正教の奉神礼
正教の奉神礼、そこであなたは何を体験するか |
正教会で用いられる祈祷書 |
正教会の聖歌 |
奉神礼の中の聖書 |
炉儀について |
聖体礼儀と教会の一致 |
平安にして出ずべし(聖体礼儀を生きる) |
正教会の祭服 |
正教会のお葬式(死者記憶の基本的な考え方) |
正教会の結婚式(ニコライ堂青年会サイトへのリンク) |
「祈りに興じる」(至聖三者修道院滞在記) |
ロシヤの「古事記」ともいうべき「原初年代記」によると、10世紀末、キエフ候国ウラジミール大公はロシヤ民族がよって立つべき宗教を選ぶため、イスラム教、ユダヤ教、ローマ教会、コンスタンティノープル教会へ使節を派遣しました。それぞれの奉神礼(礼拝・ギリシャ語でリトゥルギア)に参加した使節たちは帰国して報告しました。
「イスラム教の祈りには何の喜びもそこにはありませんでした。うめきとひどい臭いに満ちていて、何の善きものも見いだせませんでした」
「ローマ教会の祈りはそこそこでしたが、美がそこにはありません」
「コンスタンティノープルのハギヤ・ソフィヤ大聖堂での奉神礼では、私たちは天上にいるのか、地上にいるのかわかりませんでした。あんな驚異と美とは地上の他の場所では決して見いだせません。言葉では言い表せませんが、これだけは言えると思います。『そこでは、神が人々の間におられました…』」
この報告を聞いて、ウラジミールは正教をロシヤの国教とすることを決意したというのです。
このエピソードで伝えられる正教奉神礼の素晴らしい美と伝道的な力は、今もどんなに小さな正教徒の集いの中にも息づいています。「来て見て」いただく他、伝えようがないのですが、そこで私たちはどのような体験をするのか、片鱗をご紹介しましょう。
信徒は、単にそれぞれの祈りを祈るために、 聖堂へ集まるのではありません。ハリストスが お集めになった「神の民の集い」をまさに体験 するために集まるのです。人間が、ハリストス によって孤独な「私」から「私たち」に再創造され たことを… |
正教徒の祈りの姿勢の基本は立つことです。 ハリストスの復活と、その復活を自分自身の ものとして体験するためです。 もちろん、病弱な方・高齢者のためにイスは 少し用意されていますが、小さな子供も、幼い 時から聖堂では立つことをしつけられます。 |
聖堂にはシャンデリヤが輝き、たくさんの燭台 には参祷した人たちがささげるロウソクの光が あふれています。私たちを導く神の光、世を照 らす光・ハリストス、教会に溢れる聖神(聖霊) そして私たちの心にともされた信仰、をこれら の光として体験するのです。 | |
聖堂内には、イイスス、生神女(しょうしんじょ) マリヤ、聖人たち、天使たちのイコンが掲げら れ、奉神礼が天と地を一つに結ぶ神の国の集 いであることを表します。 |
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信徒はイコンに接吻し、聖体を受けた後はその カップに接吻します。福音書に伝えられる多くの 人々と同じように、ハリストスに触れます。 |
化を告げる鐘…様々な鐘がそれぞれのつき 方で鳴らされます。 |
奉神礼のいろいろな箇所で、司祭や輔祭に よって香炉が振られます。かぐわしいその香り は天国を連想させ、立ち上る煙は神にささげ られる教会の祈りをかたどります。 | |
正教会の奉神礼はリズミカルに読まれる聖詠 (詩編)や祈祷文と、楽器の伴奏をいっさい伴 わない聖歌によって構成されます。日本教会で は伝道の歴史からロシヤ聖歌が中心です。 |
聖書は、天国から響きわたるがごとく朗々と 高唱されます。単に読まれて、あたまで理解 するのでなく、聖神(聖霊)に開かれた心の耳 で、み言葉を体験するのです。 |
聖体礼儀では福音書の読みに続いて説教が 主教や司祭によって行われます。聖書の新しい 解釈や、聖書や教会の伝統を離れた説教者の 意見陳述はゆるされません。 |
聖体礼儀(他教派ではミサ・聖餐 式)の最後には、パンとぶどう酒が、 聖神のお働きによって変化したハリ ストスの聖体血を信徒は分かちあい ます。まさに神の恵みの味わいです。 |
