聖書のメッセージ
みことばに立ちどまる
降誕 | 復活 | 十字架から復活へ |
主の洗礼 | 昇天・聖神降臨 | |
ゆるし | 変容 | |
十字架 | 神と隣人への愛 |
神の籍身、主イイスス・ハリストスの降誕は、
マリヤという一人の処女の
神のご意志
すなわち「ひとりの乙女によって神の子をこの世におくる」という
ご意志への自由な同意によって可能となりました。
正教はこの出来事を「生神女福音」と呼び讃え続けてきました。
発端 処女懐胎
ルカ伝 1:26-38
六か月目に、御使ガブリエルが、神からつかわされて、ナザレというガリラヤの町の一処女のもとにきた。この処女はダビデ家の出であるイオシフという人のいいなづけになっていて、名をマリヤといった。御使がマリヤのところにきて言った、「恵まれた女よ、おめでとう、主があなたと共におられます」。この言葉にマリヤはひどく胸騒ぎがして、このあいさつはなんの事であろうかと、思いめぐらしていた。すると御使が言った、「恐れるな、マリヤよ、あなたは神から恵みをいただいているのです。見よ、あなたはみごもって男の子を産むでしょう。その子をイイススと名づけなさい。彼は大いなる者となり、いと高き者の子と、となえられるでしょう。そして、主なる神は彼に父ダビデの王座をお与えになり、
彼はとこしえにヤコブの家を支配し、その支配は限りなく続くでしょう」。そこでマリヤは御使に言った、「どうして、そんな事があり得ましょうか。わたしにはまだ夫がありませんのに」。御使が答えて言った、「聖霊があなたに臨み、いと高き者の力があなたをおおうでしょう。それゆえに、生れ出る子は聖なるものであり、神の子と、となえられるでしょう。あなたの親族エリサベツも老年ながら子を宿しています。不妊の女といわれていたのに、はや六か月になっています。神には、なんでもできないことはありません」。そこでマリヤが言った、「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように」。そして御使は彼女から離れて行った。
この世の人たちは、童貞女、すなわち処女マリヤがイイススを生んだというのは「神話」にすぎず、実際は違うと考えます。イイススは、イオシフと婚約中に、マリヤと通りすがりのローマ兵との間にできた私生児であり、初代教会がイイススを神格化するためにこの「神話」をでっち上げたととなえる人さえいます。
クリスチャンは、昔からさえ繰り返されてきたこのような「説」に耳を貸す必要はありませんが、「処女懐胎」がキリスト教に救いを求める人々にとって大きな躓きの石であることは確かでしょう。科学的な考え方しか認めない現代では、クリスチャンの中でさえ躓いてしまう人がいます。つい先頃、カナダのれっきとした正統的なプロテスタントの団体の役員が、処女懐胎は単なる伝説、キリストは神でもない、復活もなかったと公の場で語り、物議を醸しました。
しかし、反対に、処女懐胎は躓きどころではなく私たちへの大いなる希望なのだということを、今日はお話ししたいと思います。
聖書の初めの初め、創世記の冒頭には次のように記されています。
「はじめに、神は天と地とを創造された。地はかたちなく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた」
世界を無から創造された後、神は次々と被造物を造ってゆきますが、その最初には「神の霊が水のおもてをおおっていた」とあるのです。やがて、神が「光りあれ」と言われたとき、光が創造され、次々と空や、海や、植物や、動物や、月や星が造られていきます。でも、最初は神の霊がおおっている状態です。神の霊と、神のことば・神のご意志と言い換えてもよいでしょうか、この二つが働いたとき、世界は豊かな、いのち溢れる、よきものへと形作られていったのです。
マリヤ様に於いて、この神の創造が新たに繰り返されます。造られたばかりの真新しい世界と同様、男の種を受け入れたことのない乙女を神の霊がおおいます。その時、天使ガブリエルが神のことばを伝えます。
「聖神(聖霊)があなたに臨み、いと高き者の力があなたをおおうでしょう。それゆえに、生まれ出る子は聖なる者であり、神の子と称えられるでしょう」
聖神が乙女におおいかぶさります。あり得ないことがおきます。聖なるお方、いのちそのものであるお方、善なるお方、力あるお方、神であるお方が人間のからだに宿り、やがて人間としてお生まれになります。そのお方イイスス・ハリストスはまさに「新たなる創造」そのものであるお方です。
今日、洗礼機密で、清められた新しい水の中から、まるで天地創造の時のように、処女の腹から生まれるように、新しいクリスチャンが生まれました。そして聖なる油をつけられることによって聖神の働きを受けました。教会という聖神にあふれた集いの新しいメンバーとして、新たなる創造を生き始めるためです。クリスチャンの人生とは、洗礼によって古い自分を脱ぎ捨てハリストスを着た私たちが、聖神におおわれ、聖神に導かれ、聖神に力づけられて、自らの人生を通じて「新たなる生き方」「新たなる人」を生み出してゆく歩みです。生神女、神を生んだ女マリヤ様と同じく、聖神にはらまされて、私たちはやがて、神を「天にいます我らの父」と呼ぶものに、ほんとうにふさわしい者として、もう一度生まれるのです。
マリヤ様の聖神による処女懐胎は、私たちにその希望と確信を与えてくれます。マリヤ様にあったことは私たちにも可能だと。処女懐胎がなければ私たちの希望が一つ消えます。
処女懐胎という神秘に躓くひまがあったら、私たちがふだんの生活の中で何におおわれているか、何と交わっているか考えてみましょう。競争や、効率や、見せかけの楽しみ、見えるものの、数えられるものの満足をひたすら追い求める「この世」が、私たちに覆い被さっていませんか、そういうものとばかり交わって、嫉妬や、憎しみや、高慢や、果てしのない欲求不満の種を受け入れて、騒々しく虚しい見るも無惨な心と生活を生んでいませんか。
覆い被さってくるこの世を払いのけて、神との交わりにすすんで身を差し出さねばなりません。口に出して「神さま私を憐れんで下さい」と祈ることから、聖書のみことばに触れることから、そして何より教会に集い、共に主を讃え、神の愛と聖神の恩寵を、ご聖体をいただいて受けることから、それは始まるのです。(98年降誕祭聖体礼儀での説教、当日朝洗礼がありました)。
ヘロデ王はこのことを聞いて不安を感じた
(降誕祭福音より マトフェイ2:3)
マトフェイ(マタイ)伝 2:1-18
イイススがヘロデ王の代に、ユダヤのベツレヘムでお生れになったとき、見よ、東からきた博士たちがエルサレムに着いて言った、
「ユダヤ人の王としてお生れになったかたは、どこにおられますか。わたしたちは東の方でその星を見たので、そのかたを拝みにきました」。ヘロデ王はこのことを聞いて不安を感じた。エルサレムの人々もみな、同様であった。そこで王は祭司長たちと民の律法学者たちとを全部集めて、キリストはどこに生れるのかと、彼らに問いただした。
彼らは王に言った、「それはユダヤのベツレヘムです。預言者がこうしるしています、
『ユダの地、ベツレヘムよ、
おまえはユダの君たちの中で、
決して最も小さいものではない。
おまえの中からひとりの君が出て、
わが民イスラエルの牧者となるであろう』」。
そこで、ヘロデはひそかに博士たちを呼んで、星の現れた時について詳しく聞き、彼らをベツレヘムにつかわして言った、「行って、その幼な子のことを詳しく調べ、見つかったらわたしに知らせてくれ。わたしも拝みに行くから」。彼らは王の言うことを聞いて出かけると、見よ、彼らが東方で見た星が、彼らより先に進んで、幼な子のいる所まで行き、その上にとどまった。
彼らはその星を見て、非常な喜びにあふれた。そして、家にはいって、母マリヤのそばにいる幼な子に会い、ひれ伏して拝み、また、宝の箱をあけて、黄金・乳香・没薬などの贈り物をささげた。そして、夢でヘロデのところに帰るなとのみ告げを受けたので、他の道をとおって自分の国へ帰って行った。彼らが帰って行ったのち、見よ、主の使が夢でイオシフに現れて言った、「立って、幼な子とその母を連れて、エジプトに逃げなさい。そして、あなたに知らせるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが幼な子を捜し出して、殺そうとしている」。そこで、イオシフは立って、夜の間に幼な子とその母とを連れてエジプトへ行き、ヘロデが死ぬまでそこにとどまっていた。それは、主が預言者によって「エジプトからわが子を呼び出した」と言われたことが、成就するためである。
