アタナシオス ラコヴァリス 著

「パイシオス長老との談話」から序言と伝記

 私は長老パイシオス神父のことを12年間以上知っている。彼が私を自覚的な正教信徒にしてくれたのだ。彼は信仰においても実生活でも私を導いてくれ、生活上のあらゆる問題点について助言してくれた。

 私は聖なる山(アトス)で7年間以上暮らすという祝福を得た。5年間はAthoniada School教師として、そして2年間はイコン画を学ぶために。私は長老のすぐそばにいたかった。彼に会った瞬間から、私は彼にひきつけられずにはいられなかったからだ。

 私はしばしば言ったものだが、彼は母よりも私を愛してくれた。私がこんなことを言うのを母が許してくれるように。母は実際私をどんなに愛してくれただろう。しかしパイシオス長老の愛は普通の人間的愛よりはるかにまさるものであった。彼の愛は、天的なものであり精神的なものであった。

 パイシオス神父は私に対してまるで実の父親、いやそれ以上の者のように接してくれた。私はしかし自分自身を放蕩息子のようにいつも感じていた。私は彼を“父”とはとても呼べないし、私が彼の精神的な息子であるなどとは、とてもではないが言えないのだ。その理由だって?私は彼にちっとも似ていないからだ。私は、彼の美徳にならって心からの善意を持とうと思っても、とうていできない。「もし私を父と呼ぶことを願うなら、私の業にならえ」と言われている。じゃあ、私はパイシオス神父にならったか?とんでもない。だから彼を父と呼ぶ権利は私にはない。長老の徳は彼の徳で、私自身の意気地のなさは私の意気地のなさなのだ。

 彼と会話した後、そう頻繁ではなかったけれど、彼の助言を覚えておくために彼の言葉を書きとめておいた。ふつうは会話の直ぐあとで、あるいは数時間後に、たまには1日か2日後に、私は長老の言葉をそのまま書きとめた。これらの言葉を書きとめる時には、それがいつ話されたかに注意して日付を入れた。これらの言葉は彼の庵を訪問した時あるいは徹夜祷のあと彼と話す機会があった時に話されたものである。

 長老が永眠された今、彼の助言を私の信仰における兄弟姉妹に伝えることが私の義務だと考える。多くの人達がそれらの助言を実際生活の中に取り入れたいだろうし、それによって私よりずっと利益を得るだろうと私は信じている。幸いなる者は言葉を生きる人であり、言葉をただ聞いたり読んだりするだけの人ではないのだ。

祝福された長老パイシオス、この世での名前アルセニオス エツネピデスは、1924年7月25日にカッパドキアのファラサに生まれた。彼はコニツァで成長し、アトス(聖なる山)で修道士になり、そこで彼の人生の大半を過ごした。彼は1994年7月12日に亡くなり、テッサロニカのソウロウテにある神学者ヨハネの「聖なるいおり」に埋葬された。まだ生きている間に彼は多くの人々によって聖人と考えられていた。彼のあらわした奇蹟について数百のサインつきの証言がある。

パイシオス長老の伝記的記事

祝福された長老パイシオス、もともとの名アルセニオス エツネピデスは、1924年7月25日に小アジアのカッパドキアのファラサに生まれた。その地のギリシア人達は2500年間ずっとその地に暮らしていたのだが、小アジアで争乱が起こり、トルコ人による迫害と虐殺から逃れるため難民としてギリシア本土への避難を余儀なくされた。長老の家族は結局ギリシアのエピロス州のコニツァに根をおろし、そこで彼は成長した。

彼はまだ子供の頃から信仰的な傾向を示した。「私は朝わずかな水をもって家を出て、山の岩の上に登り、登塔者[訳註;シリアのシメオンなどのように、塔の上で日夜断食と祈りを続ける修道士のこと]のように祈ったものだ。(彼は笑った)…午後になってお腹がすいてくると…考えを変えた…。『ちょっと食べるために家に帰ろうか』、そう言って岩から降りたものだ」。

