教会への正教の理解 Fr.John Meyendorff  翻訳 松島雄一

1961年4月ボストンで行われた「カトリック系大学の教義学教師協会」の第7回総会で聖ウラジミル神学校教授メイエンドルフ神父が講演し、その総会の会議録に収められた論文。1962年、聖ウラジミル神学校の紀要(St.Vladimir's Quartarly '62 Vol.6 no.2)に同協会の許可を得て再録された。教会一致運動を進める世界キリスト教協議会への正教会の参加、始まりつつある第2バチカン公会議(1962-65)などを背景に正教会の教会論が語られている。現在、教会一致運動は大きな混迷期にあり、正教会内部にも参加を見直す動きが出ているが、正教会が教会一致運動へ関与する際の基本姿勢を振り返る意味で一読すべき論文である。(訳者)


 中世初期に起きたローマとビザンティンの教会分裂は、疑いなく教会史における最も悲劇的な出来事である。
 11世紀の分裂以降、東方教会はビザンティン帝国の政治的、社会的な機構にそれまで以上の完全さで自らを同一化していった。もちろんこれは、しばしば考えられているように、東方で「皇帝教皇主義(カエサロパピズム)」的な社会体制が確立したことを意味するのではない。むしろ東方のクリスチャンたちが教会を社会機構の圏外に存在すると思い描くことを実際上やめ、その後、教会的な地方分権主義や国家主義の様々な形態の下に服することになったことを意味する*1
 一方で西方では分裂以降、東方の伝統の重みを失うことによって、途方もなく大きな教義的かつ制度的な発展のうねりが生じた。正教会の歴史家は、このバランスを失った一方的な発展の中に、西方教会が被らなければならなかった様々な危機、とりわけ宗教改革という重大な危機の温床を見て取る。16世紀のローマ教会の様々な教義や制度への宗教改革者たちの抗議は、西方に初代教会にあった本来の真にカトリック的な教会論が保たれていれば避けられていたはずであると彼は信じる。

 11世紀の教会分裂*2は今や、はるか昔のことである。この分裂には純粋な教義的問題とともに、疑いなく政治的、社会的、そして文化的な要素が重要な役割を演じた。今日では政治的、文化的な状況は劇的に変化している。かつて東西を分けた対立と疎隔は次第に、しかし確実に失われていっている。ローマ教会は確かに世界中にあまねく存在し、正教会も私たちが「西方」と呼びならわしている地域にも存在し活発に活動している。特に合衆国ではそれは顕著である。両教会のクリスチャンたちは共に生活し、同じ言語を用い、同じ政治体制に服し、同じ文化に浴している。かつて両教会を対立させた歴史的、文化的な差異がたんなる考古学の領域に納まってしまう時が近づいている。しかしその時でも依然として残るのが「信仰の問題」である。それは中世において一貫して重大な問題であり、そして今日、教会の再一致へのまじめな試みが必ず最初に直面する問題である。

 ではこのへんで歴史から神学へ転じ、正教教会論の主要なポイントを示唆してみよう。

カトリックな教会

 信経*3によって私たちが、教会を「一つの、聖なる、公なる(カトリックな)、使徒の教会」と告白するとき、それは私たちの属する教会は人間的な制度や組織ではなく「ハリストスの教会」であることを意味している。ハリストスは一つの主であり、聖なるお方である。彼はあらゆる国々あらゆる時代のあらゆる人々を救い、そのお方ハリストスは使徒たちの証言によって私たちに知られている。「見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいるのである」(マトフェイ28:20)。このハリストスの現存はその「からだ」である教会において、また教会を通じて、そして聖神(せいしん)*4の力によって現実化する。パウェルが用いる「からだ」のイメージは明らかにユーカリスト*5の機密*6を背景に持つ。教会は、主がご自身の死と復活の記憶のために「主が来られる時に至るまで」(コリンフ前11:26)これを行えと制定した「主の晩餐」を祝う時、真に「ハリストスのからだ」である。ユーカリストの機密において、ハリストスと教会は真に一つである。この機密的な現実はイイスス自身が選び打ち立てたご自身の現存の様式である。御言葉が読まれ説き明かされるのはそこ、すなわちユーカリストにおいてであり、他の機密的なわざが行われるのもそこに結びついてであり、「使徒たちや預言者たちという土台の上に建てられたものであって、ハリストス・イイススご自身が隅のかしら石である」(エフェス2:20)真に「一つの、聖なる、公なる」ハリストスの教会が実現するのもそこにおいてである。

 教会についてのこのユーカリスト的な理解に立てば、ハリストスの名によって集うあらゆる共同体は「一つのカトリックな教会」である。アンティオキアの聖イグナティオス*7は紀元100年前後、スミルナの教会にあてた手紙の中できわめて明確に述べている。「ハリストス・イイススがいるところ、カトリックな教会がある」*8