このように、
正教徒は奉神礼で私たちの心と体をすべて動員して
ハリストスの約束される来るべき世の永遠の喜びを、
この世にありながら体験します。
聖書を頭だけで理解しようとする、させようとする、
説教中心の礼拝(?)とは全く異なります。
ぜひ、いちど「来て、見てごらん!」
正教会で用いられる祈祷書
時課経 正教会の一日の祈りを構成する、真夜中の夜半課から、早課、一時課、三時課、六時課、ティピカ(聖体礼儀代式)、九時課、晩課、晩堂大課がまとめられた、最も基本的な祈祷書です。ただし、基本的な祈祷の流れと、固定された祈祷文のみが掲載され、実際には後述する八調経や祭日経など他の祈祷書を併せて用いなければ完全な祈祷は行えません。パソコンでいえばウィンドウズ95のような、実際のソフトを利用するためのOS(オペレーション・システム)にあたるものと言えばいいでしょうか。
奉事経 司祭や輔祭が徹夜祷や聖体礼儀などの実際の祈祷をするときに便利なように、祈祷の流れと基本的な祈祷文(連祷や祝文)と動作が記されています。司祭によって黙誦(聖歌や連祷の間にとなえられる)される「祝文」は、古代教会から直接伝えられるもので、大変重要なものです。特に聖体礼儀のパンとぶどう酒の尊体血への変化を祈るアナフォラという部分の祝文は、信仰のエッセンスが盛り込まれた重要なものです。信徒の皆さんもぜひ奉事経をお求めになり、一度そのみずみずしい祈祷文に触れてください。
八調経 正教会の祈祷は一調から八調まで八つのメロディー体系を持っています。聖神降臨祭後第一の主日から始まる週を八調として、週ごとに一調、二調と変わってゆき、八調までいったら、また一調に戻り繰り返されます。この繰り返しが基本的に4度行われて、大斎準備週という三歌齋経を用いる期間に入ります。八調経には各調ごとにその週の各曜日の時課や早課、聖体礼儀や晩課にどのような祈祷文が適用され読まれる(歌われる)べきかが記されています。
月課経 一年間を通じての、日々の記憶(記念)されるべき聖人や諸祭日に適用される祈祷文が月ごとにまとめられています。その性質上、聖人や記念すべき出来事が増えるたびに内容が増えてきたわけで、現在では膨大なものになっています。例えば我が国の光照者聖ニコライの列聖に際して、私たちが今一番身近な聖歌として歌っている「ニコライのトロパリ」や他の祈祷文が作られ、月課経に増補されました。我が国では全文は翻訳されておらず、月課経から主要な祭日と主要な聖人の部分だけがまとめられた祭日経が使用されています。
三歌齋経 毎年日付が変わる(移動祭という)復活祭の10週前から使用が開始され、大斎準備週間(最初の3週間)・大斎期(次の6週間)・受難週の祈祷に適用されます。この間、毎年重なり方が変わってくる、祭日や聖人のための祈祷とどのように組み合わせて祈祷すべきかを指示する「マルコの章典」が付属しています。
三歌花経(五旬経) 復活祭から始まる8週間に使用され、最初の光明週間、聖神降臨祭までの次の6週間、最後の1週に適用され、衆聖人の主日(聖神降臨祭後第一の主日)から八調経が主に使用される通常期が再開されます。
福音経・使徒経 新約聖書の福音書と使徒行伝・使徒の書札(書簡)が沢山の小さなまとまり(「端」)に分けられ、年間の教会暦や諸祈祷の中でどのように読んで行くかが指示されています。福音経は美しく金装や銀装され、通常、つねに宝座(祭壇)中央に安置されています。奉神礼の中では、誦読されるだけではなく、輔祭や司祭によって持ち出されたり、高く掲げられたりすることによって、ハリストスご自身やその教えを象徴的にかたどります。
聖詠経 旧約聖書の聖詠(詩編)が20のカフィズマ(座誦経)というグループに分けて記載されています。それぞれのカフィズマはさらに三つの団スタティヤ(段)に区分されています。早課や晩課の中で、各曜日にはどのカフィズマが読まれるべきかについての細かい指定があります。なお、正教会は旧約聖書は使徒たちが用いた七十人訳ギリシャ語聖書(スプチュアギンタ)を使用しますので、聖詠経も、近代のヘブライ語原点から訳されたものとは少し異なる部分があり、また聖詠の番号も一つづれているところがほとんどです。例えば、有名な五十聖詠は、他教派が用いている聖書では51詩編となります。