…「少し大きくなると、同年代の仲間とつきあわなくなった…彼等はかわいそうな小鳥を殺し、その他にも私の好まないことをするから。こうして、私はもっと小さな子供達と仲間づきあいを続けた。小さな子供達は、私が年長なので私をリーダーにしてくれ、私が彼等とつきあってくれるのを喜んだ。私は断食もした…小さな子供達も断食したがった…こうして、私は彼等の母親達と問題を起こした…。『彼とつき合わないように、彼はおまえを肺病にしてしまうよ』、と母親達は小さな子供達に告げたものだ」、と笑いながら彼は私に話してくれたことがあった。

若い頃から彼はそのような性向を示したが、それは聖名をいただいたカッパドキアの人、聖アルセニオスが彼について預言したとおりだった。彼は信仰に大きな関心を払い、祈り、断食、そして修道的生活に対するあこがれをもって子供時代を生きた。

「…想像してごらん。鐘が鳴り出す前の、朝とても早く私が教会に行っていたことを、そして神父さんが教会を開けに来るのをよく待っていたことを…。私はそのようなあこがれを持っていた…。かつて、私の兄が、私を少し矯正しようとして、教会にそんなに入れ込むべきじゃない、と私に向かって叫びはじめた。そして教会の本、シノプシス[著者註;ナッセルの「Devine Order礼拝書」に相当するギリシアの礼拝書]を取り上げ、ベッドの上に放り投げた…。私は彼のこの行動のために度を失い、私の子供っぽい目からみてもそれを不信心ととらえた。そして激しくそれに反応した…」。

パイシオス神父はこのように子供時代を過ごした。彼は修道的生活にあこがれていたため、このような生き方がますます強められていったのはごく自然なことだった。

あるとき彼は、私を正しくしようとして、次のような話しをした。「…私が若い頃、女の子のことで人の噂にならないように、いつも下を向いて通りを歩いていたものだ…。私は誰が隣を歩いているか見ようとはしなかった…時には知り合いや親戚がそばを通り過ぎ、私が挨拶をしないという悪い噂になった…昔、私のいとこの女性が私の母親に不平を言ったことがある。『アルセニオスったら、私に挨拶しないのよ』、そして私の母はそれを私に告げた…。私は母に言った。『母さん、道で女の子を見つめるより他に、僕には他にやる事がないとでもいうの』」。

 彼は兵士として戦争[訳注;第二次世界大戦あるいは内戦]に4年間行っていた。「何か危険なことが企てられるたびに、私は行くようにした。もし、私が冷淡に断ったために誰かが代わりに行って、もし殺されでもしたら、私の良心は生きている間中ずっと苦しむだろう。一方、自分が戦闘で殺されるのはたった1回だけだ」。

「ある時、軍の宿営地が爆撃された。私は逃げて泉近くの水たまりのくぼみに自分の体を押し込んだ。少しすると誰かが来た。『入れる?』と彼は聞いた。『入りなさい!』と私は答えた。そのくぼみは明らかに1人分しかなかった。その男は自分自身を守ろうと必死になり、恐れのあまり私をくぼみの外に押し出しつつあった。それからもうひとりがやって来た…。私は完全に外に押し出された。かまうものか、『神様が備えて下さるだろう!』…私が外に出るやいなや1発の弾丸が通過し、私の頭を剃った(笑い)…こんな風に、皮膚に当たるのを丁度防ぐように、私の髪に1本の直線を残した…もし、弾丸が1cm低かったら私を殺していただろう…。私は神様の備えに驚いた」。言い換えると、彼が修道士になる前でさえ、長老の自己犠牲的な心は、仲間の人間に対する愛のためならば死んでもかまわないという領域にまで達していたのだ!!!…我々、同時代の人間は、このような心から何と程遠いことだろう…。

「小隊にひとりの仲間がいて、この人は神様を引き合いに出して誓うのだった…彼のやりかたは間違っていた…何回も私は彼に誓わないように言ってきかせた…私はそのことで彼と喧嘩さえした…彼は私の言うことにも将校の言うことにも耳をかさなかった…彼は神様を引き合いに出して誓うことを続けていた…。あるとき軍の宿営地で、私達が働いていたそのど真ん中に1発の爆弾が落ちた…。誰も何も被害をこうむらなかった!!!…ただ、誓っていた人にのみに、とても小さな破片が当たった…どこにだと思う?彼の舌に!!歯にも、唇にもほんの少しも触りもしなかった!!ただ彼の舌のみが膨れ上がった…それは西洋カボチャのようになり、口の外にぶらさがるようになった!…戦争中はそのような驚くべき事がたくさん起こった。そのために、軍の宿営地では敬神の思いが大きくなった…」。