さて、ヘロデは博士たちにだまされたと知って、非常に立腹した。そして人々をつかわし、博士たちから確かめた時に基いて、ベツレヘムとその附近の地方とにいる二歳以下の男の子を、ことごとく殺した。
こうして、預言者エレミヤによって言われたことが、成就したのである。
「叫び泣く大いなる悲しみの声が/ラマで聞えた。ラケルはその子らのためになげいた。子らがもはやいないので、慰められることさえ願わなかった」。
ユダヤの王ヘロデは、東方から来た博士たちの「ユダヤ人の王」誕生の知らせに、強い不安を感じました。彼は自分の権威を脅かす者へは容赦ない暴君でした。救世主が生まれると預言されていたベツレヘムとその近辺の村々に兵を派遣し二歳以下の男子を皆殺しにしました。この残酷な仕業は暴君の過剰な対応とは言い切れません。王は権力者独特の鋭敏さで、このイイススという嬰児が、やがて人類の歴史を変えるただならぬお方であると直観したのです。
同様に、人は、はじめてイイスス・ハリストスを知ったとき、心の最も感じやすい場所に何かが触ったと感じるものです。そして、その「感じ」には、イイススという人物が、やがて自分を根こそぎ変えてしまうのではないかという不安が伴います。嬰児を皆殺しにしたヘロデ王と同様、人は毎日の仕事や多忙さへの没頭、楽しみへの耽溺など「この世の思い」を総動員して、このイイススのイメージを打ち消します。
「普通の人」に戻れて一安心というわけです。
実はイイススとその両親はヘロデ王の虐殺を間一髪で逃れエジプトに避難していたのです。密かに一家はユダヤの地に戻り、イイススは片田舎の村ナザレで成長し、やがて宣教を開始されました…。
同様に、打ち消したと安心していたイイススのイメージは突然舞い戻ってきます。
ご自身には少しも罪は無いのに、嘲りといたぶりを静かに忍び、黙って十字架に張り付けられた方。耐え難い苦痛の中でさえ、ご自分を苦しめ殺そうとする者たちのために祈った方。この方の純粋な愛に、自分のみすぼらしい魂を一切委ねて、泣いてみたいと、熱い思いで願う時が訪れるのです。
この時まで、人の心は、ほんとうには、やすらぎません。
どんな人の心にも「小さな町、ベツレヘム」があります。ご自身の独り子がやがてそこに宿られるよう、天の父があらかじめ備えられているのです。
多くの人々の「心のベツレヘム」に主が降誕されますようお祈りいたします。
それはまた、イイススのいのちが、この身に現れるためである
(コリンフ後書4:10)
最愛の者の苦しみは、胸を掻きむしります。心臓が締め付けられ、腸が引きちぎられるようです。ここに神が人としてお生まれになった神秘を解く鍵があります。
ハリストスの救いはしばしば「罪の赦しの福音」と呼ばれます。その通りです。しかしそれだけなら、神が人となる必要はなかったかもしれません。天の高みから罪の赦しを人類に宣告すればよかったのです。
最愛の子が苦しんでいれば、私たちは何をおいてもそこへ駆けつけます。できれば、その苦しみを代わってやりたい、代われないまでも、ともに苦しんでやりたいと思うでしょう。神もそうでした。神は人の肉体をおとりになり、人の苦しみを、外側から憐れむのではなく、その心臓で、その腸で「分かち合って」下さいました。
十字架のご受難は、その分かち合いの極致でした。恐れるもののないはずの神である主が、受難を目前に恐怖におののきつつ(マルコ14:33)、汗を血の滴りのように地面に落としながら(ルカ22:44)「もしできることなら、この時を過ぎ去らせて下さるように(マルコ14:35)」と祈りました。十字架上で息を引き取られる直前、ついに「わが神、わが神、どうしてわたしを御見捨てになったのですか」と、何と神ご自身が「神にさえ見捨てられる」という人間にとって究極的な苦しみを、分かち合って下さいました。(マトフェイ27:46)
私たちの苦しみを、その極限で、私たちの内側から分かち合われたハリストス、そのおかげで、今度は私たちが自らの苦しみを「ハリストスの苦しみ」として分かち合えます。これほど大きな希望はありません。主の苦しみ・「死の様(ロマ6:5)」を分かち合えるなら、私たちは主の「復活の様(ロマ6:5)」も分かち合えるはずだからです。
「わたしたちは…いつもイイススの死をこの身に負うている。それはまた、イイススのいのちが、この身に現れるためである(コリンフ後書4:10)」とパウェルは言います。
この降誕(籍身)の神秘を、正教会の聖師父たちは「神が人となったのは、人が神になるため」と大胆に表現しました。
福音の核心はここにあります。
主の洗礼
そのときイエスは、ガリラヤを出てヨルダン川に現れ、ヨハネのところにきて、バプテスマを受けようとされた。ところがヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った、「わたしこそあなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたがわたしのところにおいでになるのですか」。
しかし、イエスは答えて言われた、「今は受けさせてもらいたい。このように、すべての正しいことを成就するのは、われわれにふさわしいことである」。そこでヨハネはイエスの言われるとおりにした。イエスはバプテスマを受けるとすぐ、水から上がられた。すると、見よ、天が開け、神の御霊がはとのように自分の上に下ってくるのを、ごらんになった。また天から声があって言った、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」。
水の成聖
水は形のないものです。入れ物でささえてやらなければ、流れ去ってしまいます。
このかたちないものが、海や川や池の深い淵に淀んでいるのを見ると、私達は何か引き込まれそうな、不安にとらわれます。この水の底に何が隠れているんだろう?いきなり私達の心のおぞましい深みに手を入 れてきて、私達をどうにも抵抗できない不思議な力で金縛りにしてしまうような、そんな存在が身を潜めているのではないだろうか?
実際、古今東西、水は無秩序と混乱の、人間の罪とおぞましくゆがんだ欲望の象徴であり、旧約聖書では海にはレバイヤサンという怪物が棲むといわれ、私達の身近な民間伝承の中にも、池の主の大蛇だとか龍神さまだとかで、それが表されています。
この「水」に、ハリストスは前駆授洗イオアンによって洗礼を受けられ、身を沈められました。本日御祝いしている、主の洗礼祭とはこの出来事を記憶いたします。
前駆イオアンが民衆に授けていた洗礼は、悔い改めのしるし、罪の洗い清めのしるしとしての洗礼でした。その洗礼を、罪など少しもない、逆に私達を清めるお方であった神・ハリストスがお受けになるとは一体どうしたことでしょう。
はじめに申しましたとおり、長い間、水は無秩序と混乱、人を罪に引き込む魔の力の象徴でありました。しかし、ハリストスという聖なるお方が、この水に入ることによって、「水は聖にされた」のです。水は、無秩序ではなくほんとうの自由、魔の力ではなくほんとうの生命を生み出す力を持ち、私達を罪から清める力を持つものとなりました。
水は全ての生命が、植物が、動物が、人間が共に分かち持つものです。世界は水に満ちあふれています。天も地も、今ここで息をしているこの空気もみな水で満ちています。ハリストスがヨルダン川に入ることによって、この一切を貫く水がすべて聖なるものに変えられ、この生命と世界のすみずみまでが、本来の瑞々しさと輝き回復したのです。
私達クリスチャンは、この主によって聖なるものに回復された水に、信仰を持って沈むことによって、すなわち洗礼によって、自らも聖なるものへと変えられた者たちであります。私達の救いはまさに、主がこのヨルダンの水に入られたときから開始されたといってもよいのです。
主の洗礼祭には大聖水式が行われます。そこで、水に沈められる十字架は、かつてヨルダン川で、そして今もあらゆる場所で水を清め、私達の生命を清め新たにし続けるハリストスをかたどります。
聖水式で成聖された水を、私達は浴び、飲み、またいろいろなものを祝福するのに用います。それを通じて、私達は、この「聖水」と書かれた瓶に入っている水ばかりでなく、世界中の一切の水が、世界中の一切の生命が、ハリストスのみわざにより新たにされたこと、聖なるものにされたことを体験するのです。
また、水に沈められる十字架は、私達の罪の赦しのために私達にかわって十字架上で死なれたイイスス・ハリストスをもかたどります。ハリストスご自身が、御受難を前に、「自分にはまだ受けなければならない洗礼がある」とおっしゃいました。十字架での死は、ヨルダン川の洗礼によって開始された主の救いのわざを成し遂げる成就の洗礼でもあるのです。