 聖イグナティオスがはじめて教会をそう形容し、やがてキリスト教神学用語にとって予期しない財産となった「カトリック」という語の意味は、初代教会の教会論を理解するための一つの重要な手がかりである。西方では、この語は一般的に「普遍的」と理解されている。しかしそれがこの語の意味であるなら、「なぜ古代のラテン教会の翻訳者たちは信経を翻訳するに際してuniversalisを用いずにギリシャ語をそのまま用いてcatholica ecclesia としたのか」という疑問が残る。実のところ、注目すべき例外としてスラブ語訳があるものの(この部分に用いられるスラブ語sobornaia は「普遍的」を意味しない)、信経のあらゆる翻訳がギリシャ語をそのまま残している。この現象は、様々な言語への信経の翻訳者たちが、いかなる言語もkatholike の語を一つの言葉で的確に置換できないことに気づいていたことを示している。もしkatholikos が何が何でも「普遍的」と訳されるべきであるなら、それは地理的な意味(「全世界の」)ではなく、哲学的な意味での「普遍の」であることが強調されなければならない。
 教会に対して用いられる場合、「カトリック」は何よりも先ず「完全さ」を意味する。語源をたどれば、この語はkata meros「部分的」の反対のkatholon 「全体的」という形容詞に由来する。聖イグナティオスが「カトリックな教会」と言うとき、それはハリストスがいるところには目には見えないが彼の「からだ」が完全なかたちで存在することを意味している。これが後になって「カトリック」が、使徒の教えと「ハリストスにあっての生活」の規範の完全さを拒絶する分派また異端者に対して、「真の」教会を指すときに用いられるようになった理由である。教会の「カトリック性」とは教義的、宇宙的、そして道徳的な普遍性であり、たんなる地理的な普遍性ではない*9

 これらは、それぞれの主教のもとにユーカリストのために集う地域教会*10というものの性格を理解するにあたって重要な点である。この集いが「カトリックな教会」、「ハリストスのからだ」の完全さである。なぜならハリストス、教会の「かしら」は彼の弟子たちの間にあり、「ハリストス・イイススがいるところ、そこにはカトリックな教会がある」からである。地域教会は「ハリストスのからだ」の一部分ではなく「ハリストスのからだ」そのものである。そのことは機密のためのパンとぶどう酒を準備するビザンティン教会の儀式で、司祭が聖盂(せいう 聖なる皿)の上にハリストスご自身を記憶するために聖パンから「羔(こひつじ)」を立方体に切り出し、その周囲に生神女マリヤ、諸聖人、死者と生者を記憶して切り取られたパンの小片を並べてゆくときに最もありありと象徴される*11。このパンの中に全教会がその「かしら」と共に真に現存するのである。教会のカトリック性はたしかに地理的な普遍性を含む概念である。しかしその二つの概念は両立し得ない。もし「ハリストスのからだ」を1961年*12の全世界の教会と同一視すれば、その結果として全聖人、全死者を排除してしまい、目に見える社会機構へと教会を限局化してしまうことになる。

 個々の地域教会に機密的に完全な「ハリストスのからだ」が現存している一方で、すべての地域教会の普遍的な一致は依然としてカトリック性の本質的な要素である。その一致はどのように宣言され、どのように保たれているのであろうか。
 何よりも先ず、信仰と機密的生活の一致としてであろう*13。 教会史の早い時代から、新たに選ばれた主教には「正しい信仰」の告白が求められ、その告白は彼の叙聖のために近隣の教会からやって来た他の主教たちによって確認されなければならなかった。また主要な主教座の主教どうしは「交わりの手紙」を交換し合わなければならなかった。これらの手紙は全ての地域教会が使徒たちの信仰に対して共通の忠実さを分かち合っている「同一性」を表現するものである。*14 それゆえ全ての教会の信仰と生活の同一性という概念は正教会の教会論の重要な要素である。教会は本質的に、互いに補完的ではありえない。それはそれぞれの教会がハリストスの機密的現存の完全さを所有しているからである。しかし全教会は互いの内に同じ信仰、同じ完全さ、同じ聖なる生活を確かめ合うことができ、また確かめ合わなければならない。教会分裂はこの確認が不可能になる時、正教会が他のクリスチャンたちの共同体に同じ聖なる完全無欠さを認め得なくなった時に起こる。
 初代教会は神子の神性、ハリストスの二つの本性、その二つの意志についての果てしない教義論争を経験してきた。最終的な解決、正統性の回復はいつも互いの理解、支え合い、諸教会による互いの確認によってもたらされてきた。正教性の最終的勝利にはアレキサンドリヤ教会、カエサリア教会、コンスタンティノープル教会、またローマ教会が決定的な役割を果たしたかもしれないが、信仰の一致はいつも「公会議」によって公式確認されてきた。正教会は公会議を全教会の使徒的な真理への一致を表現する規範的機関であると今日に至るまで見なし続けている。正統的なクリスチャンのための最も高い教義的な権威は公会議であり、一つの特定の教会の声ではない。なぜなら公会議こそがハリストスがおり聖神によって導かれる教会すべての「合意」を表現し得るからである。

 しかしながら、公会議でさえも過ちを犯し、「偽公会議」として歴史に留められることがある。これは究極において、正教の教義的宣言がこぞって強調するようにハリストスのみが教会の「かしら」であり、教会へのその現存がご自身の民に対する神の奇跡的な忠実さを示していることの証左である。