 「…あるとき私達はテッサロニカで行軍しようとした。将校達は私達に歌を歌うように命じた;兵士達は歌おうとしなかった…将校達はまた命じた…しかし、またも沈黙…将校達は怒った。私は兵士達に『なぜなんだ、何か言おうよ』と言ったのだが、彼らは何も言おうとしなかった…私達が軍の宿営地に戻った後、将校達は私達を罰した…彼らは私達の腰から上を裸にし、ぐるぐる回りに走らせ、ベルトで鞭打った…命令違反は戦時では深刻な不服従だったのはわかりますね…私には責任はなかったのだけれど、私も彼らと一緒に走った…将校達は私に向かって叫び、走っている集団から抜け出るように私をさし招いた。しかし、私はそれを見ないふりをして集団から出なかった。私だけでは出たくはなかった…将校達が私達全員を許すか、それとも私も兵士達と一緒に走るか、そのどちらかしかない」。若い頃、彼はそのようなやり方で行動していた。彼の自己犠牲と勇敢さによって、彼は、兵士達からも将校達からも、全員の大きな感謝とともに愛と尊敬を集めた。

 「…その後私は働き、未婚だった姉妹のために結婚持参金を作った。私は修道士になるために彼女が結婚する前に家を離れた…彼女が結婚することが神様のご意志かどうか、私には分からない…彼女自身は結婚しないことを望んでいたかもしれない…」。

 30歳前後に彼は聖なる山(アトス山)の修道士になった。彼は多くの試練にあった。しかし、彼には神様からの大きな助けもあった。彼はまたコニスタの聖ストミオン修道院で禁欲主義の修練をした。そこでは彼は自らの手で野生の熊に餌をやった。聖霊が彼の魂を平安にし、それが野生の動物をも安和にしたのである…「…野生の動物でさえ、もしあなたが愛をもって近づけば、それを理解し、あなたを悩まさないだろう…」と彼はかつて私に話したことがある。しかし若い人でも年寄りでも、彼のこの行動を真似てはならない。なぜなら、私達の魂の情念の野生性が「野生」動物を乱暴にさせ、私達を危険にさらすだろうから。

 彼は約3年間シナイ砂漠の聖エピスチメの洞窟にいた。日曜日ごとに彼はふもとの聖カテリーナの修道院におりていった。その間の1週間のあいだ、彼はひとりで砂漠の静寂の中で苦行していた。時々一人あるいは二人の遊牧民が修道士達を訪問したが、彼は持っていたわずかのものから彼らに寄付を与えた。水でさえわずかなものであった。「…そこの砂漠の乾燥の中で、私は神様の備えを讚栄した。ある岩にひとつの亀裂があって、少量の水が一滴ずつ滴っていた。そこに私は小さなカンを一晩置いておき、水を集めた…私には十分な量だった…それ以上はまったく必要なかった」。

 シナイ砂漠でパイシオス長老は多くの聖なる経験をしたが、悪魔とのはっきりとした戦いもまた経験した。一般的にいって、私は長老の修道的戦いは私達の怠惰な時代、−そこには怠惰な人々と思考を訓練することを怠る風潮があるのだが−、の限度をはるかに超えていたと信じている。長老は、しかし偉大な闘争者だった。彼の闘争は、4世紀の古代の修道士達の闘争とのみ比肩できる。

私達、考えを訓練することを怠っているもの達にとって、その闘争のことを聞く事さえ恐ろしいことである!!…

 謙虚な長老、ポルフィリオス(マラカサ)がパイシオス長老について以下のようにおっしゃったのを私は聞いたことがある:「パイシオス神父の受けた恵みは私の受けたものよりずっと価値のあるものです。なぜなら、彼は闘争を通じて得たのに対して、私の場合は神様が人々を助けるようにと若い頃から私に恵みを与えて下さったからです…神様はパイシオス神父のような聖人を400年ごとに一人地上に送って下さる!!!…」