聖事経 聖体礼儀以外の機密や、埋葬式や成聖祈祷など諸祈祷で用いられます。
これらの祈祷書群は、幕末に来日した聖ニコライ大主教が聖書・祈祷書の翻訳を日本伝道の急務と考えたため、極めて短期間に翻訳されて、今日に伝えられています(月課経以外)。難しい漢語が多用され、今日誰でも読んですぐに意味が分かるといったものではありませんが、含蓄深く格調高い翻訳とリズミカルな文体は、神の国の味わいをよく伝えるものです。代わるべき名訳がない限り、守らねばならないと考えられています。
正教会の聖歌
みなさんは正教会の聖歌というと何を思い浮かべられますか。いわゆる宗教音楽のイメージですか。それとも、ラフマニノフの晩祷などに代表される大聖歌隊の合唱音楽ですか。
どこの地域でも、どんな宗教でも、歌や踊りは神様への捧げものでした。キリスト教でも、プロテスタントの人たちはオルガンに合わせた賛美歌を歌い、カトリックには多種多様な宗教音楽があります。
私たちの正教会の聖歌は、プロテスタントの賛美歌やカトリックの宗教音楽と大きく異なっており、いわゆる音楽として見ると、大変とらえどころのないものです。
正教会の聖歌は、全くの無楽器で信者の声だけで作られています。祈祷に出てみたことのある方はわかると思いますが、司祭の祈りの言葉や聖書の読みにも独特の節回しがあり、参祷者(聖歌隊)の歌も、それと混じり合って渾然一体となって存在します。それは、ロシアの大聖堂などで大聖歌隊とともに祈られる場合でも、田舎の小さな教会で司祭と数人の参祷者でささやかに祈られる場合でも、祈りにすべてを捧げた人々が修道院で夜を徹して祈る場合でも基本的には同じです。
先日「聖地のクリスマス」というCDを聞きました。この中にはカトリック、ギリシア正教会、シリアの正教会、ロシア正教会、コプト教会、アルメニア教会など、色々な地域から集まった様々な教会のお祈りが収められていました。不思議なことに、祈られる言葉もアラビア語だったり、古代ギリシア語だったり、またメロディも違うのに正教会は正教会に聞こえるのです。
さて、正教会の聖歌は、キリストや使徒時代から始まります。さらに言えば、キリストや弟子たちが生きていた時代、当時のユダヤ教の会堂で歌われていた聖歌の片鱗が今でも生きています。例えば、晩の祈りで歌われる「主や爾に呼ぶ」のスティヒラは、旧約聖書の詩編141と(140聖詠。私たちは詩編を聖詠と呼んで、大切にしています)を歌います。これは、大変古い起源を持つものです。また、日曜日の聖体礼儀(他教派では聖餐式・ミサにあたる)の始めの方で歌われる「爾の独生の子」は東ローマ帝国の皇帝で有名なローマ法大全を編纂したユスティニアヌス帝が書いたと伝えられます。
今私たちが使っている祈祷書も、千年も続いたビザンティン帝国で、少しずつ書きためられていったものの集大成です。実際には9世紀くらいまでには祈祷の形も祈祷書も聖歌も完成されていました。私たちはそれを日本語に訳したものを、いまでもそのまま使っています。
当時の聖歌作者は、深い信仰をもった信徒であったのはもちろんですが、ギリシア古典文化の教養を持つ当代随一の詩人、文学者であり、作曲家でもありました。聖歌は、あくまでも祈りの言葉が第1であったので、言葉の抑揚、韻のふみ方、アクセントの位置などに深く配慮した簡素な節がつけられました。
ただ、カトリックのグレゴリオ聖歌と違って、音楽的にそのままの形で後世に残そうとはしなかったので、古いメロディは時代とともに少しずつ変わっていってしまい、今となっては当時どんな節で 歌われていたのかよくわかりません。誰でも知っているような有名な聖歌には歌い方の指示書き( ネウマ、写真参照)すらずっと後の時代までついていなかったそうです。
