正教徒は聖書をどう読むべきか
主教 カリストス・ウェアー
十八世紀ロシヤの聖人、ザドンスクのティーコンは、正教徒の聖書に接する態度について、次のように言いました。
「皆さんは、この世の王である皇帝陛下から手紙をいただいたなら、喜んで読みませんでしょうか?もちろん大喜びで、押し頂き、たんねんに読むに違いありません。ところで、皆さんはもう既に、皇帝陛下どころではなく、天国の王様から手紙をいただいているのです。しかし、皆さんは、この値もつけられないほど貴重な宝物に見向きもしません」。
彼は続けて次のように言います。
「福音書を読む時、人はいつもハリストスから語りかけられています。同時に、人の側からは祈りの心をもって、ハリストスに話しかけているのです」。
神から私たち一人一人に宛てられた名指しの手紙として、聖書を受け入れなければなりません。聖書を読むことは、神と私たちの直接の個人的な対話なのです。
聖ティーコンから二世紀後、正教会と聖公会の間でもたれた「一九七六年モスクワ会議」は、聖書に対する正しい態度について、同じ事を別の言い方で宣言しました。聖公会の代表も署名したこのモスクワ宣言は、正教会の聖書に対する見方を、驚くべき的確さで簡潔に表現しています。
「聖書には一貫した全体性がある。聖書各巻は神から霊感を受け人間が表現したものである。聖書は、創造・神言葉の藉身(受肉)・全救済史における神ご自身の啓示を、権威を以て証言している。そして、そのようなものとして、神の言葉は人間の言語で表現された。……我々は、教会を通じて、また教会の中で、聖書を受け取り、解釈しなければならない。我々の聖書への取り組み方は神への従順の姿勢の一つでなければならない」。
聖ティーコンの言葉とこのモスクワ宣言は、正教会の聖書の読み方の四つの性格を明らかにしています。第一は聖書への従順さ、第二は教会的であること、即ち「教会の中で」読まれるべきこと、第三はハリストスを中心とすること、第四は自分自身に向けられたものとして、ということです。
従順さを以て聖書を読むということ
まず第一に、従順な心で、聖書に耳を傾けなければなりません。聖ティーコンと「一九七六年モスクワ会議」は、共に聖書における神の霊感を強調しています。聖書は神からの手紙です。ハリストスご自身が語っています。聖書の各巻は神のご自身についての証言であり、神の言葉を人間の言語で表現しています。神の霊が吹き込まれているのです。私たちに神ご自身が語りかけているのですから、従順で受容的な傾聴の姿勢で聖書を受けとめなければならないのは当然の事です。聖神(せいしん、聖霊の日本正教会訳)を「待ち望み」つつ読むのです。
しかし、聖書は神の霊を受けていると同時に、人間が表現したものです。聖書は、様々な時に、様々な人物によって記された多くの文書を集めたものです。聖書の各書には、それが記された時代のものの見方と執筆者固有の観点が反映しています。なぜなら、神は単独では何もなさらないからです。神の恵みは人間の自由と協力して働くものです。神は人間の個々の人格を無にするのではなく高められます。それは、神の霊感を受けての聖書各巻の成立に際しても同様です。語り手たちは、受動的に唯々「お告げ」を記録する「自動口述筆記機」ではありませんでした。語り手たちは、彼等それぞれの人間的資質によって各書の成立に寄与したのです。聖書には神の言葉としての面と共に、人間的な要素もあり、共に尊重されるべきなのです。
たとえば、四福音書はそれぞれ独自にハリストスの福音と取り組んでいます。マトフェイ伝は、特にユダヤ人信徒のハリストス理解を代表し、「天国」という概念を強調しています。マルコ伝の、ハリストスの御業についての、生き生きとした、視覚的、具体的な描写は、他の福音書には決して見られないユニークなものです。ルカ伝は、ハリストスの愛の普遍性を表現し、主の憐みの心は、ユダヤ人にも異邦人にも等しく及び全ての人々を包み込んでいます。イオアン(ヨハネ)伝には、一層内面化され機密的なハリストスへの理解があり、神の光りと内在性が強調されています。私たちは、聖書のこの豊穣な多様性を充分に味わい探求しなければなりません。