 聖なる山において彼は禁欲主義を修練し、彼の人生の大半を過ごした。神様が彼に贈った能力は沢山あった。彼には治癒の賜物があった(彼は多くのしかも多様な病気、ガン、生まれついての麻痺、その他、から多くの人々を癒した)、彼には悪鬼に対抗する賜物があった(彼がまだ生きている間に多くの人々から悪鬼を取り除いた)、彼には預(予)言の賜物があった(彼は、多くの人に将来彼ら個人レベルで起こる事柄について告げた。また、彼はまた私達の国の歴史に将来起きるであろうことも預言した)、彼には透視の賜物があった(彼はそれぞれの人の心を深く、その人が自分自身を知るよりさらに明瞭に、知っていた;この理由によって彼は正しく正確に助言し、それぞれの人は必要な言葉に耳を傾けた)、彼には精霊を見分ける賜物があった(彼はある精神的な出来事が神から来たものか、あるいは試み迷わせようとしている悪魔からきたものか、を厳密に知っていた)、彼には明察力の賜物があった、彼はそれぞれの場合に、神の意思が何であるか、そしてそれを明らかにするべきかどうかについて知っていた。それぞれの場合に、彼はどれが良くて、正しいものであるかを知っていた。非精神的な事項でさえそうであった。例えば、ある時ひとりの大学の医師が病院のために2種類の機械のうちどちらかを選択しなければならなくなり、議論していた。彼は決める事ができなかった。彼はパイシオス長老に尋ねた。長老は彼にこう答えた。「この機種を選びなさい。なぜなら、その機械はこんな場合に使えるこんな機能を持っていて、あなたがあれこれと使えるように、こんなふうに働くから」。いいかえれば、彼は小学校も修了していないのに、彼は学者と技術者を合わせたような特別な人間であるかのようにその医師に話したのである!!!もしこれが神様からの啓示でなければ、一体何だろう?…彼には神学の賜物があった。彼が聖人、天使、処女マリアについての多くの精神的経験から、また造られざる光を一度ならずたびたび見た経験からも、彼は真の神学者となっていて、神の神秘について深く知っていた。かつてある大学の神学の教授が賞賛とともに多くの人に次のように話していた:「長い間をかけて、私がいくら試みても答えを見つけられないような10問の神学的問題を私は集めてきた。そこで私はパイシオス神父のところに出かけて行って、これらの難問のすべてについて質問した。30分のうちに彼はすべてについて解決してしまった!…」

 もし、私達がパイシオス長老に与えられた賜物とその力を数えあげようとするならば、きりがないだろう。これが誇張だとは考えないでほしい…いや、それは現実なのだ。神様ご自身がそんなにも多くの賜物でパイシオス長老を飾り栄誉を与えたのだ。そして神の賜物は、神ご自身のように終りなく無制限なのかもしれない。

 すべてのパイシオス長老への賜物のうち、私を最も印象づけたものは彼の愛であった。完全な自己犠牲を伴った、制限のない愛、ためらいのない愛。火のような、甘美な、無限の力をもった、天の愛。彼の内部からそそぎ出る愛、それには差別はなく、善人も悪人も等しく暖かく励ますような愛であり、彼の友も敵も、ギリシア人だけではなく外国人にも、価値ある人だけではなく価値ない人にも、正教信徒だけではなく他の信仰をもっている人にも、人間だけではなく他の動植物にも、何よりも神様に愛をもっていた。これは人間の愛ではなかった。そのような愛はただ聖霊のみが人間の心の中に生じさせることができる。人間の「愛」はとても小さく自己追求的で、ひどく一時的かつ不安定で、ひどく自己中心的かつ圧政的で、いとも容易に怒りと憎しみに変わるので、パイシオス長老の愛とこれらの人間の「愛」を比較することは私達にとって恥ずかしくも不正なことである。

 彼のまわりに人々を集めたのはこれらの賜物であり、パイシオス長老の愛であった。毎日、ひっきりなしに彼の庵に多数の人々が訪れた。長老は人々の苦痛、苦悩、問題を集め、その人々に解決法、喜び、平安を返した。何時でもまたどこにでも必要とあれば、彼と神様は彼がどこに行くべきかを知っていた。彼は神的な権威をもって奇跡的に調停し、解き得ないことを解いた。