使徒の教会

 キリスト教の信仰はまず第一にイイスス・ハリストスの死と復活という歴史的事実への信仰である。この事実はハリストスご自身によって指名された証人たちによって伝えられた。「あなたがたはこれらのことの証人である」(ルカ24:48)。使徒たちは常にこの証言を彼らの第一の責任、彼らの働きのまさに土台であると心得ていた。「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て手でさわったもの…を、あなたがたにも告げ知らせる。それは、あなたがたも、わたしたちの交わりにあずかるようになるためである」(イオアン第1公書1:1-3)。

 それゆえ使徒たちの働きは他の人たちが決してなし得ないものである。歴史上のイイススを知り得るのは彼らを通じて、すなわち「新約聖書」と呼ばれる書物にまとめられた彼らの文書、教会の聖なる伝承によって保存された彼らの口伝えの教えによる以外にはない。教会には使徒たちによって据えられたもの以外の他の土台はない。なぜなら「知恵と知識との宝が、いっさい隠されている」(コロサイ2:3)イイスス・ハリストスがその生涯の中で示した啓示以外に他の啓示はなく、かつあり得ないからである。真にハリストスの教会であるためには、教会は使徒的でなければならない。

 そのまさに本性によって、教会は人々互いの間への神の現存の新しいかたちである。その新しいかたちとは、ハリストス自身が打ち立てた機密的なかたちである。使徒たちが生涯をかけて行ったのは、彼らが宣教していったあらゆる地方にユーカリストの食事によって結ばれたハリストスを信じる者たちの共同体を打ち立てることだった。まさに最初の段階、エルサレムでユダヤ人信徒たちの共同体がペトルをはじめとする「十二人」に率いられていた段階を例外として、使徒たちは普通は地域教会の中で機密を執行する立場には立たなかった。聖使徒パウェルはコリンフ教会にあてて「ハリストスがわたしをつかわされたのは、洗礼を授けるためではなく、福音を宣べ伝えるためである」(コリンフ前1:17)と書いている。教会のまさに本性が、教会の機密的な本性から生じるもう一つの働きのかたちを求める。聖使徒行実と使徒たちの書簡が教えているように、使徒たちはそれぞれの共同体に「長老(司祭)」や「主教」を任命したのである。

 第1世紀の終わりには、いわゆる「君主的主教制*15」は教会全体の制度として受け入れられていた。それぞれの共同体はユーカリストを行うことを土台として成立しており、誰かが食卓の主人の位置につかなければならなかった。共同体は完全な「ハリストスのからだ」として、誰かが「かしら」の働きを担わなければならなかった。アンティオキアの聖イグナティオスもこう書いている。「たんなる人間的な生き方ではなくイイスス・ハリストスに従って生きるためには、あたかもイイスス・ハリストスであるかのように主教に従わなければなりません」(トラレス教会への手紙2)。主教は「機密的に」ハリストスご自身の働きを行う。主教は「かしら」であり、共同体は「からだ」である。主教の働きは本質的に使徒たちの働きとは区別される。それは本来、地域的であり、同時に機密的なものである。それゆえハリストスの死と復活という歴史的事実をあまねく世界に伝える証人という使徒たちの働きとは異なるものであった。しかしながら、リヨンの聖エイレナイオスによれば、教会に伝えられた使徒たちの使信は主教たちによって守られてきた。彼らは共同体における彼ら固有の働きのために与えられた「特別な真理の賜物」を持っているからである*16。使徒たちが全て世を去った後は主教たちが、個人としては個々の教会において、集団としては公会議において、キリスト教の真理の保持者として位置づけられた。主教の教えに関する、また教会統治に関する責任は明らかに神から与えられた機密的な賜物であるが、それらはその主教を選び彼がそれによって生命に結ばれた彼自身の共同体においてのみ行使され得るものである。主教の働きは教会の上からでなはく、教会の内で行使される力である。主教の責任は教会の使徒性と正統性に奉仕することである。ある意味で使徒たちは、ハリストスによって個々に選び出され任命されたがゆえに、教会の上に立っていると言い得るかもしれない。逆に主教たちは「ハリストスのからだ」それ自体に必要な機能を果たしているに過ぎない。彼らには彼らにしか証言できない特別な体験はなく、ただ全教会に属する使徒的な伝承を受け取り世に宣言するだけである。

