カリストス主教 講演 第5回 後
イイススの祈りの実践

「イイススの祈り」の実践方法についてお話しします。一般的には二つの方法があります。自由に行う方法と体系的に行う方法です。

自由な方法は、毎日の仕事をしながら、あるいは無駄に過ごしそうな空き時間に何度でも唱える方法です。朝起きたら十字を描いてイイススの祈りを唱え、新しい一日を主イイススの手に委ねます。うつらうつらしながら何度でも唱えます。服を着ながら、部屋を掃除しながら、顔を洗いながら、歩きながら、いつでも唱えます。私は運転しませんのでオックスフォードではよくバスを利用します。オックスフォードのバスは私にたくさん祈りの機会を与えてくれます。バスが遅れてきても、「なんでバスが来ないんだ!」と癇癪を起こさないで、祈りの機会にします。こういうときは、すぐにできるシンプルな短い祈りが必要です。イイススの祈りや、ほかの短い祈りが適しています。あなたがバスでなく車利用者なら、渋滞は祈りのチャンスです。

イイススの祈りは会議のときも有効です。カウンセリングのときも役に立ちます。誰かと話をしていて、糸口が見つからないことがあります。そういうとき「一緒に祈りましょう」というと、相手を当惑させてしまうかもしれませんし、ふさわしくないこともあるでしょう。だから私は心の中で祈ります。不思議なことに、一回か二回イイススの祈りを唱えると、会話が変化するのです。

とても緊張したとき、心配でたまらないときに唱えるのもいいことです。痛いときにも唱えましょう。眠れないときには羊の数を数えないで、イイススの祈りを唱えましょう。自由方式の目的は、一日中私たちのすべての行動にハリストスを連れてくることにあります。「俗」を「聖」にするのです。アレクサンドル・シュメーマン神父によれば、「キリスト教徒とは、いつでも、どこでも、すべてのことにハリストスを見て喜ぶ者である」と言いました。イイススの祈りは、すべてにハリストスを見ることを助けてくれます。アグラファ(初代教会のクリスチャンによって書かれたもので、ハリストスのことばとされるが福音書には入れられなかったもの)のなかに好きなことばがあります。「石を持ち上げれば私に出会う、薪を割ると私はそこにいる。」すべての場所にイイススを見ます。すべての瞬間、すべての仕事にイイススを見るためには、短い、すぐに可能な祈りが必要です。イイススの祈りによって、仕事の時間と祈りの時間を合体させます。仕事の時間を祈りの時間にします。

隠修者聖フェオファン(テオファン)は「手は働き、気持ちと心は神とともにある」と言いました。とはいっても使徒イアコフの警告にも耳を貸さねばなりません。「そんな人間は、二心の者であって、そのすべての行動に安定がない(ヤコブ1:8)。」内的に分裂した二心になってはなりません。二つのことを同時にしようとしてはいけません。とても集中しなければならないときに、唱え続けようしてはなりません。私は会議の時はずーっとイイススの祈りを唱えていますが、今は皆さんにお話ししているので唱えません。二つのことが本当に一つになってできる人もいるかもしれませんが、私たちには無理です。「二兎を負うもの一兎を得ず」です。たとえば、心臓外科医は手術の前にイイススの祈りを唱えますが、手術中はちょっとした油断も取り返しがつかないことになりますから、手の動きに集中しなければなりません。イイススの祈りがあなたの中の深いレベルで確立しているのなら別ですが、そうでない限り、集中が要求されるときには控えましょう。
 
もう一つの用法、体系的に行う方法についてお話しします。こちらは朝夕の決まった祈りの時間の一部として行います。外的にも静かな環境を整え、しっかり心を集中して行います。アトスの聖シルワンは部屋でイイススの祈りを唱えるときには、まず時計をはずし、グルグル巻きにして押し入れの中にしまい込んで、チクタクいう音で邪魔されないようにしました。それから修道帽を目と耳がかくれるまで引っ張って、イイススの祈りを唱え始めたそうです。祈りの時間に体系的に行う場合は、普通はひとりで、部屋の扉を閉めきって唱えます。授洗イオアン修道院のようにグループで一緒に唱えるところもありますが、例外的です。普通はひとりで唱えます。