聖水式では、水に沈む十字架をしっかりと見つめます、心に焼き付けます。主の私達のために一切をなげうたれたご生涯に心を開きます。
三位一体の神の啓示
よくこういう質問を受けます。「キリスト教は唯一の神を信じているんですよね?」。答えはもちろん「その通り」です。古事記や、ギリシャ神話にでてくるような、互いに喧嘩や恋や戦争をしたりする神々を、私たちはほんとうの神とは考えません。キリスト教も天使たちの存在を教えますが、これは神ではありません。あくまで、唯一の神がご自身と人間に奉仕させるためにお造りになったもの「被造物」です。また私たちは、生神女マリヤ様を讃え、聖人たちを尊敬しますが、神々として礼拝しているのではなく、神さまの恵みの中で私たちがめざすべき真の人間のイメージを実現した人たちとして、仰ぎ見ているのです。従って、世界をお造りになり、一切をつかさどっておられる神は唯一です。
「では、『父と子と聖神一体の神』って何ですか?」という質問が続きます。
キリスト教は神は唯一のお方と信じます。しかし同時に神は「聖三者」である、神は「三位一体」であると信じます。唯一の神を信じることでは共通のユダヤ教やイスラム教との違いです。神は、天の父なる神と、私たちのために人イイスス・ハリストスとしてこの世にお降りになった神の一人子と、太陽から光が出るように父なる神から出た霊である神聖神、このお三方だと言います。「神がお三方であるなら、唯一の神ではなく三つの神か」というと、いや、「お三方は一体であり神はあくまで一つ」であります。三が一であり、一が三なんです。えっ!どうして?そういうのは言葉のあやで、ほんとうは究極的には、神はお一方か、お三方かのどっちかなんでしょう?そう思いますよね。実は、古代から大勢の頭のいいクリスチャンが、一生懸命筋道の立った考えを押し進めて、究極的には、神は一つだとか、三つだとか結論めいたことを論じてすっきりさせようと試みました。でも、そのたびに正教会は論争や会議をして、そういうすっきりした「考え」を間違った信仰、異端として斥け続けてきました。
どうしてでしょう?「筋道の立ったすっきりした教えの方が、みんなよく納得してくれて、伝道もしやすいだろうに」。そう思いませんか?実は一つのものが「三つのように見える」とか、実は三つの別々のものが「まるで一つのように見える」などという、分かりやすい考えを捨てて、人間の頭では絶対に納得できない、「一つのものが三つであり、三つのものが一つ」であると、正教会が信仰告白し続けているのはなぜでしょう。それはハリストスのお弟子たちが、そのようなものとして神さまを体験したからです。そのようなものとして神さまを知ったからです。そのようなものとして神さまについての教えを考え出したのではないからです。考え出されたものなら、別のもっと筋道の立った考えで訂正してゆけます。でも、体験したこと、知ったこと、言い換えれば神に啓示されたことは、人間の考えに合わせて言い換えたりなおしたりはできないのです。
本日の福音は、お弟子たちの「三位一体」体験の中心にあるものです。主・イイススがヨルダン川で洗礼を受けたとき、川の流れに立つイイスス・ハリストスの上に、聖神がはとのように下り、天から「これは私の愛する子である、私の心に適う者である」という声が響きわたりました。古代の人々独特の表現方法では、このようにしか伝えようのない神秘な出来事が起きたのです。その時、居合わせた人々は、父なる神と、父と深い愛で結ばれる子と、父からあふれ、イイススとそこに居合わせるすべての人々をたとえようのない光の中に包み込む聖神とを、聖なる三者、三位一体のお方として心に刻み込んだのです。
教会とは、聖体礼儀とは、主のお弟子たちのこの体験を、私たち自身の体験として、受け継ぎ伝える場です。私たちは、主イイスス・神の子のみ言葉とみわざを体験します。ご自身を十字架に父への供え物としてささげたハリストスと共に、私たち自身の生活を・いのちを、パンとぶどう酒として天の父なる神にささげます。教会にあふれる神聖神のお働きによって、神の子ハリストスのお体に変えられたそのささげものを、命の糧として受け取ります。その時、実は、互いに別々の身体と心を持つ私たち一人一人が、それぞれの自由とかけがえのなさをいささかも失うことなく、あたかも、それぞれの意志と実体を持った父と子と聖神のお三方が一体であるように、一つに結ばれるのであります。「父と子と聖神」一体の神の愛のありかたが、私たちに恵みとして与えられ、愛することにしくじり続けた私たちが、愛することのできる者へと育まれてゆくのであります。孤独に自分の造った世界に向かい合う神ではなく、三位一体の、ご自身の内に愛をあふれさせておられる方であればこそ、この恵みが可能となるのです。
正教会では大斎開始直前の日曜を「赦罪の主日」として、夕刻に行われる晩課では、信徒・聖職者こぞって互いの前に伏拝し、手を取り、接吻し、赦し合いの儀式を行います。人々が互いにゆるしあうことなくして、復活祭の讃える人間のよみがえりはあり得ないからです。
もしも、あなたがたが、人々のあやまちをゆるすならば、あなたがたの天の父も、あなたがたのあやまちをゆるして下さるであろう。(マタイ6:14)
もし心から兄弟をゆるさないならば
人間の弱さによる、どんな過失も罪も、私たちが悔い改めるなら、神はイイスス・ハリストスを通してお赦しになります。天の神父が、その独り子を私たちのもとにお遣わしになったのは、「裁くためではなく、救うため(ヨハネ3:17)」だからです。
しかし神が赦さない一つの罪があります。
イイススのたとえ話(マタイ18:23-35)。
王から一万タラントという莫大な金を借りている家来が、返済の延期を願い出たところ、王は哀れに思って、その負債を、なんと帳消しにしてくれました。しかし、彼はわずか百デナリを貸している仲間に返済を迫り、「もう少し待ってくれ」という願いにも耳を貸さず、牢屋に入れてしまいました。これを聞いた王は、「悪いやつめ。おまえが願ったからこそ、おまえの負債をゆるしてやったんだ。わたしが憐れんだように、おまえもあの仲間を憐れんでやるべきではなかったのか」と怒り、彼を牢屋に入れてしまいました。…このたとえ話をイイススは次のような言葉で結んでいます。
「あなたがためいめいも、もし心から兄弟をゆるさないならば、わたしの天の父もまたあなたがたに対して、そのようになさるであろう」。
赦さないこと、愛さないことを、神はお赦しになりません。「どうしても赦せないんです、お赦し下さい。どうしても……」という祈りは、たとえそれがどんなに切実な魂の叫びであっても、聞き入れられないのです。隣人を赦さない、愛さない時、私たちの内にとぐろを巻き、私たちから一切の光を奪い取る、憤怒や憎しみの焦熱はまさに地獄です。この地獄にいる限り、たとえ神は赦したくても、私たちの側がその赦しを受け取れません。私たちはこの地獄から抜け出したい。しかし、赦すこと・愛することは至難です。熱い怒りの嵐は去っても、冷たい無視の中に憎しみは生き続けます。生き生きした生命の躍動は失われます。
十字架上で黙って首を垂れるイイススだけが、私たちに希望を与えてくれます。「わたしが赦したように赦せ。愛せ。それだけがあなたたちの復活への道だ」と。
ゆるしの訓練 1998 赦罪の主日 説教より
「もしも、あなたがたが、人々のあやまちをゆるすならば、あなたがたの天の父も、あなたがたをゆるして下さるであろう。もし人をゆるさないならば、あなたがたの父も、あなたがたのあやまちをゆるして下さらないであろう」
先ほどのこの福音をふまえ、私たちは本日、晩課の最後に、互いにひざまづき、手を取り、赦し合います。復活祭とそこに溢れる喜び、まさに神さまが私たちにもたらす喜びへ、私たちは独りぼっちで旅立つのではありません。私たちは教会として、神さまがお集めになった集いとして、手を携えてそこに向かうのです。旅立つ私たちの間に憎しみやわだかまりがあってはこの旅は無事に目的地へ着けません。そこで、大斎の最初の祈りに、実際にかたちにあらわして、体を動かしてこの赦し合いの儀式を行うのです。
しかし、赦し合う心さえあれば、そんな格好だけの儀式をしなくたっていい。赦し合えないのに、格好だけ繕うのは意味がない、むしろ偽善だ…こういう思いが、私たちの心のどこかに潜んでいます。そうかもしれません。
しかし、教会は、心が大切である・格好だけでは無意味である、そして赦し合いの儀式に臨む私たちの間に、もしかしたら、いやたぶん、赦し合えない・愛し合えないということもあり得るとよく知っていてなお、この赦罪の儀式を行い続けてきました。ちゃんちゃらおかしいと笑わない!
なぜでしょうか?