 東西教会の中世から今日に至る主要な不一致の一つがここにある。ビザンティンとローマを対立させてきた教会論的な諸問題についての最も優れた書物はカトリックの学者、フランシス・ドゥヴォルニク神父の「ビザンティンにおける使徒性の思想と聖使徒アンドレイの伝説」についての近著である*17。神学論文の体裁をとることなく、この書は神学者たちに、初代教会の教会論についてのはかりしれない歴史的資料を提供している。この書の主要な結論の一つが、東方教会は「使徒性」が教会の権威の唯一の(ないしは主要な)規準であるという考えを一度も受け入れなかったことである。ここで「使徒性」とは特定の教会が実際に特定の使徒によって創立されたことである。東方の多くの教会がこの意味での「使徒性」を主張することができるだろう。しかしエルサレムも、アンティオキアも、エフェスも、あえて諸教会の中での首位性を主張したことはなかった。ただアレクサンドリヤとコンスタンティノープルがローマ帝国東方での二つの大都市に存在するという理由でそれを主張したにすぎない。それゆえ少しずつ西方で形をなしていったローマの排他的な主張については、ビザンティンの人たちはそれが帝国の古き首都の政治的重要性の結果として主張される限りにおいて理解し得た。これがカルケドン公会議(451年)に集まった諸師父たちの、コンスタンティノープル総主教区創設にともなって承認されたローマの首位性(公会決議28条)についての解釈であった。
 教皇の介入が必要かつ有益であると考えられた場合、東方の人たちは、西方へ宛てた手紙で聖使徒ペトルの役割にたまたま言及している場合もあるが、これらの言及はむしろ外交的な挨拶のたぐいであって、決してローマをキリスト教の真理の唯一の最終的判定者としてはっきり認めたというものではない。

 聖使徒ペトルとその「継承」について、最近になって何人かの正教神学者が研究してきている*18。それは疑いなく東西教会の関係にとって決定的な問題であるが、ここでは余り突っ込んで取り上げることはできない。しかし言っておかなければならないのは、この問題はもっと一般的な教会論的文脈の中でのみ決着がつく問題であるということである。私たちは、正教のクリスチャンにとって、――そして、同時に初代教会のクリスチャンにとっても同様であると信じるが――それぞれの地域のそれぞれのユーカリスト共同体は完全なハリストスの教会であったことを示そうと試みてきた。聖イグナティオスは主教の中に、また司祭団の中にハリストスと全ての使徒たちのイメージを見た。これがペトルの上に立てられた教会である(マトフェイ16:18)。すなわち、それぞれの地域教会はピリポ・カイザリアへの途上でペトルが告白した信仰を保っている限り、ペトルの上に立てられた教会なのである。そしてペトルは、教会分裂の以前以後を問わずあらゆるギリシャ教父たちの文書において、真の信仰の保持者としての主教たちすべての原型と考えられていた*19。さらに、実を言うと、3世紀のカルタゴの主教、聖キプリアヌス*20が「カトリック教会の一致」のなかで述べている「ペトルの座」の理論そのものなのである。たった一つの主教座しかない。ペトルの座である。それぞれの主教は、彼らの管轄するそれぞれの地域で、ペトルに由来する同じ主教の座を分かち合っているのである*21

 主教たちは、それぞれの教会の主教として、そして全体としての主教団として、彼らは教会に対して使徒的な伝統を伝える責任を負っている。しかし正教会はそれへの明確な従順が求めれるような、真理についての目に見え機械的に適用される規準を何も認めていない。主教の権能は教会に属し、教会の上から教会を支配するものではない。個々の主教、また主教の一団が異端に走ってしまうことはあり得るし、現実に何度も起きたことである。しかし教会は真理に留まり続けた。聖神が教会全体にあふれ、それぞれの一時的な人間的あやまちから使徒的伝承を教会に回復した*22。規準のこの欠如は、正教会がプロテスタント教会と同じように「聖書の個人的な解釈」を支持しているという意味ではない。教会の中に個人的なものは何もない。すべてが共同で行われる。純粋に自然的で人間的なものは何もない。すべてが機密的である。だからこそ教義的な問題は教会全体が分かち合う精神によって解決され、主教たちの機密的な教導権によって確認される。主教たちは公会議に集い重要な問題について話し合う。7回の全地公会議の決定は最終的、全世界的に拘束力のあるものとして受け入れられている。信仰についての他の同様に重要な点についてはより規模の小さい公会議で決定され、やがて全教会に受け入れられていった。問題とはならずに受け入れられてきた他の信仰の真理は、いかなる形式的定義もなされずに教会の聖なる伝統によって自明のこととして保たれてきた。

 正教会の教会論と全ての西方教会の教会概念との間にある、主要な、そして対照的な異なりの一つは、正教会には教会にいます神ご自身、ハリストスと聖神の他に、明快に定義され正確で永続的なものとされる真理の規準が欠如していることである。西方では公会議主義運動*23の崩壊の後に次第に発展していった教皇不可誤謬性の理論*24と、プロテスタントの反教会的な聖書唯一主義が対立したため、十六世紀以来、教会論上の問題の全てはこの対立をめぐってのものだった。正教会においては、「ハリストスのからだ」である教会が、主教職の使徒的な働きを通じて常に真理の規準であった。教会に真理が存することについて、第二世紀のリヨンの主教聖エイレナイオスによって与えられた表現ほど的確なものは他にないだろう。