この様に、聖書は、神の言葉を人間の言語で表現したものですので、率直で厳密な批判的研究の余地があります。聖書の人間的な側面の探求には、神から与えられた人間理性を充分に用いるべきなのです。正教会は聖書の各書の由来、年代、執筆者の問題への学問的な研究を決して否定いたしません。
しかしながら、聖書の、この人間的要素と同様に、神の啓示としての要素を、私たちは常に念頭に置いておかなければなりません。聖書は単に個々の執筆者によって記された書物にとどまりません。私たちは、聖書に、叙述の技巧や感受性の違いによる豊かな多様性を持つ「人間の言葉」だけでなく、永遠の、造られざる、「神言葉」ご自身、即ち神の救いの「言葉」を聞くのです。私たちは、ただ好奇心の満足や知識を得るために、聖書を手にとるのではありません。私たち自身への自発的で切実な問い、「私はどうすれば救われるのだろうか?」に突き動かされて聖書を手にするのです。
人間の言語で表現された神の言葉として、聖書は必ず私たちの内に「驚異」の感覚を呼び起こすはずです。しかし残念なことに、何度も聖書を読んだり聞いたりするうちに、だんだん聖書に慣れ退屈に感じることがありがちです。そうならず、主が私たちの前に示されることを、新鮮な驚嘆の眼差しをもって見ることができるように、知覚の扉を清く保つ努力が求められるのです。
少し前に、私はある夢を見ました。今でも、その内容を手に取るように覚えています。夢の中で、私は、子供の頃三年間暮らした全寮制学校の寮にいました。私は、誰かに案内されて、最初はお馴染みの思い出深い部屋をいくつか通ってゆきました。しかし、その後、案内者は、子供の頃には全く知らなかった部屋を幾つか見せてくれました。それらは、広々した、美しい、光りに満ちた場所でした。最後に私たちは小さな礼拝堂に入りました。そこでは、薄暗がりの中で何本かの蝋燭が金色のモザイクをほのかに照らしておりました。
私は案内者に「奇妙なことなんですが三年間もここに住んでいたのに、このような部屋の存在すら知りませんでした」と申しました。案内者は「そんなものですよ」と答えました。
その時私は目覚め、夢であったことに気づきました。
聖書に向かうときには、まさに私が夢の中で体験したような、畏れ、驚異、期待、驚きの感覚を持っていなければなりません。聖書には、私たちがまだ一度も入ったことのない部屋がたくさんあるのです。私たちはその深みと巨大さの果てにはまだ行き着いていません。この驚異の感覚は、聖書を読む時に求められる、従順の姿勢の本質的要素であります。
従順は、驚異と共に「傾聴」を意味します。従順という言葉のもともとの意味はラテン語でもギリシャ語でもこの「きく」ということです。
学生時代、私はよくラジオでお笑い番組を聞きました。その中で、次のようなコントがありました。電話が鳴りだします。登場人物は手を伸ばして受話器をとります。「もしもし、」「……」「もしもし、もしもし!」だんだんと彼の声は大きくなってゆきます。「どなたですか?聞こえないんですが。もしもし!いったい誰がしゃべっているんだ!」受話器の向こうから返事があります。「あんたがしゃべっているんだよ」。彼は、「ああ、そういえばどこかで聞いたことのある声だと思った」。そうつぶやいて受話器をおきます。
これは、残念なことですが、私たちがしばしば陥ってしまう状態の戯画なのです。人は聞くことよりもしゃべることの方が得意なものです。自分のしゃべっている声は聞きますが、一時でもしゃべるのを止め、人の話を聞こうとはしません。聖書を読む時、最初に要求されること、それは、しゃべることを止めて聞くこと、従順に耳を傾けることです。
正教会の伝統的な様式で造られた聖堂に入るとすぐに眼に飛び込んでくるのは、正面の高座(至聖所の最奥に主教が座る座が設けられている、そこを高座という)上方の神の母マリヤのイコンです。このイコンでは、マリヤは両手を天にさし上げています。この姿勢は聖書時代からの一般的な祈りのかたちで、今日でも受け継がれているものです。