イイススの祈りは、歌うように唱えるのではなく、普通に言います。唇を動かしてはっきり発音する必要はありません。音にすることもありません。内に向かってことばをはっきり発するように教えられます。ことばが自分の中ではっきり形をつくるように言います。始めたばかりの段階で、ことばのない心の祈りに達したように思うのは危険です。それはとても稀な賜もので、何ヶ月も何年も努力した末に得られるものです。簡単に得られるなどと思い上がってはなりません。

誰でもあてはまるアドバイスとしては、自分の中で実際に行われている祈りの繰り返しに集中することです。ことばを繰り返さなくてもいいとき、祈りの中で憩えるときがあるかもしれませんが、だいたい短時間です。すぐに崩れるのを感じるので、祈りの復唱に戻ります。

一般的にはイイススの祈りは座って唱えます。アトスの修道院では、25センチぐらいの低いスツールに腰掛けてしゃがんだ姿勢で行います。私は、背もたれのある椅子に腰掛けてするようにアドバイスしています。もちろん、足を組んだりしないでください。不快に感じない姿勢がいいと思います。普通は目を閉じて唱えます。「座って、目を閉じて、同じ祈りを何度も唱えたら、そのうちに眠ってしまうことはないですか。」と聞かれるかもしれません。眠くなったら立ち上がって、イイススの祈りを唱えるたびに十字を描いて伏拝しましょう。30回も伏拝すれば眠気はなくなりますから、また腰掛けて始めます。初心者にはあまり長く唱えないように勧めます。10分か15分で十分でしょう。しばらくして、あなたの心が動かされたら、あるいはあなたの霊的な指導者が祝福してくれたら、長くしてもいいでしょう。でも、最初からやりすぎないようにしてください。
さて、イイススの祈りは決まった祈りの時間に行う体系的な方法でなく、毎日の中途半端な時間に自由に行うだけでも十分です。イイススの祈りに過大な期待をしてはいけません。イイススの祈りだけが唯一正教会のスピリチュアリティではありません。フィロカリアを見ても、「イイススの祈り」はフィロカリアを貫く大切な糸ですが、たとえば第1巻ではイイススの祈りについてはあまり触れられていません。多くのテーマの中の一つです。唯一の方法ではなりません。義務でもありません。「一番いい」祈りの方法とも言わないでください。「私にはとても役に立ちました。ほかの多くの人にも役に立ちました。だからあなたのお役にもたつかもしれません」と言うべきです。

イイススの祈りの用い方も、様々です。ある人々は、時に応じて自由に用います。別の人は祈りの中心ではないけれども定期的に用います。また、別の人は心に導かれて、また霊的指導者に導かれてイイススの祈りを生活の中心と心、個人的な祈りの中心におきます。色々なケースが考えられます。

さて、祈りの時間の一部としてイイススの祈りを行う場合、目的は「沈黙」を得ることにあります。最初に申しあげましたが、イイススの祈りは内的な沈黙「ヘシキア」、創造的な沈黙を得る一つの方法です。祈りの中で神に耳を傾けることを習得します。カーライルのお母さんの問い「どうやって?」への一つの答えです。ここにパラドックスがあります。イイススの祈りは「ことば」による祈りですが、「沈黙」の祈りでもあります。なぜなら、ことば数は少なくシンプルで、規則正しく繰り返されます。祈りはことばを通して沈黙へと私たちを導きます。ことばにある隠れた沈黙を見つけることを可能にします。沈黙とことばは互いに排除しあうものではありません。イイススの祈りにおいて、私たちは話していますが、聴いています。体系的にイイススの祈りを用いる方法は、神を待つ祈り、神を見つめ、聴く祈りです。