教会の使信は何処においても一貫して、同じように堅持されており、私たちが示した通り、預言者たちと使徒たちとそして全ての弟子たちによる証しを有している。その証しは「最初と真ん中と終わり」を通して、すなわち神の救いの営み全体、つまり人間の救いをめざし、私たちの信仰に基づく堅固なわざを通して保持されているのである。そしてこの信仰を私たちは教会から受けて守っている。そしてこの信仰はよき壺の中にある特別優れた委託品のようなもので、神の聖神のおかげで常に新たになり、自分を入れている器をも新たにしている。この委託品は教会に委ねられた神の賜物であって、神が形成した人間に息を吹きかけたその息吹きのように、これに与る肢体を皆生かすためのものである。そして教会の中にはハリストスの交わりが、すなわち不死性の保証、私たちの信仰の確証、神への上昇のはしごである聖神が任せられている。「神は使徒と預言者と教師たち」、その他、霊のあらゆる働きを「教会に置いた」と聖書は言ってい。教会に集わない人々は皆、この聖神に与るものではなく、悪しき説と最悪のわざによって自らを欺き、いのちから遠ざけているのである。教会のある所には聖神もあり、聖神のあるところには教会と全ての恵みがあるからである。そして聖神は真理である*25

 教会は機密的な有機体であり、聖神は真理をそこに伝達する。そこには他のいかなる外的規範は必要ない。使徒の時代から今日までの教会の歴史的連続性はこの神の臨在の奇蹟、神の教会への忠実さの証しである。

 正教の神学者たちは教会における教義に関する最高権威について、不可誤謬な権威が全地公会に属すると断定する。しかし一方では全地公会の決議はすべての教会の合意によって承認されなければならないとも主張する。実の所は、この二つの主張の間には真の矛盾はない。「公会」も「合意」もともに同じ聖神によってその手段とされ、人間が作った法律的統治の組織ではないからである。教会には独裁制も民主制もない。教義の問題の解決は教会を上から治める権威にも、一般信徒たちの投票による多数決にもよらない。教会には一つに集う全世界の主教たち(全地公会議)以上の「からだ」は存在しない。あらゆる教義論争に最終的な裁断を下すのはこの「からだ」に他ならない。しかし同時にいくつかの非常に大規模な主教会議、たとえばアリウス論争時代の多くの会議、449年のエフェス会議*26などが実際にきわめて非正教会的な声明を発してきたことも知っておかなければならない。それらの会議の決定は教会全体にあふれる聖神によって拒絶された。聖エイレナイオスが書いているように、「神の聖神があるところ、教会がある」。初代教会の教義論争はもし教会が機械的で可視的な不可誤謬の機関を何らか所有していたなら起こり得なかったであろう。

 正教会の教義決定の問題への態度は教会論のこの側面にある。完全な真理への生きた交わりはまさに教会生活の本質である。それは他でもないハリストスご自身がこの目に見えない完全さであり、教会において、聖書において、機密において、宣教において、人々は組織的な教義体系にではなくハリストスに出会うからである。この完全さとの交わりへ近づくことは使徒時代とまったく同様に今も可能である。それはいつでも、ハリストスの復活の目撃者たちが証言してきたことに基づく同じ完全さである。それに何も付け加えることも、それから何も取り去ることもできない。神からの新しい啓示はもう来ない。神はすでに私たちにその御子において、ご自身の神的な生命と真実への交わりの道をお与えになっているからである。
 しかし使徒的な真理は全ての国民に対し、それぞれの言語で、あらゆる状況の中で表現され、宣べられなければならない。これが教会のなすべき仕事である。それゆえキリスト教の伝統は単なる使徒の言葉の繰り返しではあり得ない。それは生ける神の言葉の宣教であり告知である。それぞれの世代がこの生ける言葉に与る権利がある。それぞれの世代は、とりわけ、次々現れてくる様々な誤った教えについての生きた指導を教会から受けなければならない。ここで初めて教義的決定が必要となってくる。それはいくつかの公会議によって表明され繰り返されてきた。たとえば451年のカルケドン公会議では、集まった諸主教たちはそこで決定した有名なキリスト論的定理を宣言するに先だってまず次のように述べた。「神の恩寵についての賢きまた有益な定理(ニケヤ・コンスタンティノープル信経)は完全な知識と教えの確証のために充分である。なぜならそれは父と子と聖神に関する完全な教義を教えているからである」。それゆえ新しい決定はただ「ある者たちが彼らの個人的な異端説によって真理の教えを踏みにじること」を企てている場合にのみ必要とされる。

 それゆえ「教義的発展」と呼ばれるものを支えているのは、啓示された真理の生来の完全さを危険にさらす誤った教えから教会を守るという、消極的な必要性である。教会はこの種の永続的な信徒たちへの導きを、必要が生じるごとに正式な全地公会議を通じて、またその決定が結果的に全ての地域教会に受け入れられた地方公会議を通じて提供してきた。そこでの、使徒的な教えになじまない誤った教義決定を、暗黙の拒絶を通じて排除していったという場合さえもある。ここでもう一度強調しておきたい。教会は生きた有機体としてそれぞれの具体的な状況の中で最善ないしは唯一可能な手段を用いることが許される。最初の8世紀間に開かれた全地公会議は三位一体論的な、またキリスト論的な問題を解決してきた。それ以来様々な時に正教会は地方公会議を開き、恩寵の本性について(1341年、1351年、コンスタンティノープル)、西方キリスト教にどう対応するかについて(1258年、コンスタンティノープル、1672年、エルサレム)、奉神礼の問題について(1666年から1667年、モスクワ)、教会の秩序についてなど、様々な問題を取り扱ってきた。これらの公会議の決定のいくつかは奉神礼諸書の中に含まれ、事実上全地公会議の決定同様に正教徒全体がその決定の下にある。