聖書を読むときにも、このマリヤの姿が象徴している、精神の見えざる両手を天にかかげた、完全な受容の姿勢が必要なのです。聖書を読むとき、私たちは、この上なく「聞く」人だったこのマリヤにならわなければなりません。「生神女福音」(受胎告知)の時、生神女は神の使いの言葉に従順に耳を傾け、「お言葉どうりこの身に成りますように」と答えました(ルカ一・三八)。彼女が心から神の言葉に耳を傾けなかったら、彼女は「神言葉」を産むことはなかったでしょう。
羊飼いたちがやって来て、生まれたばかりのハリストスを拝した時の生神女について、次のように福音書は伝えています。「マリヤはこれらの事を、ことごとく心に留めて、思いめぐらしていた(ルカ二・一九)」。また、マリヤが神殿にイイススを見つけたときも、「母はこれらの事をみな心に留めていた」と記されています(ルカ二・五一)。
聖書が記録している神の母の言葉のうちで最後のものは、やはり聞くことの必要性を強調するものです。すなわち、ガリレヤのカナの婚宴の時に生神女は僕たちに「この方があなたがたに言いつけることは、何でもしてください」と言いました。この言葉は私たち一人一人にも向けられているのです。
この様に生神女マリヤはクリスチャンの生きたイコンとして、私たちにお手本を提供しているのです。私たちは神の言葉を聞くとき彼女に倣わなければなりません。「思いめぐらし」、「すべてのことを心に留め」、「主が命ずることはすべて行う」のです。神が語る時、私たちは従順に耳を傾けなければなりません。
教会を通じて聖書を理解すること
第二は、モスクワ会議が宣言しているように「我々は、教会を通じて、また教会の中で、聖書を、受け取り解釈しなければならない」ということです。聖書への取り組みは「従順なもの」でなければならないと同時に「教会的なもの」でなければなりません。
聖書が何であるかを私たちに教えるのは教会です。年代や執筆者についての学問的な裏付けにより、特定の文書が「聖書」として認められているのではありません。例をあげれば、たとえ、もし、第四福音書がハリストスの最愛の弟子イオアンによって書かれたものでないことが、学問的に証明されたとしても、私たち正教徒が第四福音書を聖書として受け入れることは何ら変わらないでしょう。何故でしょうか?誰が書いたにせよ(私自身はイオアンが書いたことを確信しています)、イオアン福音書は、教会によって、受け入れられているからです。
聖書とは何であるかを教えてくれるのも、聖書をどの様に理解すべきかを教えてくれるのも、教会です。馬車の中で旧約聖書を読んでいたエチオピヤ人に近付いて、聖使徒フィリップは「あなたは、読んでいることが、おわかりですか」と尋ねました。エチオピヤ人は「だれかが、手びきしてくれなければ、どうしてわかりましょう」と答えました(使徒行実八・三十〜三一)。私たちは皆このエチオピヤ人の立場にいるのです。聖書の言葉は、いつも、必ずしもそれ自体で明確に意味を明らかにしているとは限りません。聖書を読むとき、神は私たちそれぞれの心に直接に語りかけます。聖書を読むということは、聖ティーコンが言っているように、私たち一人一人とハリストスとの直接の対話なのです。しかし、私たちは、同時に導きも必要としています。そして、その導き手は教会なのです。私たちは、聖神(聖霊)に助けられた私たち自身の理解力と、現代の聖書研究の成果を最大限に用いますが、つねに、私たちの私的な見解を、…それが、自分のものか学者のものかに関わらず…幾時代にもわたって伝えられてきた、教会の伝統に従わせなければなりません。
正教会のこの問題についての見解は、ロシヤ教会の用いている、洗礼機密の啓蒙礼儀(洗礼に先立ち、志願者に最終的なカテキスム(啓蒙)を行う部分)での受洗者への問いに要約されています。即ち、「聖書は、聖師父(教父)たちによって受け継がれ、また、聖なる正教会、我等の母が持ち続け、今も保っている信仰に従い、受け入れ解釈するべきであることを、あなたは承認しますか?」と。
私たちは、聖書を、私たち自身の独自の体験として読みますが、決して、孤立した個人として読むのではないのです。私たちは家族の一員として、正統なる公なる教会という家族の一員として、聖書を読みます。聖書を読む時私たちは「私」とは言いません、「私たち」と言います。「ハリストスの体」を構成する、世界中の、また過去の幾世代にも遡った、全てのメンバー(「肢体」)との、わかち合いの中で、私たちは聖書を読むのです。聖書に対する私たちの理解を試す決定的な基準は「教会の精神」です。聖書は教会の書なのです。
