§質問§

 神父さんは、何かというと参祷しなさい・領聖しなさいと言いますね。私は殆ど参 祷も領聖もしませんが、聖書を読んでいつも深く感動し、自分なりにキリスト教を信 じているつもりです。これでどうしていけないんですか?

<答え>

誰が私たちを養っているのでしょうか
 主は「心を入れかえ幼子のような者にならなければ、天国に入ることはできない(マトフェイ18:3)」と教えました。幼子は自分の力で自分を養えるなどとは考えません。母親がいなければ一時も生きられないこと、誰が自分を養っているのかよくわきまえています。信仰には、この幼子同様、私たちを養っているのは神様である、という確信が伴います。「心の貧しきものは幸いだ(マトフェイ5:3)」という有名な聖句も、自分を何ものとも思わずただ神に依り頼む者には天国が約束されると、同じことを表しています。

どなたに養われているかわからないと…
 神様に養われているのがわからない人は自分は自分で養っていると考えます。自分の生活は自分で稼ぎ出し、自分が家族を養い、自分の仕事やその成果を通じ他人や社会すら「養っている」と考えます…。「これでなぜいけないの?」という声が聞こえますが、実はこれにまさる罪は余りありません。こういう思いで生きていると、少しうまくいったり、善いことをするとすぐ舞い上がり「私はなかなか大したもんだ。それにひきかえあの人達は…。」と思い上がり、逆に少し具合の悪いことがあると、あっという間に「なんて私はダメなんだ。どうせ私なんか」と卑屈の中に墜落します。自分をなじることに人はそうそう耐えられません。やがて、「不公平」を恨んだり、人を攻撃したり憎んだりします。愛はどこにもありません。地獄です。神様に養われている確信があれば、母親に抱かれる幼子同様、ゆるぎないやすらぎが与えられます。その安心感のおかげで人生の浮き沈みにあまり動揺せず柔軟に受けとめられるのです。

クリスチャンがご聖体を受けないと…
 あなたも「信じている」なら今言ったことは信仰の「いろは」としてよくご承知と思います。しかし、領聖しないでいるとそれを忘れます。領聖はハリストスのお体と血を私たちの「食べ物」としていただくことです。ハリストスを通じて神様からまさに「養われる」体験です。この体験の積み重ねを通じて、私たちは「自分が自分を養っているんではない。神様に養われでいるんだ」という確信を次第に深め、少しづつ天国に近づくのです。クリスチャンであっても、長い間領聖しないでいると、この確信が揺らぎやがては忘れてしまい、あなたの「自分なりの信仰」という言葉が象徹するように、「信仰」をキリスト教の用語を使った「自分の人生観」に変えてしまいます。やがてクリスチャンという自負があるだけに余計にやっかいな「自分地獄」に堕ちます。
 ふれませんでしたが領聖にはまだまだ深い意味があります。どうそ聖体礼儀に参加
し領聖の体験の中でそれをつかんで下さい。