長野オリンピックが先日無事終わりました。フィギヤスケートやジャンプ競技に感動された方も多いのではないでしょうか。しかし、あの素晴らしいプレイは一朝一夕で身に付いたのではありません。文字通り血のにじむような訓練の賜物です。選手たちは、心に描いた美しいプレイのイメージを、現実のものにするために、何度も何度も体を動かして練習します。心にある完全なプレイのイメージと、身体で表現する現実のプレイの一致が目標なのです。
しかし最初はだれでも思うようにいきません。心と身体がバラバラです。
わたしたちもそうです。長い間、わだかまりを持ち続けて、赦さないでいることの愚かさ・悲しさを・つらさを心ではしっかり知っているのに、そして赦さなければならないと思っているのに、面と向かうと手をさしのべることができない。「長い間あなたを苦しめてきました、赦して下さい」が言えない。和解をもたらす柔らかな赦しの笑顔が作れない。かえって顔を見ているうちにむらむらと怒りを新たにしてしまうという有様です。
心と身体が、内と外がバラバラです。キリスト教ではこれを死と呼びます。肉体の死が身体から魂が離れて行くことであるように、私たちの心と身体が引き裂かれ、一致を保っていないとき、人は死の内にいます。聖使徒パウェルはこの死を自分自身のこととして次のように語っています。
「わたしは自分のしていることがわからない。なぜなら、わたしは自分の欲することは行わず、かえって自分の憎むことをしているからである。…欲している善はしないで、欲していない悪を行っている。…わたしは何というみじめな人間なんだろう」…そして、パウェルは問いかけます「だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか」。
「我が神に感謝します。イイスス・ハリストス我らの主によってです」
これがパウェルの答えです。そして、私たちクリスチャンの答えです
神が人となったのは、肉体をお取りになったのは人間をこの死から救うためです。心と肉体の健康な一致を回復するためです。神・ハリストスが自ら人となって取り戻して下さった心と肉体の一致を、「ハリストスのからだ」としての教会にあって、ご聖体という「ハリストスのからだ」を通じて、私たちが自分自身のものとして回復するため、再び生きるため、よみがえるため神は肉体を取られたのです。
この私たちにもたらされた心と身体の一致は自動的に私たちのものになるわけではありません。スポーツ選手と同じように、ハリストスという完全な愛のイメージ(イコン)を心に持ったたゆみない訓練によって現実のものにするのです。本日の赦罪の儀式も私たちの心と身体を一つにした訓練です。主の十字架のイコン、完全な赦しのイメージの前で、そのイメージを内面に持って身体は互いに伏拝し赦しを願い合います。赦し合います。心から赦せるようになるまで待つのではなく、まず身体で、行動で赦し合い、赦そうという意志を鍛えるのです。
私たちのために身体になって下さった、ご聖体・私たちの食べ物、飲み物にまでなって下さった神の愛に、私たちは身体を通して応えなければなりません。信仰を個人の心の問題に閉じこめてはなりません。人と人との間で愛の現実に実を結んで行くのです。教会にあふれる聖神(聖霊)の恵みが私たちにそれを可能にしてくれます。
昼の十二時になると、全地は暗くなって、三時に及んだ。そして三時に、イイススは大声で「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」と叫ばれた。それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。…イイススは声高く叫んで、ついに息をひきとられた。そのとき、神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。イイススにむかって立っていた百卒長は、このようにして息をひきとられたのを見て言った「まことに、この人は神の子であった」マルコ15:33-39
キリスト教は人間の苦しみを取り除くとは約束しません 十字架叩拝の主日 説教から
私たちには、たくさんの苦しみがあります。
「正直言って、特別に苦しみって何もないんです」とおっしゃる方がまれにいますが、失礼ながら、幼稚な方か、人生の真実からじょうずに目をそらしておられる方か、一番困ったことですが、自分が背負うべき苦労を他人に肩代わりさせて気づいていない方です。聖書も人間の現実を、楽園から自らを引き離し荒れ地をさまよい、女は苦しんで子を産み、それでもなお男にしがみつく者として、また男は、不毛の地で「一生苦しんで地から食物をとり顔に汗してパンを食べる」者として、そして最後には「ちりに帰る」者として描きます。私たちの苦しみの現実です。
この現実に対し、たくさんの「神々」が人間の苦しみを取り除いてやると約束してくれます。そんな約束を実は少しも信じていないくせに、多くの人々が少しでも不安から逃れようと神々に貢ぎます。「家内安全」「病気平癒」「厄払い」から「がん封じ」や「ぽっくり寺」まで、まるで人間の苦しみの展示会です。
しかし、キリスト教は人間の苦しみを取り除くとは約束しません。
イイススは人々の病や苦しみをいやしましたが、それは、イイススが真の神であることを示すしるしとして、また主の憐みがあふれ出たにすぎません。主の救いのわざが完成したその最後の一週間を思い出してみましょう。そこで主が人間の救いのためにしたのは、逮捕され屈辱を受け、十字架にかけられ苦しみ、そして死んだことです。神の力は一つも発揮されず、普通の人間よりもさらに無力な姿をさらしました。主の救いの中心は、奇跡的な癒しによって人類の苦しみを取り除くことではなく、まず、ご自身が十字架の苦しみを苦しみ抜くことにあったのです。
本日の福音(マルコ8:34-9:1)で、主は人々に呼びかけます。
「だれでも、わたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい」。
主がお命じになったのは、ご自身がなさったように、己れに課せられた苦しみを「自分の十字架」として背負い、主について行くこと…、口あたりのよいごまかしの慰めはいささかもありません。
いろんな苦しみがあります。それらの多くは、私たちの力で何とかできるでしょう、しかし、どうしても逃れられない苦しみというものもあります。その時、私たちには二通りの道しかありません。真ん中の道はありません。
一つは、その苦しみを人や社会のせいにして、自分の苦しみに周囲の人々を巻き込んで苦しみを一層耐え難いものにする道です。この道は滅びの道です。この時、「十字架」であるべき苦しみは、自分だけでなく隣人たちもともに滅びに引きずり込む、悪魔的な呪いとなります。「自分を捨て」ないとき「自分にしがみつく」とき、私たちにはこの道しか見えません。
もう一つは、その苦しみがどんなに理不尽に見えようとも、どんなに不条理に感じられようとも、そういう自分の思いを捨て、その苦しみを神が背負えと命じる十字架として受け入れることです。私たちクリスチャンはいつも十字架を身につけています。お守りじゃない。自分は、十字架を背負って、つまりどんなに苦しくても、この与えられたいのちを生き抜く、ハリストスについていく、という生き方を選んだ事の証しです。自分を捨てる「十字架の道」です。
しかし、このお命じは、主の自己犠牲にならい忍耐を身につけよという道徳的な教訓ではありません。福音なのです。
主は、十字架で死んで朽ち果てたのではなかったことを思い出して下さい。三日目に肉体をもって復活なさり、人々に死への勝利を証しされました。主は人間の苦しみと死を十字架上で徹底的に分かち合うことを通じ、私たち人間が主のよみがえりを分かち合えるようにして下さったのです。ハリストスとともに「自分の十字架」を背負う者はハリストスの復活にも与るのです。ハリストスは私の苦しみを取り除いてくれたのではなく、その意味を変えて下さったのです。「私の苦しみ」はもはやこの世が私たちに強いる意味のない拷問のようなものではありません。「私の苦しみ」は、「ハリストス、神、とともに苦しむ苦しみ」へと高められ意味を与えられ、ハリストスの勝利のしるしへと変えられるのです。
皆さん、思い浮かべてみて下さい。殉教者たちはもちろんの事ですが、身近にいる、信仰をもってご自身の苦しみを十字架として背負い抜いておられる方々、また背負い抜いて栄冠を受けられた方々の輝きを、思い起こして下さい。そして、何より私たち自身が、たとえ小さな十字架にせよそこから逃げず引き受ける時、つらさの中にも一筋の光を感じていることを。主の十字架は復活への避けられない道でした。私たちの背負う十字架もやはり私たち自身のよみがえりへの唯一の道です。
復活
ハリストス死より復活し、死を以て死を滅ぼし、
墓にあるものに命を賜えり
週の初めの日、夜明け前に、女たちは用意しておいた香料を携えて、墓に行った。 ところが、石が墓からころがしてあるので、中にはいってみると、主イエスのからだが見当らなかった。そのため途方にくれていると、見よ、輝いた衣を着たふたりの者が、彼らに現れた。女たちは驚き恐れて、顔を地に伏せていると、このふたりの者が言った、「あなたがたは、なぜ生きた方を死人の中にたずねているのか。そのかたは、ここにはおられない。よみがえられたのだ。まだガリラヤにおられたとき、あなたがたにお話しになったことを思い出しなさい。すなわち、人の子は必ず罪人らの手に渡され、十字架につけられ、そして三日目によみがえる、と仰せられたではないか」。 そこで女たちはその言葉を思い出し、墓から帰って、これらいっさいのことを、十一弟子や、その他みんなの人に報告した。
「復活祭の聖像」 …その意味するもの
「黄泉降り」
教会の教えでは、黄泉降りは救贖と分かち難く結びついています。アダムの死により、救主の天性を伴う降下(訳注:天からこの地上に、さらに黄泉にまで降ること)は、アダムが降っていたのと同じ深さにまで達しなくてはならなくなりました。換言すれば、黄泉降りはハリストスの敗退の極みを表現すると同時に、その光栄の初めでもあったのです。
この神秘的出来事について福音記者たちは誰もふれていません。しかし、使徒ペトルは聖神降臨の日の聖神に満たされた言葉(使徒行実2・14〜39)や彼の第一公書において言及しています。
