至聖三者修道院での研修
司祭 マルコ 小池祐幸 神父
(この記事は正教時報2001年8月号に掲載され、小池神父様のご承諾の上転載させていただきました)
セラフィム主教座下の指導によつて神品研修が具体化し、ロシア正教会の総本山と称せられる至聖三者・聖セルギイ大修道院の研修に不遜な私が参加することになった。
二月十九日に日本を発ち、セラフィム主教座下、ロシア教会のイオアン長屋神父様と共に出発、総主教庁の神父様の出迎えを受けてダニイロフ修道院に隣接しているホテルに入り、午前中ソフリノという聖器物工場、午後は是非見たかった救世主大聖堂へ案内して頂いた。息を飲む程のスケールで、ここで行われる祈祷を想像した (セラフィム主教座下は滞在中アレクセイU総主教聖下と共に聖体礼儀を行なっている)。
二月二十一日朝、研修地、修道院の町・セルギエフポサートに向かう。副修道院長フエオグノスト掌院は昨年五月に総主教と共に来日されていて、セラフィム主教座下と再会の喜びのなか、共に歓待を受けた。昼食後、主教座下と長屋神父様と別れ、いよいよ修道院での生活が始まった。
聖セルギイ修道院には約三百名の修道士がおり院内には約百人余りが生活しているとのこと。平日は、朝五時半からモレーペン、引続いて早課、時課、聖体礼儀と続き十一時半頃に終了。午後一時の食事、夕方は五時から晩祷、八時の食事で一日の終りとなる。主日の聖体礼儀は五ヶ所の聖堂で行われている。
祈祷の主聖堂はトラペーザ聖堂で修道士など聖職者と聖歌隊の席があるイコノスタス前部の空間と信徒の立つ部分に区切られている。聖歌隊席は左右に1メートルほどの高壇になっていて、神学生など各々五十人ほどが席に立ち体を震わす様な迫力で祈祷を天にあげている。
また聖セルギイ修道院の聖歌隊を鋭明するとき「特別」という言葉を添える人が多く、歴史や位置の違いを表現しているのだと感じた。平日は朝四時頃に起床、五時半に始まる至聖三者聖堂での聖セルギイの祈祷。開始時間の早まる日もあって五時過ぎには聖堂へ入る様にしていたが、すでに沢山の信徒が暗闇とマイナス二十度の厳寒の中を聖堂に急いでいる。至聖三者聖堂での祈祷の最後に当番司祭の握る聖十字架に接吻し、聖職者は高位順に聖セルギイの不朽体に伏拝接吻、信徒等が後に続く。伏拝後は至聖三者聖堂と接触して建っている聖ニーコン聖堂へ鉄扉の隙間から身を入れ、階段を降り左側の聖堂のイコンと不朽体に伏拝接吻。右側の部屋には生神女が聖セルギイに現れた場面の大きなイコン、他に多くの聖人の不朽体がある。中でも首致命者・首輔祭聖ステファンの不朽体(右腕部分)がイコンと共に横たわっており、ここでの伏拝接吻の後、真暗闇の中で祈祷が終るのを待つ。祈祷最後の発放後整ニーコン聖堂から出て、トラペーザ聖堂まで歩く。同聖堂で早課、時課、聖体礼儀。夕方四時四十五分から主聖堂での晩祷が祈祷の日課。
朝の祈祷の終るのが十一時半頃で一旦部屋に戻り、午後一時からのオベグ(ディナー)と呼ぶ食事に修道士達の僧院食堂へ行く。平日は一日二食で晩祷終了後、夜八時頃聖堂からそのまま歩いて食堂へ。食堂は半地下になつていて正面の大きなイコンの下に副修道院長等の席の他、百人余りが座れる。祈りで始まり食事中は後部の席で聖人伝などが読まれ、途中ベルの音で全員が立ち上り、日によって違うが短い聖歌などを歌い、後再び食事を続けることになる。食事中、私語はなく、優雅な食べ方でもなく、作業をしているような速度で只々もくもくと食べる。大斎期に入ると、何となく豊かに感じたそれまでの食事の内容が変化し食堂内の雰囲気も少し変わったように感じた。食事は一日一食、塩漬けの野菜類とジャガ芋、パンなど同じ食材、味付けとなり、水・金曜日の先備整体礼儀のある日にだけスープが出た。