また、長い間ラテン語のみを教会の公用語として伝道してきたカトリックと異なり、正教会は祈りは現地のことばで行うことを大切にしてきたので、祈りの言葉を翻訳したときに、音節の数やアクセントの位置の相違からもともとの節回しが変わってしまったこともあるでしょう。ロシアや東欧に伝道したときに、キリロスとメトディウスという兄弟がキリル文字という新しい文字まで作って聖書や祈祷書を翻訳したのは有名な話です。
正教は、日本には、ロシアからニコライ大主教によってもたらされ、今私たちが使っている歌は、ほとんどがロシア語からの翻訳です。混声四部のもの、単旋律のもの両方があります。メロディは19世紀にロシア教会で使われていたものがもとになっています。
ロシア聖歌は混声の大合唱ばかりだと思われていますが、実はこれは西洋音楽の影響を受けてから発生した新しいものです。今でも、大聖堂ではそういう聖歌も歌われていますが、普通の教会ではもっとシンプルなものが大半です。大合唱でも、棒読みでも、どんな歌でも祈りの一部である限り聖歌といえます。
ロシアではピョートル大帝以降、欧化政策がとられ、聖歌もまた西洋音楽の影響を強く受けました。それまでは、釘のようなマークや独特の譜面に書かれていたものも、五線譜に普通の音符で書かれるようになりました。ただ、一応五線譜には書かれていますが、歌う高さやスピードは、状況に合わせて変化します。だから、譜面にはファの音で書いてあっても、ピアノのファと合っているとは限りません。西洋音楽の考え方では、五線に書かれた音は、座標上の点のように絶対的な価値を持ちますが、正教会では便宜的に五線の表記を借りているだけで、司祭や誦経者の音に合わせて変化します。
今の時代はものの考え方のベースに西洋文明的なものがありますから、聖歌も音楽の枠組みでとらえがちですが、正教会の聖歌をそれだけを取り出して「芸術」としてとらえても、その本質は理解できません。
かつて、立花隆さんが正教会と西方教会の音楽の違いを簡潔にまとめたものがあるので引用して、今回のお話の終わりにします。あなたは、どう思われますか?
「しばしば東方教会の宗教音楽と西方教会の宗教音楽の相違点として指摘されるのは、前者においては、神が表現の主体であるのに対し、後者においては人間が表現の主体であると言うことである。
人間が表現の主体であると言うことは、その音楽の作曲者と演奏者が、その音楽を通じて自己を表現しようとしているということである。だからこそ西方教会の宗教音楽は、やがて演奏会場で音楽会として奏され、聴衆から拍手を受けたり、作曲や演奏の優劣が批評の対象になったりするようになっていったのである。そうなると聴衆の存在が不可欠になってくる。それに対して東方教会では、神にインスパイアされた人間が、神に聞かせるために音楽を奏している。音楽は神から発し、神に帰る。作曲者などというものは通常いないし、聴衆などというものも原則として存在しない。いるのは典礼への参列者だけなのである。要するにこれは音楽である以上に典礼なのだ。その美しさも典礼の宗教性とわかちがたく結びついている。イコンや壁画で満たされた教会堂という空間。その中の光と陰。僧(聖職者)が会堂の中を振り歩く香炉の薫香。一つ一つの儀礼を満たす静寂と緊張。朗唱される聖書の章句。そういったすべてが総合された体験の中で生きてくる音楽なのだ。(FMファン:84年)」
一度正教会の聖歌を体験しにいらっしゃいませんか。名古屋でもほとんど毎週土曜日の晩祷、日曜日の聖体礼儀が行われています。百聞は一見にしかずといいますが、一聴にしかずだと思います。詳しいスケジュールはE-mailか電話でおたずねください。
聖歌に関するおすすめサイト「東方正教会の聖歌」
もともと、聖書があって教会があったわけでありません。現実はまったく逆で、教会がまずあって、聖書がそのなかから生まれてきました。たとえば、ハリストスと使徒たちが使っていた聖書は、いまでの旧約聖書で、その当時は旧約聖書といわずに、そのまま聖書といっていました。まだ新約聖書が、書かれていなかったからです。
ハリストスが復活して、お弟子たちのなかに現れて復活の福音が伝えられるようになると、ハリストスの生涯について、あるいは教会生活について、もしくは使徒たちの手紙が記録として残されるようになりました。