「彼は獄に捕われている霊どものところに下って行き、宣べ伝えることをされた」
(ペトル第一公書3・19)
ハリストスの黄泉への勝利……アダムと旧約の義人たちの救出は、聖大土曜日奉神礼の中心主題であると共に、復活祭の全奉事を通続し、ハリストスの肉体の復活の光栄と分かち難いものです。この主題は、言わば復活の主題と織り混ぜられているのです。
「ハリストスよ、爾は地獄に降り、繋がれし者を籠むる世世の鎖を破り、三日にして、イオナが鯨より出でし如く、墓より復活せり。」
(パスハ早課イルモス第六歌頌)
この奉神礼の祈祷文に次いで、黄泉降りの聖像は、我等の主の霊が黄泉に降るという復活の宗教的、卓越した現実性を表現すると共に、この降下の目的と結果を示しています。この出来事の意味と調和して、この聖像の所作は、地の奥深くぽっかり口を開けた暗黒の深淵として描かれる黄泉を舞台としています。聖像の中央で主の姿勢と色調によりしっかり目立っているのが、救主です。 復活祭カノンの著者であるダマスクの聖イオアンは言っています。
「たとえハリストスが人として死なれ主の神聖なる魂が潔き体から去ったとしても、主の神性は両者…魂と体から分かち難く残っていたのです」
(「正教信仰注解」III、c、27)
それゆえ主は、黄泉の捕虜としてではなく征服者でありそこに捕らわれる人達の救助者として、奴隷としてではなく生命の主宰としてそこに現れています。普通幾種もの青の濃淡…しばしば外周に星が瞬き主から発する光線がつんざく、光栄の象徴である燦然とした後光を伴って主は描かれます。その着物は、もはや地上での活動中描写されるようなものではなく、隅々まで細い金色の光線(アシステ)を描いて光彩を施された黄金の色合いです。
黄泉の暗黒は、そこに降った「神人」たるハリストスの光栄の光である神の輝きに満たされています。それは来るべき復活の光、復活祭の光線と曙光です。救主は、ご自身が取り壊した二枚の黄泉の戸板を足下に十字形に交差させ足蹴にしています。多くの場合、その戸板の下、暗黒の深淵の中に、投げ倒された嫌な暗黒の王子サタンの姿が見られます。場合によりその深淵には沢山の様々な細かな物−−打ち砕かれた黄泉の力、今や天使がサタンを縛る引きちぎられた鎖、鍵、釘も見られます。主の左手には、使徒ペトルの言葉に則った黄泉での復活の「宣べ伝え」の象りである巻物が握られています。時折、巻物の代わりにもはや恥ずべき処刑の道具ではなく死への勝利の徴である十字架を主が握っている場合もあります。
黄泉の軛は主の全能の力によりばらばらに引き千切られ、ハリストスはその右の手でアダムを墓から起こしています。換言すれば、主はアダムの霊を、そしてそれと共に信仰の中に主の到来を待つ全ての人の霊を解放されたのです。(アダムとエワは、祈りの為に手を合わせている場合もあります。)
これが、預言者を筆頭に旧約の預言者たちがこの構図左右二組みに描かれる理由です。左側は、王の衣と冠を着けたダヴィド王とソロモン王、後ろに前駆イオアン…右側には、十戒の石版を手に持ったモイセイが居ます。黄泉に降った救主を見て、自分たちが預言しその到来を予告した主と彼らは直ぐに認め互いに主を差し示しています。
黄泉降りは、主の降下の道にあってハリストスがなされた最後の段階でした。「地の深淵への降下」の事実により、主は天国への門を私たちに開いて下さったのです。古きアダムそして彼に連なる全人類を、罪、暗黒と死の化身への隷属から解放することによって、ハリストスに結ばれ新たな復生の人となった人々に新しい生命を主は創設されたのです。
このようにアダムの精神的蘇りは、来るべき体の復活の徴として、ハリストスの復活の初実の果として黄泉降りの聖像に描かれるのです。それ故、たとえこの聖像は、聖大土曜日に記憶される出来事の意味を表現し、その日の奉神礼の為に捧出されても、続くハリストスの復活の祝いの、そしてそれゆえ将来の死者の復活の予象として、復活祭の聖像であり、又そう呼ばれるのです。
(L・ウスペンスキー『聖像の意味』より。
ある者が、死人の復活などはないと言っているのは、どうしたことか (コリンフ前書15:12)
復活大祭を迎え、私たち正教徒は「ハリストス復活!」「実に復活!」と呼び交わします。教会で、家庭で、あらゆる祈りが「ハリストス死より復活し、死を以て死を滅ぼし、墓にある者に命を賜えり」と、力強い復活の讃詞で開始され、結ばれます。
しかし、祝祭に浮かれ騒ぐ者をあざ笑うかのように、「死の現実」が私たちに襲いかかります。病気で、事故で、飢えで、戦争で…、死だけがどんな様々な人生にも共通な、人間の不変の運命に見えます。人は誰でも、最期には火葬場の煙、一握りの灰や土になって消えてしまう、突きつけられたこの「事実」に、立ち続ける力さえ失ってしまいそうです。
しかし、ひるんではなりません。ハリストスの復活と、その約束する全ての死者の復活を、まさに「見ないで信じる(イオアン20:29)」私たちを、滅びつつある悪魔が最後の力を振り絞って、「目に見える」死の事実で、追いつめ、打ちのめそうとしているのです。
「明日、地球最期の日が来るとしたら、君は何をする?」
学生時代、座興でこんなバカ話しを悪友たちとしたことがあります。美味い物を腹一杯食べるんだとか、…あとは、言うのもはばかられる浅ましいことばかりでした。「死んだら何も残らないんだ」、「一つの限りある人生を越えて、永遠に存在する意味や価値などどこにも無いんだ」、そう思って生きる人生は、この「地球最期の一日」の浅ましさを、何十年にも引き延ばして生きるようなものではないでしょうか?
私たちは、ハリストスの復活への信仰によって、この浅ましさから救い出されたのではなかったでしょうか? 人生にもう一度「YES」と言えるようになったのではなかったでしょうか? 「涙をぬぐいとって(黙示21:4)」何度でも呼び交わしましょう。
ハリストス復活!実に復活!
「あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている(イオアン16:33)」
「あなたがたは、なぜ生きた方を死人の中にたずねているのか」
(携香女の主日 説教 より)
十字架上で息絶えたイイススをアリマフェヤのイオシフはピラトに願い出て引き取りました。その日の日暮れから安息日が始まるので、主の遺体は大急ぎで墓に埋葬されました。墓と言っても当時の墓は、岩に掘られた大きな横穴であり、布で巻かれた遺体を中に安置して、重たい円形の岩を入り口に転がし蓋をします。
安息日が終わった、三日目、すなわち日曜日の早朝、イイススの女弟子たちは遺体に葬りの香料を塗るために墓に急ぎました。ところが墓につくと、既に岩は傍らに転がされ、墓は開いていました。女たちがのぞいてみると、そこには主の遺体はなく、かわりに真っ白い着物を着た若者の姿で天使が座っていました。天使は女たちに、ハリストスはよみがえって、もう墓にはいないと、告げました。
私たちの信仰の要であるハリストスの復活という事件の発端は、この、携香女たちの空の墓の発見と、天使による主の復活の知らせでした。
ところでルカ伝によると天使は主の復活を知らせる際、次のように問いかけました。
「あなたがたは、なぜ生きた方を死人の中にたずねているのか」
復活祭の聖歌にも、また毎主日の前晩祷の聖歌にも、「なんぞ生けるものを死者のうちにたずぬるや」と、この天使の言葉は織り込まれ、とても印象的です。死人の中、すなわち墓場をいくら探しても、復活してよみがえったお方イイススはいないという意味です。しかし、この言葉にはそれ以上に深い意味が込められているようです。
新聞や雑誌、テレビの広告やワイドショーを見て下さい。そこには、どうやったら、世間で成功できるか、どうやったら美しく魅力的に装えるか、どうやったらお金もうけができるか、どうやったら異性に好かれるようになれるか、どうやったら健康になれるか、どうやったらよい学校に進学できるか、どうやって職場や学校でライバルをけ落とせるか、まあキリがありませんので止めますが、要するに、どうやったら、「うまくやれる」か、「面白おかしく生きられるか」、この世の幸福を掴めるか、それを教える、またそそのかす、もっともらしい、でもいかがわしい情報に溢れています。
人生に対する深い確信が何もないまま、このような情報のがらくたの中に鼻をつっこんでいる姿は、まさに「死人の中に探す」すなわち、死んだようにしか生きていない人々の中に、自分自身死んだようになって迷い込み、何の生命の実感もないあやふやな生き方を、ああでもないこうでもないと、これは飽きたあれが面白そうと、果てしなくさまよう、この世の生き方を象徴しています。
それに対して、ハリストスのよみがえり・復活という出来事は、「あなたがたは、なぜ生きた方を死人の中にたずねているのか」という天使の言葉を通じて、「この世の人々の生き方の中には人のほんとうの生き方はない、主はそのご受難と復活によって私たちによみがえりを与えて下さった、そのよみがえりの生き方を、ハリストスの中に求めなさい、死人の中に、墓の中に、すなわちこの世の差し出すものの中に探していてはいけない」と、呼びかけているのです。
では、ハリストスの中に探すとはどう言うことでしょうか。
ハリストスの中に探すとは、まさに「ハリストスの体」である教会の中に探すことに他なりません。もっと正確にはこの聖体礼儀という集いの中に探すということ、いやむしろそこで体験するということです。聖体礼儀とは何なのか、簡単に振り返ってみましょう。
まず聖体礼儀で読まれる福音書は、十字架と復活によって「この世に勝った」ハリストスを伝えます。使徒の書簡は、クリスチャンの生き方を教えます。力強い祈りの歌は、私たちを創造し生命を与え善きもので満たされた神を讃えます。私たちの日々の働き、クリスチャンとしての生活の実りを、パンとぶどう酒として祭壇に捧げ、感謝を表します。神聖神(聖霊)の働きにより、私たちの献げものは、私たちのためにご自身を十字架へ捧げられたハリストスのお体へと変えられます。主のお体と血に変えられた私たちの献げものは、最後に私たちに与え返されます。領聖です。神との交わりの味わいが回復します。そして、何よりこの回復を、そこに集い神に生かされる、信徒の交わりのなかで互いの愛の味わいとして受け取るのです。もう、ひとりぼっちではありません。新しい生活が始まります。
死んだ者の内にはもはや「生命」は見つかりません。ハリストス復活!