 正教会は「教義的発展」についてローマ・カトリック教会とほぼ同様の概念を持っているが、二つの点で異なる。
 1)「教義的発展」の生じ方
 2)一つの教義が暗黙の内に教会によって支持される時
 これらがどうしても明確にされなければならない。正教の神学者は「教義的発展」はその必要が感じられたまさにその時に起きなければならないと主張する。たとえば正教の神学者はローマ・カトリックの神学者たちが1世紀から1870年*27までの間の「ローマの首位権」の漸進的な展開と成長を説明するにさいして「教義的発展」の概念を援用することは承知しているが、そんなに重要な教会論的教義が初代教会の神学論争の中でどのようにして「暗黙の了解」に留まり続けたのかは理解できない。初代教会においても、教会のよき秩序と繁栄のために今日同様にそれが必要だったことは明らかではなかったか。正教会とカトリック教会は互いの間にあるこのまさに死活的とも言うべき「教義的発展」の問題についてより深く対話していかなければならない。これは、将来の平和的な相互関係に最も必要とされるものの一つであろう。

結論

 ローマ・カトリック教会と正教会が新約聖書の啓示の一つの重要な側面に互いに同意し合う限り、教会論は事実上同じ重要な位置を占める。ハリストスは地上に一つの目に見える共同体を打ち立てた。それはハリストス自身の「からだ」として目に見えるものである。この共同体はハリストスに属するので分割され得ない。それは本質的に、本性として「ひとつ」なのである。しかし二つの教会は共に自らを、この一つの分割し得ないハリストスの教会であると主張している。
 この信仰と確信は今日、正教会を全てのクリスチャンの一致への責任ある関心へ向かわせている。クリスチャンの一致はたんなる人間の一致ではない。それはまず第一に神・人の一致、神における人の一致、神の現存の中での交わり、神から与えられるいのちの贈り物の分かち合いである。真の一致は神の真理の外、真実の教会の外では達成し得ない。多くの正教会の指導者や神学者たちをプロテスタント諸派の中から生まれ「教会一致運動(エキュメニカル・ムーブメント)」への参加に促しているのはまさにこの確信である。この運動は、一世紀前にプロテスタントの人々が自らを互いに切り離された無数の断片として見いだしたことに始まった、まさに預言者的、また革命的なと言わざるを得ない企てであるが、それに関心を寄せた正教会の指導者たちの目にはプロテスタントの人々の「真実の教会」への探求として映った。正教会が「一つの聖なる公なる使徒の教会」として真理を保持していると自己主張するなら、「真実の教会」を探求するこの運動から離れていることが一体可能だろうか。

 教会一致運動は二つの段階を経て展開してきた。第一段階の第二次世界大戦前には本質的に、教会の一致に関心を持つ個々人を主体とした運動に留まっていた。戦後、この運動は世界キリスト教協議会(WCC)の形をとった。これは諸教会が教会としてこの協議会の仕事に関与することを意味する。付則は正教会がこの運動に公式的に参加することを可能にするようなかたちで起草された。会員資格には特別な教会概念を信奉していることは示唆されておらず、教会論的相対主義が求められてもいなかった。反対に、トロント宣言(1950)は公式に、会員教会は必ずしも他の諸教会を、厳密な意味での「教会」と見なしていると想定はされないと明記した。正教会の代表者たちは彼ら自身の教会一致の概念を主張する権利を持っていた。エヴァンストン(1956)では彼らは報告書「信仰と職制」の採択を棄権し別の宣言を公開した。それは次のように主張している。

我々は教会一致の問題について考察するにあたって、教会の一致というものを他の何よりも明確に信仰全体、教会の機密的生活の基礎である主教を中心とした教会制度の完全な回復として確認しないわけにはゆかない。我々はこれらの分離した共同体を裁くつもりはない。しかしながら、これらの共同体において教会の完全さを創り出すいくつかの基本的な要素が欠けていることは我々の確信である。これらの共同体が古代教会の信仰、一致し分かち得ない7回の全地公会議に集った教会、つまり今や分裂したクリスチャンたちの先祖たちによる純粋で不変かつ共通の遺産に立ち帰ることのみが、すべての分断されたクリスチャンたちの熱望する再一致を生み出すことができると信じる。なぜなら共通の信仰へ一致しそれを分かち合うことだけが必然的結果として、唯一の「ハリストスの教会」の唯一にして同じ「からだ」の肢体としての機密の分かち合いと、愛の内にある切り離し得ない一致を実現すると信じるからである。
……報告書の中では、教会が一致回復のために歩まねばならない道は悔い改めの道であると示唆されている。ハリストスを信じる者たちの生活や証言の中には不完全さやあやまちがあった、また現在もあることは我々も認める。しかし教会そのものが、「ハリストスのからだ」、啓示された真理の受託者、聖神の働きそのものでありながら、人間的な罪によって影響され得るという考え方は拒否する。したがって我々は、本質的に聖にしてあやまち得ない教会の「悔い改め」ということは語り得ない。なぜなら「ハリストスがそうなさったのは、水で洗うことにより、言葉によって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、また、しみも、しわも、そのたぐいのものがいっさいなく、清くて傷のない栄光の姿の教会を、ご自分に迎えるためである」(エフェス5:26-27)からである。
……結論として、我々は聖なる正教会のみが完全で損なわれない「かつて聖徒たちに伝えられた信仰」を保持しているという深い確信を宣言しないわけにゆかない。それは我々の人間としての功績を誇るためではない。「その測り知れない力は神のもの」である「土の器の中に持っている」「宝」(コリンフ後書4:7)を保存することは神の喜びであるからである。