この「教会の精神」の探求を、私たちはどの様に始めれば良いのでしょうか。第一歩は、奉神礼(祈祷・礼拝)の中で聖書がどの様に用いられているかを調べてみることです。それぞれの祭日の奉神礼で読まれる聖書の箇所は、どのように選ばれているのだろうか…。第二には、教会の師父たちの著作の中に聖書がどう解釈されているかを尋ね求めるべきでしょう。
私たち正教会の聖書の読み方は、この様に、奉神礼的かつ聖師父的なのです。しかし、これは、私たちが皆痛感していることなのですが、英語で手に入る正教会の聖書注解が非常に少なく(訳者注;現代日本文では皆無と言っていい。明治の先達の翻訳した難解な漢文脈の文語体のものなら、金口イオアン−ヨハネ・クリィソストモス−のものを始め幾つかあるが入手は至難)。また西欧の注解がこの奉神礼的かつ聖師父的な取り組みを採用していないことから、実行するのは容易ではありません。
奉神礼的に聖書を解釈するということがどういうことかを示す例として、三月二十五日(ユリウス歴に対応するグレゴリウス歴表示では今世紀は四月七日)の生神女福音祭の晩課で読まれる旧約聖書の箇所を見てみましょう。旧約の次の三つの箇所が読まれます。
(一)創世記二十八・十〜十七。イアコフの、天と地を結ぶはしごの夢。
(二)エゼキエル書四十三・二七〜四十四・四。「君」以外は誰も通ることが出来ないエルサレムの聖所の門についての預言者の見た幻。
(三)箴言九・一〜十一。「知恵は自分の家を建て」で始まる知恵についての幾つかの偉大な言葉の一つ。
これらの箇所、並びに他の生神女の祭日に読まれる旧約の箇所は、すべて、童貞女から主が人としてお生まれになったこと(藉身)についての預言として理解されます。マリヤは、神が人としてお宿りになるための体をさし出し、この人間の世界に天からかけられたはしごの役割を果たしました。マリヤは童貞女のまま子供を産んだ唯一の「閉じられた門」です。「神の知恵たるハリストス」(コリンフ前書一・二四)が宿られた家をマリヤは提供しました(別の解釈では知恵は神の母自身をさすといわれます)。
特定の祭日の祈祷のために、聖書のどの箇所が選ばれているのかを調べることによって、一度読んだだけでは決して明らかにならない聖書の解釈の様々な層を見い出すことができます。
次に、復活祭の徹夜の祈りに先行する聖大土曜日の晩課からもう一つの例を見てみましょう。ここでは旧約聖書が十五箇所も読まれます。残念なことに多くの教会がこれらをほとんどを省略しているため、神の民は彼等に必要な聖書からの栄養に飢え渇いているという状況です。この十五箇所は「聖歴史」の全体像を示すとともに、ハリストスの復活の深い意義を強調しています。最初に、創世記の一・一〜十三、創造の記事が読まれます。これは、同時に、ハリストスの復活が新しい創造であることを意味します。四番目にイオナ書の全体が読まれます。大魚の腹の中に三日間預言者イオナが留まることは、墓に納められて三日後にハリストスが復活することの予象(前表)です(マトフェイ十二・四十参照)。六番目は、イスラエル民族の紅海徒渉の物語です(出エジプト十三・二十〜十五・十九)。ハリストスが死から生命へと過ぎ越した、新たなるパスハ(過ぎ越し)の予象となっています(コリンフ前書五・七、十・一〜四参照)。最後の箇所は三人の聖なる少年がかまどの火の中に入れられる物語です(ダニエル書三章)。もう一つの、ハリストスの墓からの復活の「型」ないし予言です。
この様に、教会の中で、教会と共に聖書を読むということは、大変重要なことです。旧約聖書を奉神礼的に読み、聖師父の助言を得ながら学ぶことによって、私たちは、ハリストスとその母の神秘を指し示す道しるべを見いだすことができるのです。教会の諸祭日とその聖書誦読箇所を示す教会の暦を活用して、新約の光りの中で旧約を、旧約の光りの中で新約を読むことを通じて、私たちは聖書の全体的統一を発見するのです。旧新約聖書の間の一致を見いだすには良い聖書コンコルダンスを使うのも一法です。これはどんな注解書よりも、はるかに多くのことを教えてくれる場合があります。