さて、私は子供のころ祈りについてのとてもよい説教を聞きました。「昔々、一日中教会にいるおじいさんがいました。友達が、『いったい一日中教会で何をしているんだい』とたずねると、おじいさんは『祈っているのさ』と答えました。友達は『たくさん神さまに願い事があるんだねえ』と言うと、『何もないよ』と答えます。友達は『では、いったい何をしているんだね』とあきれました。おじいさんは『座って、神さまを見つめているのさ。そうすると神さまは座って私を見ている』と答えました。」私は7才か8才でしたが、祈りの定義をうまく教えてもらったと思います。イイススの祈りを唱える場合にも同じです。私はただ座って神を見ています。神は私を見ています

これからイイススの祈りについて難しい面についてお話します。聖なる名前を唱える実践についてです。ポントスのエヴァグリオスが「祈りについての153章」で要約しています。フィロカリアの第1巻にある有名なことばです。「祈りとは思いをあふれ出させることです(71節)」。慮りを退けることです。内的な祈りについて述べています。

東方正教会でも時には用いられますが、特に西のキリスト教で行われる祈りに推論的観想discursive meditationという祈りがあります。福音書のできごとを一つ選んで、イマジネーションを働かせて、そのできごとを可能な限り生き生きと思い描き、その霊的な意味について思いを巡らせ、自分自身をあてはめ、現実的解決に達します。想像力を用いる推論的観想は、イグナティウス・ロヨラ、サルヴェのフランソワ、ルグオレのアルフォンスなど16−7世紀のカトリックの著述家が推薦しています。イイススの祈りとは随分違います。推論的観想が間違っていると言っているのではありませんよ。この方法も人を助けます。

イイススの祈りは、この観想と随分異なります。イイススの祈りでは、福音書の特定のできごとを考えません。イイススの言ったことばのどれかを特に取り上げません。神学的な真理について推論したり考えたりしません。「絵」を思い描きません。イイススの祈りで教えられているのは「完全な臨在の祈り」です。イイススの生涯の特定のできごとを考えるのではなく、救世主イイススの完全な臨在だけを思います。ですから、何らかのイメージがわき上がってきたら、「あふれ出してしまいなさい」と言います。あなた自身を、単純な臨在の感覚に集中させなさい。心がさまよい始めたら、中心に帰りなさい。別のことを考え始めたら、イイススへの呼びかけに戻ります。あなたの心をそうっと、しかしきっぱりと中心に戻します。イメージや考え、思いがわき起こってきたら、力づくで押し出すのではなく、あふれ出してしまいなさい。

陥落の結果、私たちは分裂してしまいました。自分自身を完璧にひとつの役目、ひとつの思いに集中することが難しくなってしまいました。完全に集中してひとつのことをするのは困難です。祈りの時も容易ではありません。これがイイススの祈りの目的です。分裂し散り散りになった状態から、単純さ、全体性へと自分を戻すことにあります。

フィロカリアの第1巻にある修道士マルコは「思考する頭脳は何もせずにいられない」と言いました。私たちの心は、あちらからこちらへと絶えず動き回ります。祈りの時、最初に直面するのは、このバラバラな思いです。聖フェオファンは「夏の夕暮れのハエのようだ」と言いました。祈り始めると、次から次へと色々な思いがやってきます。では、動きをやめない心に対してどうすればいいでしょう。心の中のテレビのスイッチをパチンと消すことはできません。「考えるな」というのは「息をするな」というようなものです。では、この動き回る心を、特別な仕事、シンプルで、一体化する仕事に集中します。聖なる名を常に唱えるのです。イイススの祈りを途切れずに唱え続けることは、私たちの心を、複雑さから単純さへ、分裂から集中へ、断片から統合へ向かうように助けてくれます。注意散漫から完全に免れることはできませんが、少しずつそこから離れていくことはできます。