昇天
さて、弟子たちが一緒に集まったとき、イイススに問うて言った、「主よ、イスラエルのために国を復興なさるのは、この時なのですか」。彼らに言われた、「時期や場合は、父がご自分の権威によって定めておられるのであって、あなたがたの知る限りではない。ただ、聖神(聖霊)があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう」。
こう言い終ると、イイススは彼らの見ている前で天に上げられ、雲に迎えられて、その姿が見えなくなった。
イイススの上って行かれるとき、彼らが天を見つめていると、見よ、白い衣を着たふたりの人が、彼らのそばに立っていて言った、「ガリラヤの人たちよ、なぜ天を仰いで立っているのか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイイススは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになるであろう」。(聖使徒行実1:6-11)
聖神降臨五旬節の日がきて、みんなの者が一緒に集まっていると、突然、激しい風が吹いてきたような音が天から起ってきて、一同がすわっていた家いっぱいに響きわたった。また、舌のようなものが、炎のように分れて現れ、ひとりびとりの上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語り出した。
さて、エルサレムには、天下のあらゆる国々から、信仰深いユダヤ人たちがきて住んでいたが、この物音に大ぜいの人が集まってきて、彼らの生れ故郷の国語で、使徒たちが話しているのを、だれもかれも聞いてあっけに取られた。そして驚き怪しんで言った、「見よ、いま話しているこの人たちは、皆ガリラヤ人ではないか。それだのに、わたしたちがそれぞれ、生れ故郷の国語を彼らから聞かされるとは、いったい、どうしたことか。…あの人々がわたしたちの国語で、神の大きな働きを述べるのを聞くとは、どうしたことか」。みんなの者は驚き惑って、互に言い合った、「これは、いったい、どういうわけなのだろう」。しかし、ほかの人たちはあざ笑って、「あの人たちは新しい酒で酔っているのだ」と言った。 そこで、ペテロが十一人の者と共に立ちあがり、声をあげて人人に語りかけた。
クリスチャンを導くもの 聖神
クリスチャンはハリストスのお示しになった生き方を生きる者です。頭の中だけでクリスチャン、また教会に来たときだけクリスチャンであるわけではなく、生活のあらゆる面でクリスチャンとして生きているのですから、実にさまざまな具体的な課題にぶつかります。ところが、その多くの場合、ハリストスの教えや戒めそれ自体から具体的な答えを引き出すことはできません。たとえば、本人の怠けから生活に窮している友人に、お金を貸すべきか突き放して努力を促すか、「隣人を愛せよ」という教え自体から答えは出ません。
そんな時、「天の王、慰める者、真実の神」(聖神降臨祭のスティヒラから)である聖神が私たちを導きます。
至聖三者のうち「父」と「子」はイメージがはっきりしているのに「聖神」だけは何だかわかりにくいと言う方がよくいます。聖神は独自の意志をお持ちになる「お方」であるにも関わらず、「あらざる所なき者、満たざる所なきもの」(同上)という独特のあり方を持っているからでしょう。しかし、だからこそ、そう、まことに「風」のように「空気」のように自由な方、変幻自在な形で、この世界のあらゆる場所、人生のあらゆる局面、私たちの思いや意志や感情のあらゆるひだの中に、入り込みしみ込んで、私たちを導く事ができるのです。
サーロフの聖セラフィムというロシヤの聖人は「クリスチャンの生活の真の目的は聖神を獲得することである」と言いきりました。聖神の恵みに満たされ、聖神の働きを内側から獲得し、聖神ご自身と同じように限りなく自由にのびやかに、そして澄み渡ったまなざしの明るさをもって、あらゆる所に神の働きの神秘や輝きを見いだし、共に生きる人々とゆったりしたくつろぎの中で喜びと愛を生きる、そしてその上、神秘としか言いようのないまばゆい光の中で神を体験する、これがクリスチャン生活の目的だと言います。
聖セラフィムが言うように、聖神を獲得するためには、聖神の入れ物として自分自身を清めなければなりません。腐った水がよどんでいる水瓶に清らかな水を入れるためには、腐った水を洗い去らなければなりません。これがなかなか大変なのです。熱心に祈ったり、斎をしたり、聖書を読んだり、施しや教会への奉仕という善行に励んで、自分を清めようと奮闘するのですが、気がついてみると気負い立っている「自分」がどっかりと瓶の中でふんぞり返っています。この「自分」がどかないと聖神が入れません。また、仮に手際よく瓶がきれいになると「待ってました」とばかりにサタンが自分の汚物をそこに流し込んでしまいます。「私はお祈りも斎も守り、教会への奉仕や善行に励んでいる、どうだ!」と思った瞬間、人を裁き、さげすむ高慢な偽善者・自己満足に酔う者に落ちてしまいます。
誰でもそうなります。自分の力でやろうとするから。でも心底自分の無力を悟ったとき、私たちは心の水瓶に清らかな水・聖神を満たす為の第二の道を知ります。まず最初に瓶の中の腐った水をかき出そうと奮闘するのはやめて、もうお構いなしに瓶の口から、じゃぶじゃぶときれいな水を注ぎ込んでしまうのです。いつの間にか水は入れ替わっているでしょう。ないしは、きれいな水のこんこんとあふれでる泉に腐った水の入った瓶もろともじゃぶんと飛び込むのです。どこでそんなことをすればいいのでしょう?どこにそんな泉があるのでしょう?
教会です。ともに祈りご聖体を分かち合う集いの中にあります。聖使徒パウェルは言っています「教会はハリストスの体であって、すべてのものを、すべてのもののうちに満たしているかたが、満ちみちているものに他ならない(エフェス1:23)」。教会には聖神が満ちみちています。主ご自身も聖神降臨祭の福音で「誰でも渇く者は私の所(すなわち教会)へ来て飲むがいい。私を信じる者は、その腹から生ける水(聖神の恵み)が川となって流れ出るであろう(ヨハネ7:37-38)」と言いました。教会を離れず、聖神の恵みの内に身をゆだねる。そしてご聖体を受ける、繰り返し受ける、どんどん受ける、その時、「私の力」でなく、神の恵みによって、私たちに聖神が満たされます。
聖神降臨祭とは、昇天の日のお約束通り、主の復活の五十日後ペンテコステの祭り(五旬節)に主の弟子たちの祈りの集いに聖神がそそぎ込まれ、聖神に導かれた教会がこの世界に向かって働きを始めたことを記念する祭りです。しかし私たちは単に過去の出来事だけでなく教会が「今も、いつも、世世に」人々に聖神をそそぎ、人々を真の自由、真の祈り、真の愛、そして真の喜びへと導き続けることを讃えるのでます。
参考「聖神降臨祭はなぜ聖三者祭か?」(「キリスト教をとらえ直してみたい方に」)もぜひお読み下さい。
聖神降臨祭の聖像
一致と多様性
(L・ウスペンスキー著「聖像の意味」より。「小見出し」は訳者による付加。)
聖神の降臨
昇天によって「ハリストスの肉体にある働きというよりむしろ地上での肉体を伴う滞在に関係する働きは終わり、聖神の働きが始まるのです(第41講話)」と神学者グリゴリイは述べています。聖神の働きは「父の約束(行実1・4)」の成就として、五旬節の日に於ける使徒達への神聖神の降臨によって始まります。祭日初日(日曜日)の至聖三者への奉事後、翌日教会はハリストスの使徒達に目に見える形で降臨した神聖神への特別な奉事を執行します。〔訳注…五旬祭は、「至聖三者祭」(日曜日)と「聖神(降臨)祭」(月曜日)、祭期一週間で構成されています。〕
神聖神の降臨が音響と一同の動揺を伴うと聖使徒行実(2・1〜13)は述べていますが、聖像はその逆――調和に満ちた秩序と厳密な構図を示しています。使徒達が身振り手振りで話している昇天とは対照的に、こちらでは使徒達の姿勢は聖職者としての冷静さを示しており、態度は厳粛さに満ちています。幾人かが話しているとはいっても互いに少し体を向けているだけで、使徒たちは着座しているのです。
内なる意味――至聖三者における調和
使徒行実の記述とこの聖像の構図との矛盾を理解するために、次のことを心に抱くべきです。聖像は信仰者に語りかけており、この出来事の関係者・教会の信徒に示されるもの――即ち「内なる意味」を表現しているのです。それは、使徒たちを「新しい酒に酔っている」と断言したような外面的で十分に経験を積んでいない人達がこの出来事に対して抱くものを表現しているのではないのです。五旬祭(ペンテコステ)は、火による教会の洗礼です。至聖三者に関する啓示の成就は、恩寵の賜物の充満した教会の生命と設立を表明する教会形成の最後の瞬間を表現しています。至聖三者の聖像が神の存在の神秘のしるしを示しているとすると、聖神降臨の聖像は教会と世界との関係における至聖三者の神的作用を表現しています。
「ハリストスの働きによらず(預言者や聖神降臨以前のハリストスの弟子達におけるように)聖神は先に存在しています。しかし、五旬祭の時ハリストスはそこに共生共存して確かにおいでになられるのです。」
(神学者グリゴリイ「第41講話」)
当日の奉神礼は、ワビロンに於ける舌の乱れ(訳注、創世記11・1〜9)と聖神降臨の日に於ける調和に満ちた一致とを対比させています。