私たちの教区の聖書勉強会では、諸祭日に聖書が読まれる場合、一人のメンバーがあらかじめその箇所を調べて来るようにし、皆で、なぜその箇所が選ばれたのか討論するというやり方をとり、うまくいっています。他のメンバーに、聖師父の著作を、特に、英訳のある聖金口イオアンの聖書講話を利用して調べて来るという宿題を課することもあります。ただ、その場合、忘れてはならないのは、あなたが何を探しているのかをはっきりと認識しておくことです。聖師父たちは私たちとは異なった時代に発言した人たちですから、私たちは想像力を用いて読まなければなりません。私たちは、十九世紀ロシヤの田舎の教会のある司祭のように、杓子定規に聖師父を受け入れてはなりません。彼は主教から「聖師父の言葉を君の説教に取り入れなさい」と言われました。そこで、次の大祭の聖体礼儀の説教に聖金口イオアンの説教を、文字どおり一句も違えず読むことにしました。当日、所狭しと聖堂に溢れた教区の信者たちは、堂内に響きわたる朗声で、司祭が次のように説教を始めたとき、全く当惑しぽかんと口を開けてしまいました。
「これは一体どうしたことだ。余は何を見ているのであろうか。聖堂はからっぽではないか。ここには誰もいない。彼等は皆どこへいってしまったのだろう。彼等は皆戦車競走の競技場へ行ってしまったのだ」。(訳注・金口イオアンが活躍した4世紀のビザンティン時代でもローマ帝国市民にとって映画「ベンハー」で有名な戦車競争は最大の娯楽でした)
ゲオルギー・フロロフスキー神父(古代の聖師父のみずみずしい福音的キリスト教精神を復興した20世紀正教の「新聖師父学的総合」の嚆矢)なは、正教は今日聖師父の精神を己のものとしなければならないと、いつも強調していました。しかし、それを得るためには聖師父たちの言葉として外に表れたものを突きぬけて、内に込められた意味の核心に達しなければならないのです。
ハリストス、聖書の中心
第三の要素は、常にハリストスを中心に据え聖書を読むということです。
「一九七六年モスクワ会議」は「聖書には一貫した全体性がある」と述べています。その一貫性の軸となり全体性の骨組みとなるのは、ハリストスという「お方」(ペルソナ)に他なりません。ハリストスは、聖書の最初の一行から最後の一行まで、全体を縫い合わせている糸のようなものです。旧約聖書の各ページに、どの様にハリストスが予象されているのかということについては既にお話しました。私の学生時代の歴史の先生がよく言っていたように、「それが全てを縛り合わせている」のです。「結合してゆくこと」、これが聖書を読むときの原則です。
西欧での聖書の批判的研究の多くは、分析的方法を採用し、聖書の各書を幾つかの異なった資料に分解してしまいました。結び目はすべてときほぐされ、聖書は、むき出しの原初的な単位資料の寄せ集めへと、還元されてしまいました。これが無意味だとは言いません。しかし、私たちは聖書に、多様性と同時に統一を、散りばめられた個々の記事と同時にそれら全てを包括する目的を、認める必要があるのです。正教は一般的に、分析的方法より総合を指向し、聖書を、一切がハリストスをきずなとして統合された全体であると見なしています。
私たちは常に旧約聖書と新約聖書の焦点が合わさる所を探し、イイスス・ハリストスにそれを見い出すのです。正教は、旧約聖書には一貫してハリストスの御業の「徴し」やシンボルといった、ハリストスの象(かたち)が見い出せる、という予象論的な解釈法を重要視してきました。この顕著な例は、サレムの王であり祭司であったメルヒセデクに見ることができます。彼はアブラハムにパンとぶどう酒を献じました(創世記十四・十八)。これは聖師父のみならず、新約聖書そのものの中でも、ハリストスの予象と見なされます(エウレイ書五・六、七・一)。もう一つの例は、既に見ましたが、古きパスハ(過ぎ越し)と新しきパスハ(イイススの復活)の予象関係です。紅海の徒渉によってイスラエルがエジプト王から解放されたことは、救主の死と復活によって私たちが罪から解放されたことを予象しています。このようにして、聖書全体を解釈してゆくわけです。例えば、なぜ大斎の後半でイオシフ(ヤコブの子ヨセフ)の人物像を中心として創世記が読まれるのでしょう?なぜ、受難週においてイオフ(ヨブ)記が採り上げられるのでしょう?それは、イオシフもイオフも、罪が無いのに受難し