ハリストスの教会は、そうした記録を大切にしていて、祈りのなかで朗読するようになりました。そのうちひとつにまとめるようになって新しい聖書となり、それまでの聖書を旧約聖書とよび、新約聖書として、二巻まとめて聖書とよぶようになりました。
こうした聖書成立の経緯を忘れると、あたかも最初に聖書があって、それを中心に教会ができたように思ったりします。聖書の大切さが強調されて、教会が二の次になっているような印象を受けたりするのは、宗教改革によってプロテスタント教会がはじまったときからです。
プロテスタント教会は、カトリック教会から反対して出た人たちによってはじめられました。その当時カトリック教会は、祈祷儀礼を重んじることから、聖書を軽んじていました。プロテスタント教会の人たちは、カトリック教会のさまざまなことに反対、つまりプロテストしていましたが、聖書をないがしろにしていたことについても反対しました。ですからフロテスタント教会が起きたときには、法王中心の教会よりも個人の信仰の大切さ、祈祷儀礼よりも聖書と主張されたのです。
プロテスタント教会は、聖書を高くかかげて勢いよく進みはじめました。聖書は信仰の唯一のよりどころになりました。聖書が最も大切なものとなれば、その注釈に注意がはらわれるようになって不思議はありません。そこで、聖書の研究が盛んになりました。プロテスタント教会で説教集がどんどん出版されるようになって現代に至っています。
正教会は宗教改革を体験していません。初代からの聖書理解をそのまま守っています。正教会にとっては、旧約聖書も新約聖書も教会のなかで朗読されるべき、祈りの書です。最初に教会があって、そのなかで忘れがたいできごとが記録されました。
教会生活のなかで起きたできごと、またそのなかで生活する人たちの思いや考え、神への心からの祈りなどが聖書のなかに記録されました。旧約聖書についても同じことが言えます。律法書や預言書があって、神の民がいたわけではありません。神の民が歴史のなかで歩みを続けているときに、あのときには、こんなことがあったと、忘れがたいことどもを記録しました。
神のまえで、その民がこころの足でどのように歩んだかを記したものが聖書といえます。聖書の大切さは、聖書として守られてきたことにありません。教会生活そのものが、そのなかに言葉となっているからです。だから、そのまま祈りの言葉にもなりうるというわけです。
聖書が涜まれるときに、「慎んで聞くべし」と神父や輔祭が唱えるとき、語りかけてくる言葉をしっかりと受けとめるように私たちはこころの耳を傾けます。
聖書は教会生活のなか、それも奉神礼という祈りの場でまず読まれるべきものであるということを忘れずにいなければなりません。祈りの場で読まれる聖書理解を助けるために、ひとりひとり自分で聖書を手に取って読むのです。その時に、勝手な読み込みを避けるために素直なこころで読まなければなりません。それというのも、教会が私たちに語りかけてくるハリストスの復活の福音の調べが私たちのこころに届かなくなるからです。
炉儀
正教会の奉神礼では、実に頻繁に炉儀が行われます。炉儀は「主や爾によぶ、すみやかに我にいたりたまえ。爾によぶ時、我が祈りの声を入れたまえ。願わくは、我が祈りは香炉の香りのごとく、爾の前にのぼり…(140聖詠)」とあるように、旧約時代からキリスト教が受け継いだ奉神礼の大切な要素です。
現在では、振り香炉で乳香を焚き、そのかぐわしい香りとともに、私たちの祈りを神さまに届けるために、輔祭や司祭・主教によって行われます。振り香炉には、ふつう鈴がいくつもついていて、神品が振るたびに軽やかに響き、芳香と共に人々を永遠の神の国へと思いを促します。
香炉は使わないときは香炉スタンドにかけておき、祈祷中は堂役者などが炭が燃え尽きないよう心を配ります。
炉儀の意義
炉儀は、ふつう、宝座から至聖所と聖所内のハリストスや生神女を始め聖人たちの聖像、そして神品と会衆にむかって撒香されます。神品や会衆といった人間にも香が振られるのは、どんな人間でも必ず宿している「神の像(創世記1:27)」への賛美や尊敬を示すためです。罪によって人間性は病んでいますが、それでも神の像はかろうじて保たれ、自分の力では神に近づくことはできないが、神となって人に近づいてきてくれたハリストスの救いに、手をさしのべる自由意志は、人間は誰でも持っているというのが、正教会の大切な人間理解です。
