カリストス・ウエア主教 講演 第1回 後
「内なる心の王国について」The Inner Kingdom of the heart.
ここまで「私は誰か」についてお話ししてきました。キリスト教徒の基本的な人格(ペルソナ)理解です。さて次に、「心」というテーマについてお話ししようと思います。今朝の講義でも「心」ということばが頻繁に使われましたが、ここでは「心」とは実際何を意味するかについて考えてみましょう。
シリアの聖イサークのことばを引用します。「あなたのたましいを平安にしなさい。そうすればあなたと共に天も地も平安だ。あなたの内にある宝の家に入ろうと務めなさい。そこに天国を見るだろう。入り口はひとつ。神の国へのハシゴはあなたのたましいの中にある。罪を離れ、あなた自身の内に、あなたのたましいの内へ飛び込みなさい。そうすれば天へのぼる階段が見つかる」。聖イサークは、私たち一人一人の内に秘密の宝の家があることを教えています。私たちの王国はびっくりするほど深く多様です。驚きの場所、喜びの場所、光栄の場所、出会いの場所です。この王国をなんと呼びましょうか。「心の王国」というのはいかがでしょう。
「心」は洋の東西を問わず、またキリスト教徒であるなしにかかわらず、スピリチュアリティ(霊性)の基本をなすことばです。東方正教会の信徒にとって「油断することなく、あなたの心を守れ」(箴言4:23)は基本的なテキストで、フィロカリアなどの書物にもしばしば見られます。しかし「心」とは理解の難しいことばです。「心は深い」(詩篇64:6)。
元ウインザー大公女、アメリカ人になったシンプソン夫人の自叙伝から話を始めましょう。自叙伝の題名は「心には理由があるHeart has its
reasons.」でした。彼女がパスカルの「心情は理性の知らない心情自身の理由を持っている(松浪信三郎訳)」から引用したのは確かです。パスカルが「心」をどうとらえているかは簡単には述べられませんが、元大公女が「心」といったのは感情、感覚、愛情のことで、いささかわがままで気ままな感情のことをさしているのはすぐわかります。
「心」の本当の正しい意味を知るのには、もう少し深く考えねばなりません。ここで、私の大好きな文章をとりあげます。私の霊的師父であったロシア人司祭ゲオルギイ・シェレメティエフ神父のお気に入りのことばでした。サン・テグジュペリの『星の王子さま』です。
「じゃ、さようなら」キツネがいいました。「さっきの秘密をいおうかね。なに、なんでもないことだよ。心で見なくちゃ、ものごとはよく見えないってことさ、かんじんなことは、目に見えないんだよ。」(内藤濯訳、岩波少年文庫)
心は感情や情念ではありません。洞察するところです。見るところです。
次に、CGユングの『ユング自伝――思い出・夢・思想』*を見ましょう。アメリカン・インディアンのオッチェゥヴィアノとの会見記録です。オッチェゥヴィアノは「ご覧下さい。白人はなんと残酷な姿をしているのでしょう。唇は薄く、鼻は鋭く、顔の形は歪んでいます。目つきが悪く、いつも何か探し回っていて、落ち着きません。彼等が何を欲しがっているのかわかりません。彼等は狂っていると思います」。ユングは「なぜそう思うんだね」と尋ねます。「彼等は頭で考えるからです。私たちはここで考えます」と心(心臓)を指しました。オッチェゥヴィアノにとって心は思考の中心、知恵のある場所でした。私たちのように頭と心を二分して考えません。
*参考『ユング自伝――思い出・夢・思想』(出井淑子訳みすず書房 1972/3)この翻訳はテープから。
さて聖書に戻りましょう。新約も旧約も、聖書はこのキツネやオッチェゥヴィアノと同じように考えます。頭と心を分けません。心は感情や感覚だけを意味するのではなく、聖書においてはもっと下の方の内臓を指し、人間全体の霊的(精神的)な中心を意味します。洞察、視野、知恵のある場所です。
聖書のテキストを見てみましょう。
「あなたの宝のある所には、心もある」(マトフェイ6:21)。心は私たちの第一義的な目的や希望を形作るところ、心は人生の目的を表し、私たちの態度や行動を決定します。この意味では人の道徳的な中心と言えます。聖書で「心」と言われているものは、現代では「良心」「意識」ということばに言い換えらることが多いようです。
「マリヤはこれらの事をことごとく心に留めて、思いめぐらしていた」(ルカ2:19)。
心は思いめぐらすところです。記憶を思い返し、自己認識するところです。しかし聖書を読むと、ハリストスが言ったように「悪い思いは、心の中から出てくる」(マトフェイ15:19)、人が罪に堕ちたために、心は深く不可解なものになりました。聖使徒パウエルは「神は、彼らが心の欲情にかられ、自分のからだを互にはずかしめて、汚すままに任せられた」(ロマ1:24)と言いました。心は私たちが悪の力や罪と出会うところです。しかし同時に、神と出会うところ、神の臨在の働くところ、私たちが恩寵を見いだすところでもあります、超自然のものが住まうところです、神は「人の心を探り知り」(ロマ8:27)ます。聖神(せいしん)の宿るところと言えるでしょう。「神はわたしたちの心の中に、『アバ、父よ』と呼ぶ御子の霊を送って下さったのである」(ガラティア4:6)とあります。心ということばには随分広い意味があります。心は私たちの中がどんなに深いかを表しています。心は人の人格(ペルソナ)をスピリチュアルなものとして見ます。人は神の像と肖として創られました。