 正教会の代表者たちは彼らの教会概念が参加者たちの大多数にとってはまったくなじみのないものであるのを知っていた。世界キリスト教協議会へ参加して正教会が直面する大きな困難は、正教会とプロテスタントは必ずしもこの協議会そのものに同じ現実を見ていないことにある。多くのプロテスタントにとって、協議会はすでに終末論的な「一つの聖なる教会」の先取りであるのに対し、正教会にとっては、それは本質的に出会いと兄弟的対話の場である。しかしこの二つの考え方の対立が、いつの日か正教とプロテスタントを教会論における実りある対話へ導くかもしれない。

 ローマ・カトリック教会がこの大きなエキュメニカルな会合に不参加であることは、疑いなく、これらの集会に真のエキュメニカルな展望を開いてゆくことを困難にしている理由の一つである。正教会に関する限り、かつて「同一人者中の第一位者」であることを認めた西方の大きな姉妹教会の不在を看過することはあり得ない。
 ヨハネス23三世下のローマ教会に起きた一致の問題に対する最近の態度と雰囲気の変化は、正教会の多くの指導者と神学者に歓迎されている。特に現教皇にはお互いの理解へ希望を与えるある一つの姿勢が存在する。ローマ主教座への個々の地域主教の役割についての彼の関心である。この論文の中で示そうとして努力してきたのは、まさにここにこそ、両教会を隔てている主要な困難が存することである。
 
 正教会の教会論は、神が指名した一つの地域教会が他の地域教会とその主教たちへ及ぼし得るいかなる制度的権能も知らない。正教は、特定領域内での特定教会の首位性の存在を認める。また常に一つの教会、エルサレムの教会、ローマの教会、後にはコンスタンティノープルの教会が全教会の調停者の役割を演じ、訴えを受理するための、公会議によって設けられ合法化された権利を有し、事実上全主教の先頭に立つことが許されているという考えを承認する。しかしこの首位性はローマ教会ないしコンスタンティノープル教会の主教に不可謬性も全教会への管轄権も決して与えるものではない。共通の利益に関する紛争事項を解決するための「優先権」を与えるに過ぎない。

 現在の教皇が好んで彼自身の地位を「ローマの主教」、すなわち「主教たちの一人」として強調する事実、彼が公会議――1870年の決定以降、ある人々の言によれば、完全に消滅した機関――を招集したという事実、これらの事実全てがまさにこの私たちを分けている教会分裂の根源にある「教会論的な問題」が見え始めていることを示している。
 今日、正教会は執拗に次の問いかけを発し続けなければならないだろう。来るべきバチカン公会議が1870年のローマ教皇についての決定に対し、ローマ教皇の他の主教たちへの関係をより明確に定義することによって、均衡を回復することができるだろうか。
 公会議の成果が神のご意志への共通の従順の内に、私たちを互いに近づけるものになるよう祈りたい。


注 

*1原注 現代のビザンティン研究家たちは真の「皇帝教会主義」は東ローマ帝国にはかつて存在したことはなく、皇帝たち、とりわけイコン破壊運動後の皇帝たちは自分たちが教会の教義とカノンにつねに制限されていると感じていたことでほぼ一致している。(参照 G.Ostrogorsky, "History of the Byzantine State", New Brunswich,1957,9.195)  しかし教会と国家の間に確立した絆は多くの否定的な結果を生み、教会的国家主義の諸形態の起源となった。(参照 A. Schmemann, "Byzantine Theocracy and the Orthodox Church", St. Vladimir's Quarterly,Vol.T,n.2 1953, p.5-22)

*2原注 実際は両教会がいつ分裂したか、正確には確定しがたい。一〇五四年の総主教ミカエル・ケルラリウスとローマ特使との間に起きた葛藤は実際にはすでに壊れていた交わりを回復しようとする試みの失敗である。しかし一〇五四年以降でさえ東方と西方の聖職者が相互に聖体を分かち合った例は、歴史的資料に多く記録されている。ゆえに分裂は突然の分断ではなく、少しづつ信仰していった疎隔というべきである。

