「六千人の命のビザ」
――正教徒・杉原千畝氏を讃える
コンスタンチン永井博 (東京復活大聖堂教会信徒)
リトアニア共和国の古都カウナスに、今も残る第二次世界大戦当時の旧日本領事館が、杉原記念碑と名称を変えて手厚く保存されている。館内には地元大学の協力で「日本文化研究センター」が開設され、日本とリトアニアを結ぶ文化交流の太いパイプとして重要な役割を果している。その原点が当時の日本領事館々長杉原千畝領事代理なのである。
私は二〇〇二年九月下旬、ウクライナ・キエフを経てリトアニアに入国し、黄金の紅葉に輝く古都カウナスの郊外、瀟洒な住宅街に往時のまま保存されているこの記念館を訪ねた。ここでは当時の写真を中心としたビデオ解説があり、今や世界的に有名となつた杉原千畝氏のユダヤ難民救出に関する英断について、詳しく知らされたのである。
ところでその英断に至る過程での計り知れない苦悩、それを乗り越えた杉原(以下敬称を略す)の人間愛・自己犠牲にとめどもなく涙が溢れて仕方がなかつた。特に「難民を見捨てる訳にはいかない。でなければ神に背くことになる」という言葉に心打たれ、杉原の神は如何なる神なのか、終始頭から離れなかった。
以下かいつまんで、事の顛末を記す。
日本政府はビザ発給を認めず
一九四〇年七月十八日早朝、この日本領事館に、ナチスの迫害に追われポーランドから逃れて来たユダヤ難民が大挙して押しかけて来た。
当時、一九三三年に始まったヒトラーによる「ユダヤ人排斥運動」は益々エスカレートして、既に欧州内にはユダヤ人の安住の地はなく、安全な世界へ避難するルートも途絶えた。残されたのは長距離で困難を伴うシベリアを横断し、日本を経由して第三国に逃れるのが唯一生きる可能性を秘めた道であつた。
しかるにこの時期、リトアニアに親ソ傀儡政権が発足し、ソ連に併合される日が追っていた。同時にソ連からはリトアニア駐在の各国公館に八月二十五日限りで閉鎖指令が出されるに至つた。このためユダヤ難民は日本領事館が閉鎖される前に、日本ビザを入手するべく急遽押しかけて来たのである。
難民の大部分は着の身着のままの姿で、行き先国の入国許可も必要な所持金もなく、日本ビザを発給出来る条件を満たしてない。外交官として欧州の緊張状態を熟知している杉原としては、難民を救うため「ビザ発給条件の緩和」を認めるよう外務省に要請した。再三にわたり要請電報を打電したが許可は全く得られなかつたのである。
時あたかも日本政府は日・独・伊の枢軸強化に向けて外交交渉中であり、三国同盟締結(四十・九・二十七)直前の緊張状態であつた。
ユダヤ人を特別配慮することはドイツへの背信行為となり兼ねず、日本政府の「渡航条件不備な申請者は拒否すべし」との訓令は、至極当然のことだったといえよう。
独断でビザ発給を決断す
ビザ発給条件緩和の不許可、急増するユダヤ難民、領事館閉鎖期日の接近などの至難な局面を如何に打開するか、杉原は悩みに悩んだ。
外交上の緊急事態では国の指示を遵守するのは当然である。難民を振り切って国外に出てしまえば、全く問題は生じない。本件当事者が他者であれば誰でも無難な道を選ぶに違いない。
しかし杉原にはそれが出来なかつた。救いを求める難民の叫びに眠れぬ夜を過ごしつつ。最後に、「私を頼ってくる人々を見捨てる訳にはいかない。でなければ私は神に背くことになる」として、人を相手とせず、天を相手に己を尽くすことに決意した。
○国の訓令違反に馘首(カクシュ)を覚悟しなければならない。
○外交官として将来を嘱望される栄達を四十歳にして捨て去ることになる。
○激動下の世界で国の後ろ楯を失えば、家族の生命すら保証出来なくなる。
などに、苦しみ抜いた末に杉原は独断でビザ発給の決断をしたのである。
実に人生の大転換である。言うべくして出来ることではない。まして周囲に相談相手もいない孤独な葛藤に、これを理解し黙って支えたのは幸子夫人であつた。人間として、夫婦として強い絆があつたからこそ到達した結論であつた。ビザ発給を開始してから約一ヶ月ペンが折れ、腕が動かなくなるまで書き続けた。ソ連から度重なる退去要請、日本政府より早急なる閉鎖命令が激しくなるに及び、八月二十六日に領事館を閉鎖。止むなく移動したホテルでも、さらにベルリンに脱出(九月五日上級機関のベルリン大使館に帰還)する列車の発車するまで、押し寄せる難民にビザを発給し続けたのである。
最後にホームに茫然と立ち尽くす人々に対し「最早なにも出来ません。許して下さい」と深々と頭を下げたという。発給されたビザは家族単位に記入され、二千枚以上に及んだ。平均三人家族として婦女子を含む六千人を超える人達が、日本を経由して第三国に渡って行ったと伝えられている。
正教徒だった杉原夫妻に更なる感動
さて私はリトアニア訪問のその後の旅程車中で、こうした話の記された、杉原幸子著の「六千人の命のビザ」を一気に読破した。
ところが著書後半の僅か三行であるが、杉原夫妻が正教徒として受洗していたことを知った時は、心の底から込み上げる喜び、絶えて久しい感動のうねりに、しばし茫然としていた。真の神を信じ、人道にかけた先達に言い様のない感銘を受けたのである。
しかもその終章で杉原は一九六四年から数年、神田、ニコライ学院のロシア語教授であつたことが判り(筆者の父ワシリイ永井益伝も同時期ロシア語教授であり、当然知己だつた筈)、益々もって身近な人物としての想いを強くしたのである。
最後にこの人道・博愛の精神を貫いた勇気ある外交官・杉原千畝氏に心からの敬意を表し、その偉大なる功績と精神を永く記憶して、我が信仰の一助にしたいものと願っている。
(本稿は東京復活大聖堂教会月報「ニコライ堂だより」2004年10月号より、筆者及び同教会長司祭イオアン高橋保行神父のお許しを得て掲載させていただきました。)
「六千人の命のビザ」(杉原幸子著 朝日ソノラマ、1990年)
海外のサイトでも、多く杉原夫妻のことは取り上げられています。
http://www.jacwell.org/Fall_2003/a_hidden_life.htm