「至上者は降りて舌を淆しし時、諸民を分てり、火の舌を頒ちし時、衆を一に集め給へり、故に我等同一に至聖神を讃栄す。」
(聖五旬祭コンダク 第八調)
地上の塔の建設中に舌の一致を失い散らされ人類はもう一度一致を回復すべきであり、教会の精神的建物の中に共に集められ愛の火で聖なる一つの体へと融合させるべきだ、と教会の師父達は言っています。
「このように分離せずかつ独特である至聖三者の像(似姿)に従い、ハリストスを首とし天使・預言者・使徒・致命者そして信仰の中に悔い改めた全ての人達を構成員とする聖なる教会は、その存在において一つでありながら人格(位格)において多様である新しい存在として形成されているのです。」
(大主教アントニイ)
至聖三者の像に於けるこの一致、神聖神の恩寵に満たされた一つの体である教会の内なる明瞭で正確な組織が、五旬祭の聖像において実に提示されているのです。皆で一定の形――半円形を形成する十二人の使徒達は、その構成員の多様性と共に教会の体の一致の美しい印象を示しています。ここに描かれる全ては厳密で荘厳な調子を示しています。そしてそれは使徒達が前景から後退するにつれてより大きくなるという「逆遠近法」で表現されていることでより強く強調されています。
彼らのグループ分けは、見えざる教会の首即ちハリストスの場所である人が座っていない一つの空席によって完成されます。それが、五旬祭の古代図像の幾つかが神の見えざる臨在の象徴として用意された宝座によって完成されている理由です。
図像の意味
幾人か(福音記者達)は手に本を持っており、他は教えの賜物を受けたしるしとして巻物を持っています。円弧は天国を象っており、その外側は板のへりを越えていっています。前駆イオアンの預言(マトフェイ3・11)に従い聖神と火による洗礼のしるしとして、また使徒たちの成聖のしるしとして十二本の光線もしくは火の舌が使徒達に降っています。時折、使徒達の頭上直接光背(後光、ヘイロー)上に小さな火の舌が置かれることもあります。これは、神聖神が舌の形において降ったことを現しています。(中略)
イオイル(ヨエル)の預言(イオイル2・28〜29)の成就として、神聖神はただ選ばれた十二使徒だけに降っただけでなく、「一緒に集まっている(行実2・1)」もの全て即ち全教会に神聖神は降った、と聖伝は伝えています。それにより、ここでの聖像で十二使徒には含まれない使徒パワェル(使徒の首座として使徒ペトルと共に座している)や、七十門徒に数えられる福音記者ルカ(左列上から三番目)や福音記者マルコ(右列上から三番目)が描かれています。
古代写本に於いては使徒行実で言及される群衆が構図下部に表現されていましたが、とても早い時期に民衆や諸民族を擬人化した「コスモス(宇宙)」の銘を伴う一人の王の象徴的姿に置き換えられました。この図像についての説明は、十七世紀の文献に見ることができます。
「(中略)この人は、全世界が信仰を持たずにいた暗い場所にいます。アダムの罪により年老い、歳月に屈伏しています。彼の赤い衣は悪魔の生贄の血を意味し、王冠は世界を支配する『罪』を意味しています。彼の手の白い布の上にある十二本の巻物は、教えによって全世界に光をもたらす十二使徒を意味しています。」
(N・ポクロフスキイ)
内なる生命の像
(中略)教会の生命・活動は、至聖三者の定理と根本的道に於いて結びついています。「本質において一つ、位において多様」という至聖三者の調和は、それによって教会が活動し地上で神の国を建設する道なのです。カノン的組織と衆ハリスティアニンの組織(教会共同体や修道院等)両者共、至聖三者一体の生命の地上での段階に於ける反映です。このように五旬祭祈祷に捧出される聖像両者(「至聖三者」と「聖神降臨」)は、その本質に於いて教会の内なる生命の像(イメージ)なのです。
変容
六日ののち、イエスはペテロ、ヤコブ、ヤコブの兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。
ところが、彼らの目の前でイエスの姿が変り、その顔は日のように輝き、その衣は光のように白くなった。すると、見よ、モーセとエリヤが彼らに現れて、イエスと語り合っていた。ペテロはイエスにむかって言った、「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。もし、おさしつかえなければ、わたしはここに小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのために、一つはモーセのために、一つはエリヤのために」。彼がまだ話し終えないうちに、たちまち、輝く雲が彼らをおおい、そして雲の中から声がした、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である。これに聞け」。弟子たちはこれを聞いて非常に恐れ、顔を地に伏せた。イエスは近づいてきて、手を彼らにおいて言われた、「起きなさい、恐れることはない」。彼らが目をあげると、イエスのほかには、だれも見えなかった
(マトフェイ<マタイ>17:1−8)
変えられ得る希望
(名古屋教会98年変容祭説教)
私たちは人間に対してある固定観念を持っています。残念なことに人間とは善いものだという固定観念ではなく、たいていの場合は逆です。人間の歴史に、その社会に、身近な隣人たちに、そして何より自分自身に、根深い悪を見ます。人間は、しょせん自分の利益や満足しか考えない「万人の万人に対する戦い」の状態にあり、倫理や道徳という精神的な価値も互いのエゴイズムが真正面からぶつかり合って、結果的に各人が損をしないための方便である、そういう固定観念に私たちはとらわれています。
そして、その固定観念が根拠のないまぼろしかといえば、残念なことに、むしろ現実です。旧約聖書はこの人間の悪の現実を容赦なく暴き出しています。
…しかし、それでもなお、それは固定観念にすぎないのです。
イイススもまた、弟子たちがそんな固定観念に落ち込むことを心配されました。
そこで、ある日、主だった三人の弟子を連れて高い山に登りました。その頂上で起きた出来事が「主の変容」という本日記憶する出来事です。
山頂に着いた時、弟子たちの前で、突然イイススの姿が変わり、その顔は太陽のように輝き、着物は白く光りました。動転する弟子たちは、雲に覆われ、その雲の中から、ハリストスが神の子であることを告げる、神の言葉が聞こえました。出来事は一瞬のことでした。主はいつもの姿に戻り、弟子たちに「恐れるな。ただ、私が復活するときまで誰にもこのことは漏らしてはいけない」と命じました。
やがて、イイススは、弟子たちを残して、十字架にかかることになります。
すばらしい先生、愛と希望と智恵に満ちたみことばを語り、多くの奇跡的なみわざで、苦しむ人を救い、飢えた人々を満腹させ、死者をよみがえらせたすばらしい先生、弟子たちが「あなたは生ける神の子です」と告白したお方が、この世の悪の力の前で全く無力に押しつぶされます。このとき、弟子たちが、一つの固定観念に逆戻りしてしまわないように、即ち、世界は何も変わらなかった、人間は何も変わらなかった、やはり悪の現実だけが唯一の現実だったという固定観念に逆戻りしないように、主は、やがて復活によって明らかになるご自身の輝きをかいま見せたのです。どんなことがあっても絶望してはいけない。今日見たことを心に刻みつけておくんだぞと。
このように、ご自身の真の姿を現して弟子たちを試練に備えさせた、その主が、私たちの内に、私たちと共に、今もいてくださいます。私たちにも、弟子たちと同じ体験をさせてくださいます。残念なことに、たいていの場合、私たちも彼らと同じように、その意味を悟らず、試練の時には試練に押しつぶされて、霊的な不感症に陥ってしまいます。ゲッセマネの園で、ご受難を前に、悪がその圧倒的な力を顕す時の前に、孤独に苦しみ祈るイイススを一人おいて眠りこけてしまった弟子たちと同じように、私たちも眠りこけてしまいます。やがてそんな体験はみんな忘れてしまいます。
でも、思い出さなければなりません。夫婦が、親子が、友人同士が、互いの愛と自由と信頼の中で光り輝いたことが、一瞬でさえも、ありませんか?その直後にかき消えてしまったとしても。
必ずあったはずです、また必ずあるはずです。それがなかったら人間は生きてゆけません。「クリスマスキャロル」の冷酷な老人、守銭奴スクルージでさえ、お金ではなく、愛によって生きていた遥か昔の自分を夢の中で思い出したんです。
それは、私たちが皆、神の像(かたち)、神様が、私たちに、かくあれかしと与えた神の似姿を内に宿していることの証です。私たちが皆、神の光輝で輝くべき存在であることの証です。また、やがてこの地上で実現し、たゆまずに神への道を歩み続けた者がやがて容れられる天国の、神の国の、輝きの先取りなのです。
「人間とはこんなものにすぎない」と考えてはいけません。確かに、私たちの力では私たち自身を変えてゆくことはできません。しかし神様にはできる。神様によって変えられ得る。
私たちは聖体礼儀でこの「神様にはできる」を体験します。…パンとぶどう酒が主の体と血に変わるでしょう。その体と血を受けて私たちも変えられるのです。私たちは、神の恵みの中にあるかぎり、また神の恵みの中でのみ、主の変容の光にふさわしいものに変えられていくことを、現実にこの主日の集いが、この聖体礼儀が光り溢れるものとされることによって、証するのです。