た人物であり、彼等は、今まさに教会がこの受難週の奉神礼で、その十字架上の無罪の受難を記憶しようとしているイイスス・ハリストスを予象する「かたち」であるからです。「それがすべてを縛り合わせている」のです。
アレキサンドル・シュメーマン神父は「クリスチャンというのは、眼を注ぐ所には何処にでもハリストスを見い出し、そのハリストスのうちで喜びにひたることができる存在だ」と言っています。これはクリスチャンが聖書にふれる時に、とりわけぴったり当てはまる言葉ではないでしょうか。私たちは聖書のあらゆるページにハリストスを発見することができるのです。
自分のものとして聖書を読むこと
古代東方教会で、修道についての著作を残した修道士聖マルクの言葉に次のようなものがあります。
「その思いを謙虚に保ち、霊的な仕事に携わっている者は、聖書を読むにあたって、そこに書かれたすべての事を、他人事としてではなく、自分自身の事として受けとめる」。
正教徒として、私たちは聖書のどこを開いても、自分自身の問題をそこに探さなければなりません。「これはどういう意味だろう?」ではなく、「これは自分にとって何を意味するのだろうか?」と問うべきなのです。聖書は救主と自分との直接的な対話です。ハリストスは私に語りかけ、私はそれに答えます。これが聖書を読むにあたっての第四の基準です。
聖書のあらゆる箇所を、自分自身の物語として読み取っていきましょう。「アダム」とは一体誰の事でしょう?「アダム」という名は「人」「人間」を意味しています。従って、創世記のアダムの陥罪についての記述は、私自身についての物語でもあります。私がアダムなのです。神が「あなたはどこにいるのか?(創世記三・九)」と呼びかけられたのは、私に対してなのです。「神様はどこにおられるのだろう?」と私たちはしばしば問います。しかし、ほんとうの問いは、私たち一人一人の中にいるアダムに対して、神が問いかける「“あなた”はどこにいるのか?」という問いなのです。
カインとアベルの物語では、神はカインに「弟アベルはどこにいますか?」と問います(創世記四・九)。これも私たち一人一人に向けられた問いなのです。カインとは一体誰でしょう?そう、私自身なのです。神は私たち一人一人の中にいるカインに問いかけます、「あなたの兄弟はどこにいますか?」と。神に至る道は他の人々への愛のうちに通じているのです。他には道はありません。兄弟の事は私とは関係無い、とすることにより、私は、私自身の内の「神の像」を「カインのしるし」(創世記四・十五)と取りかえ、神様から与えられた本来の人間性を否定してしまっているのです。
聖書を読むにあたり、私たちは三つの段階を想定できるでしょう。第一は、天地創造からの世界の歴史、選ばれた神の民の歴史、パレスティナの地に藉身された神の歴史、ペンテコステ(聖神降臨)後の力強い教会の働きの歴史、即ち、聖なる歴史としての聖書です。私たちが聖書に見いだすキリスト教は思想でも哲学的な理論でもありません。それは歴史に根拠を置く信仰なのです。
第二の段階は、個人史の集積としての聖書です。特定の時と場所で、神は歴史に介入され、神は個々の具体的な人物と対話を開始されます。神はそれぞれの人物を名指しされます。神から呼びかけられた一連の人々、即ち、アブラハム、モイセイとダヴィド、リベカとルフィ(ルツ)、イサイヤと預言者たち、そしてマリヤと使徒たちがいます。歴史において、神は常に具体的に働かれます。それは恥辱としてではなく祝福として人類に与えられました。神の愛は、無際限の大きさを持っているにもかかわらず、ある特定の地球の片隅に、ある特定の時に、ある特定の母親から、藉身されることを選ばれたのです。