 パイシオス神父に関係した奇跡的な物語について署名つきで保証している人々が多数いる。関係した書籍も印刷されてきた。しかし、奇跡的な物語についてしゃべらなかった人々も沢山いるし、パイシオス長老が巧妙に隠した奇跡的出来事はもっと沢山ある。パイシオス長老は人々に対する神様の贈り物だった。

 彼の名声はギリシアを超えて広がった。オーストラリアから、アメリカから、カナダから、ドイツから、ロシアから、ルーマニアから、フランスから、アフリカから、そしてあらゆる所から人々はやってきて彼に会い、彼の助言を求めた。そしてこれらのことについて、ラジオ、テレビ、新聞、などのマスコミが彼の生きている間に述べ立てる事はなかった。マスコミは教会の人達の醜い事だけを映し出し、大げさに書き立てる。マスコミは良い物事、驚くべき物事、そして聖なる物事について悪口を言う事ができない。そこでマスコミはこれらの物事を無視し、人々には聖なる出来事を知らせないようにする。しかしながら…人々には自分自身の手段があるし、神様はご自身の手段をもっておられる。パイシオスのうわさは彼の善行と奇跡に仰天した人々の口から他の人々の耳に広がったのだ…神様ご自身がパイシオス長老を突き出したのであった。

 彼のもとを訪れる事が出来ない寝たきりの病人達や婦人達と会うために彼がアトス山を出た時には、数千人もの人達が彼の祝福を得るために来たものだ。車で来た人達はテッサロニカのソウロウテにある神学者聖ヨハネの女性修道院に常時来てはまた去っていった。道路の脇に駐車している車の列は1kmを超えた。

 数千通もの手紙も彼のもとに送られてきた。「精神病の問題、ガン、または離散した家族。これら3つのうちのどれかが現代の人々を責立てている苦難だろう…人々はこれらについて私に手紙を寄越した」。面談によってあるいは手紙によって、その苦痛はパイシオス長老に流れ込んだ。そして彼はその苦痛を自己犠牲によって担った…真剣に。彼は他の人々を愛していたので他人の苦難を彼自身のものにした。他人が苦しみを受けているのを、彼は見過ごすのを欲しなかったし、無関心ではいられなかった。もし可能ならば、彼は他人の代わりに十字架の重荷のすべてを肩に担ったことだろう。

 パイシオス長老は他人を癒したけれど、彼自身の病いを治して下さるように神様に懇願しようとはしなかった…むしろ病気に耐える事を望んだ。「…精神的な1フランかそこらを稼げるように…老年だから」と彼はチャーミングに言うのだった。まだ兵士だった頃に彼は足に凍傷を受けたのだが、手術で切断しようとする医師から逃れて足底に傷を負ったまま暮らした。「まるで釘を踏み抜いたようだった…そのため、ある時にはかかとに、時にはつま先に、また時には側面に体重をかけたものだ」と笑いながらその不運を冗談にして私に語った…。しかし、彼は教会の椅子には座らなかった…徹夜祷ではずっと立ち通しだった。このようにして彼は若い人達に難事に取り組む精神をも教え込んだ。

 パイシオス長老は多くの病気にかかったが、雄々しさと難事と戦う精神的訓練によって病気のすべてに耐えた。彼は苦痛を笑い飛ばし、むしろ楽しいものにした!!…

 かつてヘルニアにかかった時には、彼はぼろ切れでお腹をしばり、医者には行かなかった。私は気も転倒する思いで医者に行くように頼んだ。すると彼は私に話し始めたのだが、それが病気を笑い飛ばすような冗談だったので、しまいには私も笑い始めてしまったのだった。

 最後に、老年になって彼はガンにかかった。これは、まわりの人の病気を軽くするためにパイシオス長老がそれを神様に頼んだためだった、と私や他の多くの人達は信じている。彼がかつて私に語ったことがあるからだ。「病人が治るように神様に祈る時には、神様に次のような定めをお願いしなければならない、『彼から病気を取り上げて私に与えて下さいますように』または少なくとも『彼の手助けが出来るように、彼の病気の一部を私に与えて下さい』…我々の弱さを知る善なる神様はその病人を治すのだが、私達には何も与えないかもしれないし…時には何かを与えるかもしれない…もし、我々がそれに耐えられると神様が見て取るならば…。いずれにしても我々の祈りが聞かれるためには、そのような定めを受けなければならない…」。

