行為によって、神様という超越的なお方への告白と神様の赦しが、現実のものになります。(イオアン20:19〜23)