五日日、二月二十五日『赦罪の主日』 には祭服を着て初めての聖体礼儀を体験。信経では神品が互いに「ハリストスは我等の間(うち)に在り」「まことに在り、また永くあらんとす」と接吻するが、祈祷後日本語の語感は心地好いと何人かにいわれた。主ポティール(聖爵)の他に信徒領聖用に五個のポティールが宝座に並び、直径四十センチはありそうなディスコス(聖皿)の上に置かれた十五センチ四方位の「こひつじ」(聖パンから取られた主の尊体に聖変化する部分・管理人注)もバランスが取れて見えた。大きなコーピエ(聖矛) やデイスコスの特大サイズも「こひつじ」や記憶のパン片の量を見ると納得がいく。聖体礼儀後の十字架接吻に立った時、大聖入でも見渡せなかったが体育館のように広い聖堂一杯に立っている信徒の姿を見て、主の命じた所に網を下ろし魚綱がはちきれんばかりになつた−という聖書の場面を思い起し、改めてロシア正教会のサイズを認識させられた。
同主日の夕方六時から『赦罪の祈祷。すでに聖堂石畳の床には絨毯がびつしりと敷き詰められ、アルタリ (イコノスタス前の高壇) の左下には木製の大きな聖十字架が設置されていた。赦罪祈祷後、互いの罪の赦しを乞い、伏拝接吻を為す修道士達の列はイコノスタス前始点に、高位者から始まり聖堂入口まで連なり、更に∪ターンし聖堂中央に至る。その列の端に信徒等が並ぼうとしていくとき、修道士達は互いの赦罪を終えポツリポツリと列を離れ、聖十字架に伏拝接吻をし聖堂を後にしていた。フエオグノスト師は主日の晩から大斎初週祈祷の全てに立つことになる。
六日目、二月二十六日。いよいよ大斎初週祈祷の始まり。いつものように聖人への祈り、そしてトラペーザ聖堂での早課が始まり以下、三時・六時・九時・晩課と続き正午に終了。夕方、クリトの聖アンドレイの大カノンが入る『晩堂大課』。聖歌隊は左右席にフルメンバーで入り『‥神や我を憐れみ、我を憐れみ給え」 の言葉が波の様に繰り返す。日本で行なっている哀愁を帯びたメロディーとは少し異なり力強いメロディーの印象。
後で尋ねてみると聖セルギイ修道院の聖歌はやはり「特別」だからという答えだった。水・金曜日の『先備聖体礼儀』 は日本と同じく朝に行なわれ、司祭団の入堂祈祷のタイミングも同じく『九時課』の途中で行なわれた。『晩課』 から 『先備聖体礼儀』 にかけての少々忙しい伏拝等の動きも一緒である。王門やカーテンの開閉は権杖を持つ副修道院長の司祷の為か、とくになかった。主日聖体礼儀と同様に先備も信徒領聖用のポティールが数個準備され並ぶ。また先備の終りに神品は全員、聖所に出て永眠者のリテヤを行なっていた。その際、神品が並ぶ背後に信徒等は接近してきて、紙片を手渡している。その紙片には記憶者の名前がビツシリと書かれていた。
聖パンの記憶は毎日、朝から数人の神品が行なっており、日本のそれより少し小振りの聖パンが山と積まれた台を囲んでいた。聖パンを入れて運ぶ器は木製の以前日本にあったリンゴ箱のような形で、大概八箱は準備されていて、気の遠くなるような数の信徒を記憶しており、世界中から記憶の用紙が届いているとの事だった。
九日目、三月一日。大斎初週の木曜日の晩、聖セルギイ修道院の修道院長である総主教アレクセイU聖下が御来院。晩堂大課の途中、総主教聖下来日の際に随行した首輔祭ウラジーミル師(聖セルギイ修道院付)と共に至聖所へ。入ると宝座の北門寄りに総主教聖下が座っておられ、暫くしてから輔祭の合図で宝座の後ろを通り、恐れながら聖下の前に身を屈めた。聖下より「明日は共に祈りましょう」の言葉を頂き、祈祷が終るまで脇に立つ事に。大斎は伏拝が多い、聖下の大きな体格が折れ曲り額が床に…息づかいが伝わってくる。緊張のなか晩堂大課が終り翌金曜日は研修最後の日。総主教聖下と宝座を囲む日。なかなか寝つかれない。
十日日、三月二日。いつものように起床、五時過ぎに至聖三者聖堂、そしてトラペーザ聖堂へ。先備聖体礼儀は十人の神品と共に並び、聖下の入堂式、広い聖堂にぎつしりと立つ人々の中央に道が開け、絨毯が敷かれた。出迎える神品のどの顔も緊張しピリピリした空気に包まれ、末席の私も緊張した。聖歌の響く中、マンテヤを帯びた聖下が聖所と区切られた高台に立たれると、高位神品らが順に至聖所より祭服やパナギア、王冠など両手に掲げて運び、完装されていく。総主教聖下の先備聖体礼儀は緊張感の為かあまり覚えていない、が神品領聖後、聖下に祝福を頂く為に神品は一列に並んだ。祝福に身を屈めた時、御言葉を頂いた。先備聖体礼儀に続き総主教聖下によって、この町セルギエフポサートの戦没者のパニヒダが(初めて)行なわれ、タライのような大きなボールに用意された糖飯が幾つも並び、最後に総主教聖下がメッセージを伝えられた。その後、聖堂に入りきれない信徒等にも糖飯が振る舞われ二時頃、緊張と感動の祈祷、研修体験が全て終った。
