カリストス主教 講演 第5回 前
イイススの祈りについて

キルケゴールは「もし仮に私が医者で、助言を求められたら『沈黙を作れ』と答える」と言いました。現代世界にはこういう医者が求められていると思いませんか。今日、沈黙の獲得は困難です。しかし沈黙は 私たちの内面生活の根本的真実であり、被造物の本質の深い源泉のひとつです。

フリードリッヒ・フォン・ヒューゴーは「沈黙によって何を行うか、そこに人間としての我々がある」と言いました。沈黙なしには真の人間ではあり得ません。純粋なペルソナとしての人間ではありえません。沈黙なくしては深さがありません。
ではどうやったら「沈黙」を獲得できるでしょうか。また「沈黙」とはどういう意味でしょうか。

ミラノの聖アンブロシイは有益なことばを残しました。negotium silenzium (negotiumはbusinessという意味です。) 沈黙は仕事、事柄、内容、目的に満ちていると言いました。真の沈黙は、ことばとことばの間の休止ではありません。スピーチを繰り返すことでもありません。真の沈黙は、否定的でも、不在でも、空虚でもなくて、肯定的です。不在ではなく臨在、空っぽではなく充満、孤独ではなく交わりです。「沈黙(hesikia)」は「交わり kinonia」と同じです。ヘシキアとはギリシア語で静寂、心の沈黙です。静寂は交わりを意味します。まことの沈黙は交わりの形です。沈黙は心に神が臨在することです。

沈黙の意味を知りたいとき、鍵になるテキストが第45聖詠10節にあります。「爾等止まりて、我の神なるを識れ」(静まって、わたしこそ神であることを知れ)沈黙の霊的な意味は「神を意識すること」です。沈黙は孤独を意味しません。自分を他人から切り離すことではありません。真の霊的な意味において、自分を開き、受容し、見張ることです。「沈黙」を言い換えるとしたら、「聴く」というのが一番よいでしょう。祈りや礼拝の中での「静寂」は、神に耳をすまし、神を待つという意味です。

学生の頃よく聞いたラジオ番組「グーン・ショウ」に、こんなのがありました。ある人が電話をとって「もしもし」「もしもし」と話しかけます。「もしもし、誰かいますか」「もしもし、あなたは誰ですか」と立て続けに聞きます。最後に「話しているのは誰ですか」と聞くと「おまえだ!!」と電話の向こうが答えます。「ああ、どうりで耳慣れた声だった」と電話を置くというオチです。祈るとき、自分の声ばかりで、向こうの声に耳をかたむけるのはなかなか難しいものです。私たちが内面に向かって祈りを探すとき、一番難しいのは「どうやって、自分がしゃべるのをやめて、耳をすますか」です。「静かにしなさい」それはわかりました。ではどうやって?どうやって、「聴く」ことを習得すればよいでしょうか。

何をすべきかを言うことは簡単ですが、どうやって成し遂げるかを言うことは難しいですね。19世紀、ヴィクトリア朝時代のトーマス・カーライルの話です。カーライルはある日曜日、教会からぷんぷん腹を立てて帰ってきて、母親に言いました。「なんて長い説教だ。もし私なら、あんなにくどくど言わない。善良な人々よ。みなさんは正しいことを知っているのだから、そうしなさい。以上。」すると母親は、「あら、トーマス。どうやったらいいか教えてあげないの」と答えました。そこが難しいところですね。

沈黙に入るためのひとつの方法をお話しします。「祈りのとき、どのようにして『聴く』か」という問いへの答えです。イイススの名を唱える「イイススの祈り」です。すでにご存じの方が多いと思いますが、私の経験をみなさんと分かち合いたいと思います。

「イイススの祈り」は古いけれど新しい祈りです。伝統的ですが、現代的です。この祈りのルーツは旧約聖書にあります。「神の秘密の名」に対する敬拝です。新約聖書、イオアン伝16章23-24でイイススは「彼の名において祈れ」と教えました。4世紀エジプトの砂漠の聖師父の霊性にもルーツがあります。初期の修道士たちは、アウグスティヌスが「矢の祈り」と呼んだ短い祈りを捧げました。短い祈りを矢のように神に捧げました。