また、祭品(ささげられたパンとぶどう酒)や聖体血の入ったディスコス(聖皿)やポティール(聖爵)、また福音書など、奉神礼の中心になる聖品が移動するときには、必ずその前後にそれらの聖品に対して炉儀が行われます。
また、奉献礼儀で祭品(パンとぶどう酒)の入れられたディスコスやポティールを小伏や大気という布製の覆いで覆うときも、香炉の煙をそれらに焚きしめます。もともと虫除けの意味がありましたが、現在では祭品への尊敬を表す象徴として理解されています。
他教派ではほとんど行わない
炉儀はもともとキリスト教に共通の伝統でしたが、現在では、奉神礼の簡素化が進んだカトリック教会では大祭に少々振られる程度です。またプロテスタンでは信仰の本質とは関係のない意味のない習慣としてまったく行われていません。
これに対し、頭だけの観念的な信仰ではなく、人間の感性を総動員して神へ向かう正教会では、炉儀の習慣も大切に守ってきました。正教会の聖堂内には乳香の芳香が染みついていて、はじめて正教会の聖堂を訪れる人たちに強い印象を与えます。
乳香
乳香はもともとは南アラビヤ地方に特産品で、焚くとよい香りのする樹脂です。現在では、天然のものの他に、合成樹脂にさまざまな香料で香りをつけたものも使われます。
信徒の家庭でも朝晩の祈りには、小さな置き香炉で乳香を焚くことが習慣です。
聖体礼儀と教会の一致
カリストス・ウェア主教「領聖と相互領聖」の一部抄訳
聖体礼儀の集いとして、教会はその一致を領聖を通じて現実のものとし、また主張します。教会の一体性を造り上げるのは聖体礼儀です。一致は法律的な言葉ではなく、聖体礼儀的な言葉で理解されなければなりません。一致は、何らかの位階的また行政的な中央組織から、至高の統治権に伴われて、上意下達的に押しつけられるものではなく、聖体礼儀の執行によって、そのものの内から創造されます。
これは、聖使徒パウェルが次のように言っている通りです。「わたしたちが祝福する祝福の杯、それはハリストスの血にあずかることではないか。わたしたちがさくパン、それはハリストスのからだにあずかることではないか。パンが一つであるから、わたしたちは多くいても、一つのからだなのである。みんなの者が一つのパンを共にいただくからである(コリンフ前書10:16、17)」。教会論にとって、聖書の中に見出し得るこれ以上決定的な言葉はありません。パウェルは、一つの聖体機密のパンを分かち合うことと一つの「ハリストスの体」の肢体(メンバー)であることとの間に、類比的表現以上の因果的な関連を見ています。私たちが一つのパンから食べるからこそ、私たちは一つの「ハリストスの体」とされます。テサロニケ大学のゲオルグ・ガリティス教授は、このパウェルのテキストを解説して次のように述べています。「領聖は…パウェルによれば、私たちを一つの体とする。ハリストスの体である。そして、このハリストスの体とは…教会である。ハリストスの体に与ること、すなわち教会に参加することと、聖体礼儀を通じてハリストスの体…を領けることは、結果的に同じことを言い表す二つの方法である。かくして、聖体礼儀は教会の機密そのものである。この機密を通じて、教会それ自体が現実化され、ハリストスの体が組み立てられ、結合される」。
そしてまた、このような見方こそ、まさにキリスト教徒の第二、第三世代の人々が共有しているものでした。例えば、おそらく今日知り得る奉神礼の最古のテキストを含む「十二使徒の教え(ディダケー)」(一世紀後半から二世紀前半に成立?)に伝えられる、聖体機密のための祈りを見てみましょう。この祈りは、おそらく、丘陵地に豊かに小麦が実るシリヤの高地を念頭に「このパンが山々の上にまき散らされていたのが集められて一つとなるように、あなたの教会が地の果てからあなたの御国へと集められますように」(講談社「使徒教父文書」より「一二使徒の教訓」佐竹明訳9:4)と唱えます。明らかにここでも、コリンフ前書十章十六節、十七節に見られるのと同じ、聖体礼儀のパンと教会の一致の間にある結合関係が言明されています。