大通りに面した部屋で友達と話しているとします。あなたは外の自動車の騒音がうるさいと感じています。しかし会話が面白くなってくると、外の音は気にならなくなってしまいます。話に集中するからです。外の騒音は相変わらずなのですが、そこに注目しなくなります。外の音は閉め出してしまったのです。意識からあふれ出してしまいました。同じことが神の憐れみと助けによってできます。イイススの祈りを中心におけば、気の散ることは相変わらずですが、騒音を心の中に入れません。

「すべてのイメージと思いを退けなさい」とアドバイスをされて悩んでいると聞くことがあります。考えまいとすればするほど、様々な考えがわき上がってきます。思いを取り除こうとするのは逆効果です。私は「否定的でなく、肯定的な作戦をたてましょう」とお答えします。取り除こうとするのでなく、達成したいものに集中するようにします。散漫な思いを押しやろうとするのではなく、主イイススに思いを集中しましょう。「考えまい」としないことです。主イイススが近くにいることを考えます。イイススは私の前にいる、私の中にいます。愛をもって、イイススが近くにいることを思いましょう。否定的でなく肯定的に。取り除こうとしないで、表の騒音と同じように、背後に追いやってしまいます。祈りの時、注意を救世主に向け、彼の愛を感じ、救いの恵みを感じましょう。

さて、イイススの祈りは人間性のどのレベルに訴えかけるのでしょうか。ギリシア語でファンタジアとよぶ想像力ではありません。推理的観想のように、思いやイメージを創らないからです。理論的な脳でもありません。イイススの祈りを唱えても、神学的な新しい発見や論争は何も出てきません。感情のレベルでしょうか。イイススの祈りは感じる祈りです。私たちは愛をもって救世主の名を唱えますが、そこには感情的興奮はありません。イイススの祈りを唱えるとき、内に向かって叫んだりしません。力を入れたり、はがいじめにしたりしません。自分の心と手を開いて、主の恵みを受け取ります。力ずくで握りしめるものではありません。そんなふうにしたら、祈りはさまよいだしてしまいます。イイススの祈りには深い愛がありますが、激情はありません。内に向かって叫ぶのではなく、やさしい流れのようにそっと流れていきます。英語でははっきりしませんが、ギリシア語やスラブ語では、祈りにリズムと音楽があります。またイイススの祈りは私たちの意志にも直接に働きかけません。問題を解決しません。思いを脇にやることはできても、問題を考えることをやめることはできません。イイススの祈りを唱えたあと、問題点がはっきりしてくることはあります。考えても問題は解決しないというのはよくあることです。しかしイイススの祈りはイグナティウス・ロヨラの観想の形のように直接意志に働きかけません。

さて、想像力や理論的な脳や意志のレベルに働かないとしたら、どのレベルで働くのでしょう。心のレベルで働くと思います。この連続講演の最初にお話しした心の深い部分に働きかけます。理性の脳よりもずっと深いところ、感情を越えたもっと深いところ、ギリシアの聖師父たちがヌースと呼んだところです。英語ではヌースをズバリ訳せることばがありません。Mindと訳されることもありますが、mindは心の働き全般を指すので漠然としています。フィロカリアでは知性と訳しました。しかしヌースは理論的な脳を意味しません。ヌースは理論的な脳を越えた、スピリチュアルなヴィジョンを指します。直感的です。仮定を立てて結論を導く三段論法の世界ではありません。イイススの祈りはしばしばヌースの祈りと呼ばれます。深い自己と霊的な理解が含まれます。この心の深いレベル、ヌースでは、私たちの頭脳による理解や直接の感覚を越えたことが起こります。イイススの祈りを唱えても、何も起こらないと感じます。特に美しさも感じないし啓発的なものもありません。来週の説教で使えそうな新しいアイディアも浮かびません。時間を浪費しているだけでしょうか。何日間、何週間とイイススの祈りを唱えていると、少しずつ、心の深み、ヌースが鍛えられ、教化され、照らされるのです。