イイススの祈りは古い祈りですが、現代的な祈りでもあります。現代、かつてなかったほど広範囲で祈られています。現代が俗的で背教的な時代だからというだけでなないでしょう。正教会では昔はイイススの祈りは修道の場だけで用いられていました。今日では、修道士以外の一般の人もこの祈りを愛しています。イイススの祈りが正教会内外でこれほどまでに尊重される理由は、いつでも、どこでも、だれにでも、どんな形でも、弾力的に用いることができるからでしょう。とてもシンプルで直接的な祈りの方法です。特別の知識や準備はいりません。しかし、観想contemplationの最も深い神秘に達する祈りです。内的な静寂の祈りです。同時にこの祈りは、緊張していても、ずたずたになっていても、肉体的精神的な苦しみにあっても、どんな状態でも祈ることができます。複雑な祈りが準備できない時でもイイススの祈りは唱えることができます。 ですから、今日のような不安の時代に適した祈りの形と言えます。

「イイススの祈り」とは何でしょうか。まず外面的な形から見てみましょう。「イイススの祈り」は短い祈願です。何度も繰り返します。ハリストスを救世主として名指して祈ります。イイススという名、私たちの主がベツレヘムで、マリアを母として、イオシフを養父として、生まれたときに与えられた「人間としての名前」を用いています。

「イイススの祈り」の標準的な形は英語では十語です。「主、イイスス・ハリストス、神の子よ、我を憐み給へ」ギリシア語では七語です。スラブ語も七語です。

この祈りには、聖書的な根拠があります。エリコへの途上で盲人のバルテミイが言いました。「ダヴィードの子、イイススよ、我を憐め。(ルカ伝18:35)」ルカ伝には彼の名は記されていませんが、マルコ伝(10:46)にあります。彼はイイススがダヴィードの子孫であることを知っていました。私たちはイイススが主、救世主、神の子であることを知っています。このバルテミイの祈りが「主、イイスス・ハリストス、神の子よ、我を憐れめよ」という祈りになりました。他にも色々なバリエーションが可能です。祈りとは生きているペルソナが他の生きているペルソナに対して会話することですから、堅苦しいきまりはありません。ですからイイススの祈りの場合も、長くすることもできます。「我を憐れみ給え」の代わりに「我罪人を憐れみ給え」と言うこともできます。税吏の祈り(ルカ18:13)が思い出され、いっそう痛悔の色合いが濃くなります。

逆に短くすることもあります。聖なる名を呼ぶ祈りに熟達した人の多くは、標準的な句では長すぎると感じるようになります。「主イイスス・ハリストス、神の子よ」を「主イイススよ、我を憐れめよ」と縮めることも、「我が主、イイススよ」、「我がイイススよ」と言うこともあります。もっと短くして「イイスス」だけを繰り返すこともあります。聖なる名前だけです。中世の西洋では一般にこのように祈られました。東方では、あまりこういう祈り方はされませんでした。多くの経験から「イイスス」の名だけでは集中しすぎで、あまりに力が強すぎると思われたからです。他のことばで希釈する必要がありました。

祈りの最後の「我を憐れめよ」の代わりに「我らを憐れめよ」ということもできます。祈りのパターンを天主経からとって、「我」ではなく「我ら」と祈ります。イイススの祈りの中心は「イイスス」という実際の名前を呼ぶことにあります。形は異なっても、「イイスス」の名を中心にした祈りは広い意味で「イイススの祈り」と呼ぶことができます。

「イイススの祈り」の伝統では、イイススという「名前」が機密的な力を持っていると考えられています。それがイイススの祈りの本質です。 名前はその名付けられた人(ペルソナ)との間を仲介します。名前を用いることで、その名のペルソナを実在させます。これは旧約聖書を通して貫かれているテーマで、キリスト教の伝統にも引き継がれました。名前には力があります。「イイススの祈り」はペルソナの臨在する祈り、ペルソナとしてイイススと出会う祈りです。

同時に、イイススの祈りにはダイナミックで力強いテクニックがあります。それは「繰り返し」です。効果的な「繰り返し」は一体化します。焦点を中心に合わせます。ですからイイススの祈りは「集中の祈りの形」と呼ぶことができます。

さて、外面的な形についてたくさんお話ししましたが、ここで内容について少しお話ししましょう。ハリストスはマタイ6:7で「また、祈る場合、異邦人のように、くどくどと祈るな」と言いました。イイススの祈りは主のこの非難にあたらないでしょうか。

イイススの祈りは「繰り返し」ですが、信仰と愛を持って唱えるから空虚ではありません。ことばの羅列を機械的に繰り返しても得られるものはほとんどありません。しかし、深い感覚を持って祈られればむなしい繰り返しにはなりません。イイススの祈りには、ことばの一つ一つに重みと意味があります。イイススの祈りは ただの多弁ではありません。正確で雄弁な信仰の告白です。