聖体礼儀と教会の相互依存関係はアンティオケのイグナティ(聖致命者†107)の手紙に一貫する主要テーマです。彼はフィラデルフィアの教会に書き送っています。「ですから、(分裂に陥らず)ただ一つの聖餐〈=聖体礼儀〉に与るように努めなさい。何故なら、私たちの主イエス・キリストの肉はひとつ、彼の血と合一するための杯はひとつ、祭壇はひとつ、ちょうど長老〈=司祭〉団と、私の(主に対する)奴隷仲間である執事〈=輔祭〉たちとむすばれている監督〈=主教〉はただひとりなのと同様です(〈 〉内は松島補足)」(講談社「使徒教父文書」より「イグナティオスの手紙、フィラデルフィヤのキリスト者へ」八木誠一訳4)。「ひとつ」という言葉の繰り返しは。イグナティが教会の一致というものをどのように捉えていたかを明瞭に示します。「ひとつの聖体礼儀、ひとつの肉、ひとつの杯、ひとつの祭壇、ひとつの主教」。教会の一致は、信徒たちが主教のまわりに「同じ場所に」…epi
to avto、イグナティの好んで用いる言葉…集まり、ひとつのパンとひとつの杯から、ひとつのハリストスの内にあって領聖するときに、それぞれの地域教会での聖体礼儀に、具体的かつ客観的な現実として明らかにされます。イグナティは、ハリストスの体と血を分かち合う交わりと、主教のまわりに集められたそれぞれの地域教会の一致との間には、不可分の結合があると確信しています。
イオアンネス・ロマニデス神父は、イグナティの教会への見方を要約して次のように述べています。
「目に見える教会…イグナティにとって目に見える教会と目に見えない教会は連続的なひとつの現実を構成している…は、サタンと、その「死」に根ざす力がもたらした様々な結果に対する激しい戦闘を、生命を与えるハリストスの人間性の内にある互いの愛の一致によって闘う、洗礼を受けた信徒によって形成される。彼らは、まさにその生命と救いが根ざす聖体礼儀の集いにある、愛と一致を宣言する。『同じ場所』でのそれぞれの集いで、それぞれの聖体礼儀によって、ハリストスの体、教会は、死の領域(松島補足・サタンが最後の戦いを挑むこの世)にあって形成過程の中を歩む。『肉となった言葉』は信徒たちの内に、聖神によって(イオアン第一公書3:23-4)形作られてゆく。かくして教会は、すでに『ハリストスの体』でありつつ、たゆみなく教会がそうであるものになってゆく」。
イグナティの教会の一致への理解は「カトリック(公なる)」という言葉の意味に対して重大な結果をもたらしました。聖体礼儀はいつもそれぞれの教会で(「地域的に」)行われるものです。そして、それぞれの地域的な聖体礼儀で現実のものになるのは、単にハリストスの一部分ではなく完全なハリストスの全体です。したがって、イグナティの教会論によれば、私たちが「カトリック(公なる)教会」というのは、まず第一に、聖体礼儀に集うそれぞれの地域教会であるということです。それぞれの聖体礼儀を中心にした集いは、ある種の巨大な全体を包括してしまう連邦政府の単なる小さな単位と見なされてはなりません。それぞれの地域教会は、完全なカトリック(公なる)教会です。それはそれぞれの聖体礼儀が完全なものであるからです。様々な地域的な聖体礼儀の集いは互いに、全体の一部分としてではなくお互いが同一のものである(mutual
identity)ことによって手をつなぎ合います。それぞれの地域教会は他のそれぞれの地域教会と一つです。そして手を携えて世界全体に及ぶ単一の交わり(communion)を形成します。なぜなら、それぞれの地域教会でこそ、一つの、唯一にして目に見えない聖体礼儀が行われるからです。「イエス・キリストが在したもう所、そこに公同教会があり」(講談社「使徒教父文書」より「イグナティオスの手紙、スミルナのキリスト者へ」八木誠一訳8)、聖体礼儀のささげもののために「二人または三人が(マトフェイ18:20)」集まる時には、そこにはいつも全きイイスス・ハリストスがおられます。