「教会」ってどういうところ?
『教会は回心者の集いです』 石巻教会教会報から ワシリイ田口三千男 神父 ご執筆
(回心者というのは、神に逆らう生き方から、神の御旨に従う生き方に立ち返る人とのことです)
これまで御紹介致しました聖師父たちの教えを要約しますと、”真の人間”となるただ一つの道は、「イイスス・ハリストスと一体となり、神聖神(聖霊)の臨在(神聖神が自分の中に宿ること)、を受け(ロマ警8の9、コリンフ前書3の16等)、その恩寵(恵の働き)にまって生きる(ヘブル書13の21)ことである」と申せましょう。
それはつまり”人間と神との一致の交わり”ということであって、この交わりを通して、私たち人間は神のすべての善に与かり、”神に似た者”神の光栄に満たされた至福者)となってゆくのであり、もともと人間は、本性的にそういうものとして造られている(創世記1の26)ことから、この在り方こそ「真の人間」−つまり、人間本来のあるべき姿である、ということなのです。
そして、この「人間と神との一致の交わり」は、先ず神の招きに応える人が、「洗礼機密」を受けることによってハリストスに接合され、洗礼に併せて行なわれる「傅膏機密」(特別の油を付ける祈り)によって、神聖神の臨在を受けることによって実現し、その後、ハリストスの御聖体を頂き続けることによって、一致の交わりが深められ、”神化”という霊的・精神的成長を続けてゆくことになります。
しかし、前にも申しましたように、この交わりはあくまでも「人格的な交わり」であって、決して機械的・強制的になされるものではありませんから、特に私たち人間(神の方には、いささかの心変わりも、手抜きなど全く無い)その人その人の在り方によって、当然のことながら、交わりの程度に大きな違いが生じることになります。
主イイスス.ハリストスが、『人はだれも二人の主人に兼ね仕えることはできない』と教えておられるように、私たちは、福音によって神の招きを知ったとき、その神を信じてその招きに応え、目分自身を神に委ねる交わりに入るか、それとも、あくまでも「この世」を自分のよりどころとし、この世にすべてを委ねて生きるか、二つに一つの選択を迫られたのでした。
いうまでもなく、洗礼を受けて信者になっている人は、神をよりどころとして生きる道を選んでいるわけですが、それでも心が「この世」に囚われなくなって、真の自由を獲得するまでは、少しでも注意を怠ると、すぐに心が「この世」に傾いて、神との一致が絶たれてしまいます。
もしそのままの状態を続けているとするなら、それは自分の意志で神に逆らっていることを意味しており、その罪は一層重いものとなります。ですから、少しでも信仰に目覚めている人であれぱ、この世に執着している自分を悔い、ただちに神のもとに立ち返ってその罪の赦しを願い(痛悔し)、再び神との一致の交わりに努めることでしょう。
ということから、教会は先ずこうした人びとの集いであります。