さて、イイススの祈りの内面の意味を探ってみましょう。ロシアの『無名の巡礼者の手記』にはイイススの祈りには、福音書全体を含むと書かれています。イイススの祈りにはキリスト教徒の体験する二つの重要なポイントがあります。敬拝と痛悔です。光栄と赦しです。イイススの祈りには二重の動きがあります。昇って、戻ってきます。私たちは「主イイスス・ハリストス神の子よ」と、神を崇めて昇り、「我罪人」と痛悔を唱えて自分に戻ります。二つのことばによって、神の光栄と人間の破壊を隔てる大きな淵、裂け目に橋がかかります。ひとつめは「イイスス」すなわち救いです。マタイ伝1:21「その名をイイススと名づけなさい。彼は、おのれの民をそのもろもろの罪から救う者となるからである」とあります。二つ目は「憐れみ」です。「憐れみ」ということばを陰気だと言う人がいますが、私はそう思いません。「憐れみ」は愛の行いです。愛は癒しを施し、和解と再生をもたらします。ですからイイススの祈りは陰鬱どころか、光と希望に満ちた祈りです。

イイススの祈りについての鍵になる著作を読めば明かです。フィロカリアの第1巻、シナイ山の聖ヘシキアスの章を見ましょう。イイススの祈りを知りたいと思ったらフィロカリアはよい入門書です。ヘシキアスは光と希望にあふれています。「本当に祝福された人とは、その気持ちと心がイイススの祈りに密着し、体にとっての空気、ロウソクにとっての炎のように、絶え間なくイイススの名を呼ぶ人です。太陽がのぼり昼の光をつくります。尊貴なる聖なるイイススの名は常に心を照らし、数え切れない知性を太陽のように作り出します。」イイススの祈りには、光栄と赦しがあることがわかります。敬拝と痛悔があります。

次にイイススの祈りは『至聖三者(三位一体)の祈り』として見ることができます。至聖三者は私たちクリスチャンの人生の中心です。至聖三者不在の祈りはありません。イイススの祈りでは、ハリストスは父の子として呼びかけられます。私たちは「子」に呼びかけながら、「父」へも呼びかけています。聖神ははっきり名指しされていませんが、イイススの祈りには聖神があります。鍵になるテキストのひとつは、「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』と言うことができない(1コリント12:3)」です。聖神があります。はっきりことばに表れていなくても、イイススの祈りは至聖三者の祈りです。
そして、この祈りの中心はハリストスです。救世主イイススの二つの本性を語っています。一つは、「主」「神の子」と呼びかけることで、その神性を語ります。藉身(受肉)のとき与えられた名前、「イイスス」という人間の名前を呼びかけることで、その人性を語ります。

イイススの祈りのこういう理解は大変重要です。イイススの祈りはただのテクニックではなく、「イイスス・ハリストスは神の子で、救世主である」という信仰告白です。気持ちを集中させ、リラックスさせるためのただのテクニックではありません。だからマントラ(真言・おまじない)をリズミカルに唱えるのとは異なります。ヒンドゥー教のマントラ(真言)をイイススの祈りになぞらえる人がいますが、不愉快です。1960-70年に超越的な瞑想運動が流行し、多くの人(大半がキリスト教徒でした)がマントラをグルから学びました。グルは弟子に短いマントラを繰り返すことを教えました。与えられたマントラは人によって異なり、通常弟子たちにはマントラの意味は教えられません。マントラ自体には意味がなく、瞑想的な状態を作り出すための単なるテクニックと言われました。実際、与えられたマントラはヒンドゥー神殿の小さな神々の名前であることが多いようです。マントラを唱えるとき、誰の名を唱えているのか意識されていません。キリスト教徒が象の神や猿の女神の名前を唱えるというのは変な話です。

イイススの祈りがマントラと全く異なるのは一目瞭然です。イイススの祈りでは、私たちは誰に呼びかけているのか知っています。この世では曇りガラスを通してぼんやりとしか見えませんが、少なくとも部分的には知っています。イイススの祈りでは、はっきりと自信を持って意識的に、他者に向かって呼びかけています。ペルソナとしてのことばをペルソナとしての救世主に向けます。私たちは神の子であって、人の子であるイイススに向かって話かけます。私のために変容し、私のために十字架にかけられ、私のために復活し、常に私の中に住むイイスス・ハリストスに対して、私の主よ、私の救いよ、と話かけます。このペルソナとしての告白がなければ、イイススの祈りは本物とは言えません。

繰り返しを用いて修養することは広く行われていますが、外面的にイイススの祈りとヨガのある手法が類似しているとしても、イイススの祈りの特徴はハリストスを名指して呼びかけることにあり、全く別物です。

さて、後半はイイススの祈りの用い方についてお話ししましょう。どのように実行したらいいかお話します。