最後に、イイススの祈りを唱えるときの外面的な助けについてお話ししましょう。まず、常に言われることですが、霊的な案内人を見つけることです。霊的な父、あるいは母、経験のある人、個人的な指導を与えてくれる人です。ケルトのキリスト教でアンチャラと呼ばれる「たましいの友」です。高い山に登るときには案内人がいるでしょう。イイススの祈りも同じです。道をよく知っている同行者です。しかし、そういう人が見つからないときは、謙遜にシンプルにイイススの祈りを唱えることができます。聖神の助けを祈り、イイススの祈りについての本を読みます。二つ目の助けになるのは、祈るためのヒモ、ギリシア語でコンボスキニオン、ロシア語でチョトキというひもです。毛糸やひもで編んだ結び目がついています。結び目はふつう100個です。皮やビーズのこともありますが、音をたてないようにひもでつくるのが一般的です。チョトキは修道院の伝統です。修道士になると、革のベルトと、イイススの祈りを唱えるためのチョトキが与えられます。一般の人が用いても全然かまいません。チョトキは祈りの数を数えるためのものではありません。回数は問題ではありませんから。霊父が何回唱えるようにと言うことがあるかもしれませんが、数そのものは目的ではありません。シリアの聖イサアクは「私は里程標を数えたいのでなく、婚宴の部屋に入りたいのだ」と言いました。チョトキを用いるのは、数を数えるためでなく、規則的にリズミカルに繰り返すのを助けるためです。祈りの時、手を使って何かをすることで、より集中でき、中断しなくなります。

三つ目の外面的な手助けは、祈りのリズムと呼吸を合わせることです。全体としては、霊的な指導者なしにこのテクニックを用いることはお勧めしません。しかし、一番シンプルなテクニック、前半で息を吸い、後半で息を吐くことならできるでしょう。「主イイススハリストス神の子よ」で息を吸い、「我罪人を憐れみ給へ」で息を吐きます。これ以上複雑な方法はエキスパートの指導者のもとで個人的な霊的指導を受けながら行ってください。イイススの祈りを呼吸に合わせるのは、体を祈りにとりこむ目的があります。祈りを私の呼吸と同じように、規則的で自然で、本能的な要素にするためです。私が「祈る」のではなく、私が祈りになるのです。もはや私ではなく、私の内にあるハリストスです。これがイイススの祈りの目的です。私の祈りはイイススの祈りと一体になります。

「どのくらいのスピードで祈ればいいですか?」ご自分のリズムを見つけてください。一般的に言って、急いではいけません。ギリシアの教会ではかなり速く唱えますが、私はロシアのようにもう少しゆっくり唱える方が好きです。一回祈るたびに小さなポーズ(休止)を入れます。あまり長くないポーズです。イイススの祈りと呼吸が結び合わされると、呼吸は通常よりもゆっくりになります。ある人は一分間に3回唱えます。100回唱えるのに30分です。初歩では10分で終わってしまいます。自分のリズムを見つけましょう。

こう聞く人がいます。「扉を閉めて、目を閉じて、『主憐れめよ』を繰り返すイイススの祈りは自己中心的で世界を否定していませんか。」答えの代わりに二つのことばを引用します。一つはサーロフの聖セラフィムで、「もし私が内なる平安を得れば、まわりにいる千人が救いを見いだす」と言いました。もう一つはダグ・ハマーショルドからです。国連事務総長をつとめた人です。「沈黙を通して理解し、沈黙から行動し、沈黙において克服する」と言いました。イイススの祈りの目的は、内なる平安を得る助けです。それによって、他の人のための人間となるのです。神の助けで小さな内なる平安を得ることで、毎日5分か10分扉を閉めて祈ることで、一日の、他のすべての時間を人のために提供することができます。自分を開くことができるのです。愛することができるのです。ハリストスのように。

イイススの祈りは人を自己中心的にするのではなく、自分を提供することができるようにします。ハマーショルドは沈黙から行動すると言いましたが、私が沈黙から話し、沈黙から行動すれば、私が他の人にかけることばが沈黙から出たことばになれば、それは火のことばとなり、癒し、変容することばになるでしょう。