私たちは、このように、聖書に記録されたあらゆる神の働きの具体性を肝に銘じなければなりません。聖書を愛する人はその年代と地理の細部を愛すのです。正教は、まさに、ハリストスが生活し、教えられ、死なれ、そして復活された聖地に対して、大変深い思いを持っています。聖書をより深く理解するための素晴らしい方法は、エルサレムとガリレヤに巡礼をすることです。ハリストスが歩かれたところを歩いてご覧なさい。死海のほとりに降りて行き、岩に一人腰を下ろして、ハリストスが四十日の荒野での試みに会われたとき、どんな事を感じたのか、思いを馳せてご覧なさい。ハリストスがサマリヤの女と話をされた、その井戸から水を飲んでみましょう。夜、ゲッセマネの園へ行って、古代からそこにあると言われる、オリーブの木の下の闇の中に座って、谷を隔てた市域の明りを眺めてご覧なさい。充分に主の救いの御業の歴史的な背景を具体的に体験して、その体験を日々の聖書の味読に生かすのです。
そして、いよいよ第三の段階に入ります。その個々の具体的な聖書の歴史を追体験することにより、まさに私たち自身の事としてそれらを受け入れるのです。「その地で起きたこれらすべての出来事は、遠い昔の遥かな地での事ではないのだ。今、まさに私自身がハリストスと直接に出会っているのだ。私はこれらの物語の中の一部なのだ」と自分に言い聞かせましょう。
例えば、「裏切り」は誰の個人史の中にもあるものです。私たちは他人を裏切ったことはないでしょうか?一度も裏切られたことはないでしょうか?その「裏切り」の思い出が私たちの心に傷を残してはいませんでしょうか?そのような反省の上に立って、聖使徒ペートルのハリストスへの裏切りと、ハリストスの復活の後にペートルが再び迎え入れらた記事を読むと、私たち自身をその記事の登場人物として体験することができるでしょう。ペートルとイイススの二人が裏切りの直後に何を経験したかを想像して、二人の気持ちを己のものとして、二人を自分自身に置き換えてみるのです。私はペートルです。この設定の中ではハリストスでもあり得るでしょう。両者の和解の過程を振り返ってみましょう。復活のハリストスは堕ちたペートルをいささかの感傷もまじえず、しかも大いなる愛を以て迎え入れようとします、ペートルの側は、勇気をふるってその迎え入れに応えようとします。そこで、私たちは自分自身に問いかけるのです。私は、自分を裏切った者に対してハリストスのように振舞えるだろうか?また逆に、裏切った私を赦し迎え入れようとする者の愛を素直に受け入れることができようか
?さらに自分自身を赦す事ができるだろうか?と。
もう一つ例として、マクダラのマリヤをとりあげてみましょう。私は自分自身の姿を彼女の
中に見い出せるだろうか?彼女が雪花石膏の壷から高価な油を注ぎ出してハリストスの足に塗ったときに見せた、あの惜しみなさ、自然さ、愛すべき直情性を、少しでも自分のうちに持っているだろうか?「この女は多く愛したから、その多くの罪はゆるされているのである(ルカ七・四七)」。逆に、私は善いことであれ悪いことであれ何に対しても、決して自分自身を投げ出そうとはせず、いつも臆病に身を引いているのではないだろうか?砂漠の師父たちは、「罪を犯さず自分は正しいと思いこんでいる者より、罪を犯したことを知りそれを悔い改めるなら、罪を犯した者の方がよい。」と教えています。
このマグダラのマリヤが、ハリストスの遺体に油を塗ろうと、墓に向かって出て行った時の(イオアン二十・一)大胆さ、行動の一貫性と、主への忠誠心を、私は少しでも我がものとしているだろうか?復活された主が彼女を呼んだ時の様に、主が私を名指しで呼ぶ声に耳を傾けているだろうか?さらに、彼女のように素直に、全存在を完全に主に向けて、私は「ラボニ(先生)」と答えているだろうか?(イオアン二十・十六)
この様に、従順に、教会のメンバーとして、あらゆる箇所にハリストスを見いだしつつ、一切を自分自身の事として聖書を読むことによって、聖書の多様性と深さを幾らかでも感得することができるようになるのです。もちろん、聖書の伝える真理への旅路において、私たちはほんの端緒についたに過ぎないことを忘れてはなりません。それは、果てしない大海原に、ちっぽけなボートで漕ぎ出そうとするのに似ています。
「あなたのみ言葉はわが足のともしび、わが道の光りです」。(百十八聖詠、百十九詩編、百五節)
名古屋ハリストス正教会司祭 ゲオルギイ 松島雄一 翻訳