インドに住んだローマカトリックの著述家、インド名はアヴィシクトナンダ、フランス名はアンリ・ルソー(ベネディクト派)は「心は私たちのみなもと、神の手から来たたましいが目覚めるところ」と美しく定義しました。心は私たちが目覚めるところです。
心は人の人格(ペルソナ)を全体として、分かちがたい一体として見ます。心は「あなたがたの内なる人」(エフェス3:16-17)と呼ばれ、私自身の中に居る人間を表します。ハリストスが「心をつくし・・・・・主なるあなたの神を愛せよ」(マトフェイ22:37)と言うとき、単に感情や愛情を指しているのではなく、「あなた全体で」愛することを求めているのです。「彼らの肉から石の心を取り去って、肉の心を与える」(イエゼキリ11:19)といわれるのは、すべてが霊的に刷新され、私たちがまるごと変わることを意味しています。「わが子よ、あなたの心をわたしに与え」(箴言23:26)は「あなた全体を与えよ」という意味で、前述した「油断することなく、あなたの心を守れ」(箴言4:23)は、「あなたの内なるいのち全体を見張れ」と言うことです。神から賜ったあなた自身、神を源とするあなた自身を知りなさい。最初に引用した「心は深い」とは人格(ペルソナ)性は元来深い神秘だという意味です。
心とは神の創造された人格(ペルソナ)を意味します。心は統合された全体のシンボルとして用いられています。聖書においては、心はひとつに結ばれた人間を全体を意味し、そこにはたましいと体を二分する考え方はありません。聖師父(教父)の著作には、時に「たましい」に力点をおいて人格(ペルソナ)性を見、頭と心にはっきりした線引きをして、聖書よりもプラトン主義に影響された見方で人格(ペルソナ)性を理解したものもあります。しかし大多数のギリシアの聖師父は心を「全体」とする聖書的な見解を取っています。
たとえば、聖イオアン・クリマコスの「天国への梯子」の28章を見てみましょう。「『私は心から叫んだ』(聖詠119:145)。すなわち、身体、たましい、霊(~°)によってということである」。心は体を意味します。心(心臓)は肉体的器官ではありますが、同時に精神的スピリチュアルな中心です。
ここで4世紀の聖マカリイの説教から引用しましょう(第15説教)。「心は体全体の器官を治めている。心の広がりが恩寵に満たされたとき、体のすべての肢体と思いを治める。なぜなら、心には知性、たましいのすべての思いと希望があるからである。このようにして恩寵は体のすべての肢体に浸透する。」
まず、マカリイは心の治める広さについて話します。血液の循環が発見されたのは17世紀のことで、私たちは心臓をポンプだと理解していますが、昔のキリスト教著述家は心臓を「入れ物」「空間と空気のたくさんある空っぽの器」と考えました。次に、心は体全体の器官を治める、身体的中心だと言いました。心臓が止まれば死んでしまいます。さらにマカリイは心には知性があると言いました。これはギリシア語で「ヌース」と言います。ヌースについては後で詳しく述べましょう。
マカリイはオッチェウヴィアノと同じように「私たちは心で考える」と言いました。別の箇所では、「知性は心の目」であると述べています。知性は心に視野と方向性を与えます。さらに、心を通して体の全肢体に恩寵が行き渡ると言います。心は霊的中心、恩寵を体験するところ、また神と人が出会うところ、霊のものと肉のものが出会うところです。
さて、マカリイの説教に戻りましょう。「心は測りしれないほど深い」。聖書や聖師父の書物で言う「心」は今の用語では「無意識」に当たります。「心は計り知れないほど深く、そこには、応接間や寝室、扉やポーチがあり、他にもたくさんの仕事場や廊下がある。そこでは義の集会も悪の集会も行われる。死にあるものもあり、いのちにあるものもある。」
心がなぜ道徳的中心なのかおわかりでしょう。心では義と悪、死といのちが存在し、せめぎ合っています。心はハリストスの宮殿です。王であるハリストスが天使や聖人たちのたましいともに憩い、王国を築きます。心は小さな器ですが、竜や獅子、毒をもつ生き物、悪の財宝、荒々しい悪の力もそこにいます。道はデコボコで大きな裂け目がぱっくり口を開けています。しかし神もいます。天使もいます。いのち、王国、光、そして使徒たちが席座し、恩寵の宝があります。すべてがそこにあります。
マカリイの説教が語るように、心はすべてのものを含んでいます。心はミクロ・コスモスとしての人格(ペルソナ)性を表しています。荒々しいデコボコ道で、裂け目が口を開けています。心は私たち自身の十分に意識されない、無意識の世界を含みます。神のようです。心は神の住まうところです。ハリストスの宮です。心は自己を超越した場所です。
心は両側に開いています。一方は無意識の奈落に、もう一方は神の恩寵の淵に。心は出会いの場所です。体と心、たましいと霊、無意識と意識、意識と意識を超越するもの、人間の自由と神の恩寵、理解できるものと理解を超えるもの、被造物と非被造的なものが出会うところです。これは心の意味のごく一部です。心は深い。ですから内なる心の王国への冒険は一生かかる仕事です。この仕事は今の人生だけではなく、栄光から栄光へと続く終わりなき旅です。道はいつまでもいつまでも続きます。心の旅のまぎれもない真実です。