*3訳注 ニケヤ・コンスタンティノープル信経(信仰告白)。正教会では洗礼の時、また聖体礼儀の中で必ず唱えられ、信徒の「小祈祷書」にも「朝の祈祷」の中におさめている。正教会では、その権威は否定しないにせよ使徒信経は用いられることはまずない。

*4訳注 聖神(せいしん)は Holy Spirit の日本正教会訳。「聖霊」のこと。日本正教会の初代翻訳者たちは「霊」の字が「怨霊」、「幽霊」など霊的な活動の否定的な側を指すのに使われることを嫌って、「精神」などで使われる肯定的ニュアンスの濃い「神」の字を用いた。

*5訳注 ギリシャ語の「エフハリスティア」(感謝)の英訳。聖餐式、ミサなどと呼ばれるが、日本正教会は「聖体礼儀」と訳す。聖体礼儀全体を指す場合、後半の献げもの聖変化、領聖を中心とした「信徒の礼儀」のみを指す場合、さらに聖変化した献げもの(パンとぶどう酒)のみを指す場合もある。

*6訳注 機密はギリシャ語のミステリオン、そのラテン語訳サクラメントムの日本正教会訳。日本のローマカトリックでは秘蹟と訳す。

*7訳注 2世紀初頭に殉教したシリアのアンティオキアの主教。殉教の知ローマへ護送される間に各地の教会と主教に7つの書簡を
送った。

*8原注 「スミルナの教会への手紙」8:2

*9原注 たとえばエルサレムの聖キュリロスの「カテケシス」18:23を参照。katholikeの意味についてはG.Florovsky"Le corps du Christ vivant",La sainte Eglise Universelle ―Confrontation oecumenique, Neuchatel―Paris 1948 pp.24-34

*10訳注 地域ごとに目に見えるかたちで存在する個々の教会

*11訳注 この聖体礼儀の準備の儀式を「奉献礼儀」(プロスコメディヤ、プロテシス)といい、聖体礼儀の前段、また信徒たちの目には見えない第一の部分とされる。

*12訳注 この講演が行われた年

*13原注 J.Karmiris教授のこの問題についての優れた論文を参照のこと。Die Orthodoxe Kirche in Griechischer Sicht, herausgegeben von P.Bratsiotis,1 Teil,Stuttgart,1959,p.94-95 またJ.Meyendorff,"What Hold the Church Together?", the Ecumenical Review,Vol.13.1960,N.3,pp.296-301

*14原注 A.Schmemann,"Unity,Division,Reunion in the light of Orthodox Ecclesiology,"Theologia,22,Athens,1951,pp.242-254

*15訳注 "monarchical"episcopateの訳。

*16原注 「異端駁論」第4巻11:2

*17原注 Dumbarton Oaks Studies,W,Cambridge,Mass,1958; また次も参照のこと。J.Meyendorff,"La primaute romaine dans la tradition canonique jusqu'au concil de Chalcedoine,"Istina,1957,p.463ff.

*18原注 Articles by Bishop Cassian Besobrasoff in Istina,1955,no.3; by N.Afanassieff and Meyendorff in Istina,1957,No.4; by V.Kesich,J.Meyendorff,A.Schmemann and S.Verkhovsky in St. Vladimir's Quarterly,Vol.4,1960,No.2-3; N.Afanasieff,N.Koulomizin,J.Meyendorff,A.Schmemann in La primaute de Pierre dans l'Eglise Orthodoxe,Neuchatel-Paris,1960

*19原注 J.Meyendorff,"St.Peter in Byzantine Theology,"St.Vladimir's Seminary Quaterly,Vol.4,1960, No.2-3,pp.26-48

*20訳注 249年、カルタゴの主教に選ばれた。258年殉教。代表的な初期ラテン教父。

*21原注 キプリアンについて書かれた文書は膨大である。私はここではAncient Christian Writeres,no.25,Westminster-London,1957にあるM.Bevenot神父の最近の版とそこにある注解を参照した。

*22原注 この点については19世紀ロシアのA.S.コミャコフvとその学派の人たちが正しく強調しているところである。彼らのソボルノスチという概念はカトリックのスラブ語での同義語である「交わり」や「会議性」を意味するソボルナヤから派生したものである。コミャコフの教会論は正教の神学者たちに大きな影響を与え続けており、少々本来の形を失ってはいるが、救済論や機密論に統合されている。
*23訳注 中世末期から近世始めにかけて、増大する教皇の権威に対抗して教会の最高権威は「全地公会議」にあることを主張した運動。

*24訳注 教皇がその聖座から宣言した信仰上、道徳上の決定は誤り得ないとする理論。1870年の第1回ヴァチカン公会議で教義として宣言された。

*25原注 異端駁論第3巻24:1

*26訳注 エフェスの「強盗会議」をさす。単性論異端派の主教たちが強引に会議を誘導し、いったん破門された単性論派のリーダーエウティケスを復位させ、単性論に反対する者たちを追放し、参加者に暴力的に署名を強要し「ハリストスの単性」を宣言した。

*27訳注 1870年、第1回ヴァチカン公会議が開かれ、教皇の不可誤謬性の定理と、ローマ教皇の絶対的権威が宣言された。