荷物をまとめる為に部屋に急ぐ。準備をしている途中、聖歌隊の二人が珍しいCDを持参して来て、別れ際に 『ムノガヤレータ(幾歳も)』を歌って下さり感激。世話をして頂いた輔祭さんが以前にお願いしていた、プロスホラ(聖パン) と他に修道院で作っている蜂蜜、自パン、乾燥パン、クワスや黒パンなどを持ってきて下さった。暖かい気持ちと共にカバンに詰め込む。三時頃渉外局の車が到着、慌ただしく空港へ。予定の飛行機に無事に搭乗し三月三日の午前十一時過ぎに成田空港。順調な乗換えで夕刻に一関に到着した。
翌日は一関での主日聖体礼儀。感謝の念と共に「さっき」までいたロシアから日本の地で「同じ」祈りをしている不思議さに心が占められた。
此度の十日間の神品研修で、勝手に感じ入った事を幾つか述べさせて頂く。修道士は、全くの自由という中にいるのだと目に映った。例えば一日一食の食事をきちんと摂るる人が殆どでも、僅かな量を口にして終る人。祈祷の開始時間のかなり前に聖堂に入って静かに目を閉じている人と祈祷に遅れる人。椅子に座り明らかに眠っていると思われる人。八時間以上の祈祷中、座らずに起立して祈祷する人。イコンに額を付けたまま連日何時間も痛悔の形をとっている人。恐らくは食事を取ろうが取るまいが、一日立ち続けようが座って眠ろうが、そういう人達に向けての尊敬や非難の顔付きは見つけられなかった。恐らくは各人が神に向っている正直な姿を互いに受入れているのではないかと思い巡らした。
また、大斎初週の祈祷中、急に涙の出るような胸の熱くなる気持ちにおそわれた。それは手にしていた日本語の祈祷書へ自分が溶け出す様な感覚で、私の様な不敬虔で不遜な者でさえも、「翻訳された祈祷書」を手にロシアの聖堂に立つことで、日本もロシアもない深い所から喜びが湧いてきた事。このことを聖ニコライは思い浮べながら、きっとときめきながら、翻訳し死の直前まで続けていたのではないだろうか。今でもその事を思うと胸が熱くなる。二千年前のエルサレムからビザンティン、やがてロシア、そして日本へと時を過ぎ越しながら聖なる流れを注いだ使徒、伝道者、福音者、致命者、表信者に連なる我等の聖ニコライ。そしてニコライが育て、十字架を背負って伝道した日本の教役者等の姿に思いが馳せ、遥かシベリアの大地を横断する熱に私たちは包まれているのだ、との確信を得た事だった。
また、私を担当してくれた修道士シメオンは自室に招いてくれたり子供のような笑みで秘密の時間を作ってくれた。そして真冬の、ロシア民話の世界に迷い込んだ様な風景、ガラス片の様な雪が月あかりの中をキラキラと舞い落ち大地を覆っていくのを見せてくれたり、最近の聖セルギイの奇跡を面白く話してくれた反面、悪魔の勢力もひどく心配していた。悪魔と仲良く暮らしている人は悪魔と判らずに、主に反する生活に溺れていく愚かで悲しい姿。初日、シメオンに言われた場所に立っていた時、或る主教様からエビタラヒルとポルーチを渡して頂き聖パンの記憶を勧められた。翌日から持参した日本教会の永眠教役者名簿を広げ、思い付く限り信徒の死者生者の名前を書いた紙を広げて記憶できたことに感謝し安堵を得られた。
セラフィム主教座下より「ただ体験してくるだけでも良いから、行って来なさい」という御配慮された優しい言葉をそのままに、怠慢な準備で反省は免れない。座下の深慮された聖セルギイ修道院での研修は私にとっては感動的で、豊かな実りを予感させる出来事となつた。
此度の神品研修の機会を作り出されたセラフィム主教座下に感謝し、研修の継続を望みながら報告と感想にさせて湧きます。