「主の変容祭」の聖像
(V・ロスキー著「聖像の意味」より。小見出し訳者付加)
「はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国が力にあふれ
て現れるのを見るまでは、決して死なない者がいる」(マルコ9・1)
〔参照…「人の子がその国と共に来るのを見るまでは〜」マトフェイ16:28〕
使徒ペトル、イアコフとイオアンが生涯を通して「わたしたちの主イイスス・ハリストスの力に満ちた来臨を知らせるのに」「ハリストスの威光を目撃した(ペトル後書1:16−18)」証人となっていることを、共観福音書の記述(マルコ9・2〜9、マトフェイ17・1〜9、ルカ9・27〜36)は明らかにしています。
変容の光・神のエネルゲイア
ハリストスの顔が「太陽のように輝き」服が「光のように白くなった(マトフェイ17・2)」のを見た時、そして「光輝く雲が彼らを覆った(同17・5)」時、三人のお弟子たちは何を見たのでしょうか。
ナジアンザスの聖グリゴリイによると、この光は山上でお弟子達たちに証かされた神性でした。ダマスクの聖イオアンは、この「神性の輝き」「神子のこの世ならざる光栄」に言及し、創られざる存在は被造物のイメージでは表現しえないことから、福音記者達による太陽の光との比較は全く不十分であるとしてます。それ故この問題は神のヴィジョンであり、リヨンの聖イリネイからモスクワのフィラレトに至るまで、ハリストスの変容の主題は教会の師父や神学者の思索を止むことなく生んでいるのです。
神の近づき難い「本質」と交流し得る神の「働き(エネルゲイア)」とに定理的区別をつける為、14世紀の公会(1341、1347、1351〜52年)では恩寵の正教的定義付けに特別の関心が払われました。聖グリゴリイ・パラマ(1359年永眠)は、完全合理主義神学者の攻撃に対して主の変容の伝統的教えを守ることに於いて、キリスト教の定理と精神性に於けるこの福音的出来事の重要性に真の価値を与える方法を良く理解していました。聖グリゴリイは次のように言っています。
「神はその本質によってではなく、働きによって光と呼ばれます。」
使徒を照らす光は知覚できるものではありませんが、その一方で、ただ比喩的に「光」と呼ばれる理解し易い現実として仮に見ることも出来ます。神性の光は物質的なものでも精神的なものでもなく、被造物の秩序を越えた「三つの人格に於ける一つの本性の神聖な輝き」なのです。
「主の変容の光は、初めも終わりもなく、たとえ眼を凝らしても見ることが出
来ず、時間と空間に於いて無制限であり続けます。しかし、感覚の変化によって
主の弟子達は肉体から聖神へと移ったのです。」 (講話第34)
ハリストスは使徒達に「自分を無にした僕の姿(フィリップ2・6)」ではなく、藉身(受肉)に於いても、父と聖神に共通な神性を分かち難く持ち続けた至聖三者の一つの人格として「神の姿」で現れました。ハリストスの神性の現れは、同時に至聖三者の現れでもあります。
「父は……その声で愛する子を証し、輝く雲を通して共に輝く聖神は、彼らの豊かさに属する全てと同じく、父と共に子が光を持つことを示しました。」 (講話第34)
初めにハリストスはその神性の光栄を、使徒達がこの光景の恩寵に与り得る最大限現され、その後、彼らの力を圧倒する「輝く雲」の光明を現されました。ハリストスは見えなくなり、弟子達は恐れて倒れました。
ハリストスの神性の光栄は「容るるに稱ひて」弟子達に現され、後に、彼らの主が十字架に掛けられるのを見た時「實に父の光」である方の受難は自発的以外の何物でもないことを弟子達は理解し得たと、師父の教えを総計する祭日のコンダク(7調)は告げています。(中略)
変容の図像表現の歴史
聖像表現に於いて、福音的出来事の直接的表現は、6世紀ラヴェンナの聖堂のような変容の象徴的表現にかなり早くから取って代わりました。
しかし、福音書は変容の二つの記述を提供しています。マルコとマトフェイに従うと、使徒達は神父の声を聞き輝く雲を見た後で倒れました。ルカに従うと、眠りから目覚めてハリストスの光栄を目の当たりにしています。
後者は、例えばカッパドキアのトカーレのフレスコ(9世紀〜10世紀)に見られ、使徒達は座って描かれています。この二つの所見は聖金口イオアンの註解に於いて−−ある者はうとうとしている中この光景に仰天する−−という具合に融合されました。コンスタンチノープルの聖使徒聖堂に於ける変容のモザイクは、この観点から描かれています。
使徒達の姿勢はまちまちです。しかし、11世紀から聖ペトルはいつも左手で支え跪きずき、光から自分を守る為右手を挙げて(ないしはハリストスに話しかける仕種で)描かれるようになります。聖イオアン(常に中央)は、光に背を向け倒れています。聖イアコフは、光を避けるか光に背を向けて倒れています。
図例の変容祭聖像
13世紀には、その光景に圧倒されて険しい頂上から大慌てで転げ落ちる使徒達の表情に富んだ姿勢の強調を目指す聖像がしばしば見られるようになります。この聖像表現の型は、タボル山の光に関する論争の時代である14世紀に一般的になりました。変容の光の創造せられざる特徴を聖像表現に於いて強調することが目的でした。
それは、ここに示す図例の聖像(ロシヤ、十五世紀)にみることが出来ます。聖ペトルと聖イオアンは膝をついて倒れており、聖イアコフは手で目を覆いつつもハリストスを見ながら仰向けに倒れています。
変容のハリストスは、モイセイとイリヤと話しながら山の頂上に立って描かれています。その衣は白く輝いています。マンドーラ(後光)の円の中に描かれている幾何学模様(ここでは六頂点の放射形)は、神の働きの超越的根源を啓示する「輝く雲」を表現しています。使徒達を指す三本の光線は、変容の働きが至聖三者一体であることを示しています。(生神女福音祭、神現祭はじめ他の聖像でもこの象徴はしばしば見られます。)
図例の聖像ではモイセイ(右側)が本を持っていますが、一般的には十戒の石版です。イリヤ(左側)は長い髪の長老として描かれます。聖金口イオアンは、変容の時にモイセイとイリヤが現れたことを説明する次の幾つかの理由を挙げています。
@律法と預言者を表現する。
Aシナイ山とカルメル山での神の神秘的顕現を表現する。
Bモイセイは「死」を表現し、火の車で天に挙げられたイリヤは「生」を表現する。
この最後の解釈は変容祭の祈祷文で強調されており、聖像表現でも時折見いだせます。16世紀から17世紀のネレジッツァの図像では、天使がモイセイを墓から起こし、他の天使はイリヤを雲から現れさせています。変容祭の終末論的性格を強調するこの主張には納得できます。ハリストスは、来世の光栄の中に来られる生ける者と死せる者との主として現れています。
変容は「主の光栄なる再度の来臨の先取り」であったと、聖大ワシリイは述べています。変容は、ちょうど良い時に来世の眺望を開いた契機だったのです。
自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよ…
(第15主日福音から マトフェイ22:35-46)
ニコライ堂みたいな大聖堂のお祈りが好きという方がいました。大聖堂の片隅のお気に入りのイコンの前で、美しい聖歌の響きに包まれていると、どんなにたくさん参祷者がいても、彼らの存在は背後に退き、まるで魂が天に昇っていき、神さまと一人向かい合っているようだと言うのです。反対に、地方教会の小会堂では、他の人たちの視線をいやでも意識してしまい、とてもそんな気分になれないとも仰いました。
これは、暗い堂内で仏像と向かい合って瞑目し、静かに手を合わせるという「敬虔」さを好む日本人には、ごく自然な感想かもしれません。人間は孤独なもの。その孤独な人間の一人一人に仏や神は、語りかけ、慰めを与え、平安をもたらしてくれる。孤独なまま…。
しかしハリストスは、「最も大切な戒めは?」と問われて「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』これが第一の戒め。第二は『自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよ』である。これは、第一の戒めと同じこと」とお答えになりました。神を愛するなら人を愛せ、人への愛を通じてしか神を愛することはできない、と言うのです。
しかも、ハリストス・神はお命じになっただけではなく、ご自身の愛を注ぐことによって、私たちに愛の可能性を回復してくださいました。愛は、つねに挫折し私たちを再び孤独に追いやる甲斐のない虚しい徳目ではなくなりました。人は愛し得る。ハリストスの愛のうちにいる限り。
聖体礼儀とは、愛に挫折ばかりしてきた私たちが、ハリストスによって、互いに愛し得るものとされたこと、孤独な「私」が再び「私たち」に集められたこと、すなわち私たちの「救い」を、心と声を一つに祈り、ご聖体を分かち合い、感謝する場です。
残念ながら、「神と一人向かい合う天上的な喜び」などというものは聖歌をBGMにした自己陶酔に過ぎません。クリスチャンの喜びは分かち合いの喜びです。クリスチャンの成長は分かち合いへの成長です。