 この心の持ちようは自己犠牲の精神である。そしてパイシオス長老はそれを十二分に持っていた。彼は訪れた何千もの人々の苦痛と病気を自分自身に引き受ける事を望み、それらを喜んで自分の身に引き受けた。彼の生命は仲間の人間達のための犧(いけにえ)だった。

 彼は自分の病気については話さなかった。彼は我々を動揺させないように病気を隠したし、それを隠し通す事が出来ないで我々がそれに気付いた時には、それがあたかも何か重要ではないかのようなふりをした。ガンに対しても同じだった。ついには出血と衰弱が始まった。

 彼が病気である事は皆が気付いていた。我々は彼に医者のところに行くように頼んだのだが…しかし、駄目だった…そこで病気なのが分ったからには、医者の方がアトス山に来るようになった。検査を受けるのを彼が許すように説得するために。一度アテネからある病理学者の大学教授がパイシオス長老を訪問するためだけに来た事があった。私はその医師を長老の庵に案内した。しかし、とうとう彼もどうしても長老を検査することが出来なかった。多くの医者が来たが、誰もうまく説得出来なかった。

 しまいには様々な高位の聖職者までもが彼に医学的処置を受けるように圧力をかけはじめた。府主教座下自身が「検査を受けるように」と命じたと言われている。

 ある医師が、信仰のある人だが、長老の感性を理解して彼に以下のように告げた。「私はあなたを治療するにあたって、農夫の保険しか持っていない人に対して行うような治療をし、それ以上のことは決してしないようにします」。思うに、最も貧しい人が受ける以上の医学的処置を受けるのを長老の感性としては決して許したくないのだろう。長老は貧しい人々より手厚い治療を受けるのを不正だと考えていた。そして確かにこれは不正義であり、我々現代の人々が持つ無慈悲さのさらなる印である。我々と近親者は最高の医者と最高の病院に行けるのに対して、ひどく貧しい人々は病院の大部屋の粗末な簡易ベッドに投げ込まれるし、もっと貧しい外国の幼児達は解熱剤がないために死につつある。この不正義、つまり罪深い人間の邪悪な精神に満ちたこの世のもたらしたものは、今日世界のいたるところに存在する…しかし、天なる正義は物事が本来あるべきところに戻るのを忍耐強く待っている。アーメン。

 最終的にはパイシオス長老はガンの手術を受けた。私の考えでは、彼は従順のために手術を受けたのであって、彼自身の望みには反していたのだと思う。彼が病気に直面した時の、このあらゆる態度を通じて、我々が学ぶものは多かった。

 恐ろしい苦痛が襲うと、彼は叫び出さないように、また他の人々をうろたえさせないように聖歌を歌うのだった。彼は極度に敏感だった。彼は他の人達の重荷になったり他の人達の気持ちをかき乱すことを望まなかった。

 ある人が長老を少しでも楽にしようとして、長老には何も告げずに、長老の苦痛の一部をその人に与えてくれるように神様に祈っていた。その人と長老が会った時、何も話さないうちに長老が彼に言った:「神様にそのような事を願ってはいけない…この苦痛はあなたには耐えられるものではない…願ってはいけない…耐えられないだろう…神様にお願いしてはならない」。

 彼が死ぬ2、3日前、我々は皆で彼を訪れ、最後の祝福をいただいた。彼は1994年の7月12日に永眠しテッサロニカのソウロウテにある神学者聖ヨハネの女性修道院の中庭に埋葬された。

 彼の墓は今日では人気のある巡礼地になっている。この数年私は何回もそこを訪れているが、その度にいつでも人々が崇敬しているのをみかけた。

 そして彼の死後、パイシオス長老は彼の墓でも他の場所でも奇跡をあらわし続けている。私は、彼の死後に起こった出来事が文書で記録されて世に出ることを望んでいる。それは神の栄光のためであり、現代の信んじない人々の利益になるからである。彼らには、精神的に非常に大きな欲求があり、それを満たす必要性があるのに、彼ら自身はそれが分からないからである。

 

我々すべてが彼の祝福をいただけますように!

テッサロニカ 1999年