カリストス・ウエア主教 講演 第1回 前
「私は誰?」"Who am I?"
今回の講演を通してのメイン・テーマは「私は誰ですか?」です。
私たちはたいてい、「自分は誰か」など聞くまでもないと思っています。しかし、ときたま自分が自分であることを証明できずパニックに陥ることがあります。
こんなことがありました。イギリスの税務署です。私は以前、所得税を俗名の「ティモシー・ウエア」で申告していましたが、税務署から「カリストス主教」という人が同じ住所に住んでいて一度も税金を納めないと苦情が来ました。そこで私は名前をカリストス主教にして納税しました。ところが今度はティモシー・ウエアが納税していないといいます。もし、あなたが二人の人物なのに、税務署がひとりだと言うのなら、税務署員に二人のところを見せればいいですが、実際にはひとりなのに、税務署が二人だと言い張るときはどうやって証明しますか。この問題は未解決です。
別の例です。アテネで学会がありジョン・マイエンドルフ神父と話していました。そこへ、パリの聖セルギイ神学院の講師アレクセイ・クナーゼ神父がやってきたので、マイエンドルフ神父は私を彼に紹介してくれました。ところが彼はびっくりした顔をしてメガネをかけ直し、「あなたは、カリストス神父さんではありません。(当時は司祭だった)」と断言しました。私は初対面の人に「カリストス神父でない。」と言われてぽかんとして、「いえ、私がカリストスです」と答えました。彼は「そんなはずはない。」と言いました。そこで「なぜそう思われるのですか」と尋ねました。アレクセイ神父は「私は彼の著作をたくさん読みました。25年も前に書かれたものです。それを読めば彼がとても年寄りであることは明かです。」アレクセイ神父は踵を返して行ってしまいました。マイエンドルフ神父さんはこの会話をおもしろがって見ていて、全然助けてくれませんでした(笑)。
私たちは「自分が誰なのか」知っていると思っています。しかし実際、十分に深い意味で「自分が何ものなのか」知っているでしょうか。
正教会の人間理解にとって第63聖詠(64詩篇)は重要です。「心は深い(心の深きところに至る)」(64:6)。今回5回の講演のテーマにこれを取り上げたいと思います。「心は深い」とは人間が深い神秘であるということです。自身の中がとても深い、あるいはとても高い。しかし、私たちはほとんど理解していません。
私の大好きな作家C.S.ルイスは『愛はあまりにも若く(Till we have faces)』という小説で人の人格(ペルソナ)は神秘だと語っています。「自分が誰なのか」ということを私たちは実に知らないということがこの小説のひとつのテーマです。「私は誰ですか?」「全くよくわからない」というのが答です。
人の人格(ペルソナ)性(personhood as a human being)は時空を越えています、空間を越え、時間を超えて、無限へ永遠へと広がります。私たちの人格(ペルソナ)は創られたものですが、「創られた」ことを越えます。ペトル第2公書(1:4)では神の本性にあずかるもの、生ける神の創られざるエネルギイを分かち合うものと呼ばれています。人間の使命は「神化」(theosis)、神になることです。聖大ワシリーは「人間は神になるように招かれた被造物である」と言いました。
創世記で、蛇がエヴァに向かって「神のようになるだろう」と約束したお話はご存じですね。この話の裏にある皮肉は、神の意図です。人は神になるものです。しかし、アダムとエヴァは自分の意志でなろうとしたから堕落しました。それはふさわしい時に、ふさわしい方法で、神が賜物としてお与えになるものです。
さて、人格(ペルソナ)の限界が実はとても広く大きいことを見ていきましょう。「人間であるとは何か」を考えるとき、ダイナミックに見て下さい。私たちの人格(ペルソナ)が固定されていると考えないでください。人間であることは成長することです。旅の途上にあることです。この旅は限りないものです。永遠に広がり、天国にいっても続きます。
天国とは「格別何もすることのないところ」と思っている人がいますが、それは全くウソです。天国とは、神の恩寵によって「光栄から光栄へと」進んでいくところです。天国は完成なき完成です。聖イリネイは「来るべき時が来たとしても、神は私たちに新しいことを教えてくれる」と言いました。常に新たに学ぶことがあります。天国においても、神さまに対して「また同じことの繰り返しですか。もう聞き飽きましたよ」ということは決してありません。天国は驚きの連続、終わりなき発見です。J.R.R.トールキンの童話「ホビットの冒険」のことばを借りれば「道はどこまでも、どこまでも続く」のです。
人のペルソナの特徴は神秘的で説明不可能です。それには特別の理由があります。4世紀のニッサのグレゴリイが教えています。「神はすべての理解を超えた神秘である。私たち人間は神の像(イメージ)として創られた。像はオリジナルの特徴を再現するものである。神が理解を超えた神秘なら、人間は神の像として創られたのだから、人間も理解を超えている」。
まさに、「神は神秘」です。ですから「私も神秘」です。
さて像(イメージ)についてお話ししましょう。人間であるために一番大切なファクターです。「私は誰なのか」とは「神の像として創られた人間として、私は誰なのか」ということです。私たちは神の生きたイコンです。私たち一人一人は、限界のない創られざる神ご自身を顕した作品です。人間を神から切り離して理解することは不可能です。人間は神から切り離されたら、もはや真の人間ではなく、「人間もどき」になってしまいます。私たちが神の意味を失ったら、人である意味も失ってしまいます。
ソビエトの共産主義を見ればよくわかるでしょう。共産主義は神の存在を否定して社会を創ろうとしました。神を礼拝することを迫害し抹殺し、同時に、共産主義は人間の尊厳も否定してしまいました。この二つは同時に起こることです。人間を大切にするものは神をも大切にします。神を否定するものは人間をも否定します。
神と無関係に人間を正しく理解することはできません。人間は独立していないし、自己完結的でもありません。私は自分自身の意味を自分の中に封じ込めようと思いません。私は神の像に創られた人間として、自分のではなく「神の法」(Divine Law)の中に自分を位置づけます。
私がオックスフォードの学生だったときに、アトス山の聖シルワンの弟子であった掌院ソフロニーが来校されたことがあります。正教についての講演と質疑応答がありました。最後にある人が「神とは何ですか」と尋ねました。掌院ソフロニーの答はあっけないものでした。「では、人間とは何か話して下さい」。神と人間とは互いに結びついた二つの神秘です。どちらか一方だけで理解することはできません。
「神のイメージとして」とは人のペルソナの「縦」の関係を示しています。神とのリンクと言い換えてもいいでしょう。
次に別のポイントをお話しします。「神の像として」ということは「至聖三者(三位一体)の像として」ということです。神学者グレゴリイは「私が神というときは、父と子と聖神を意味する」と言いました。私たちキリスト教徒の「神」は至聖三者です。抽象概念を積み重ねても神を理解することができません。私たちは神を三つのお方(ペルソナ)として理解します。「信経」を見るとよくわかります。私たちはまず「我信ず、ひとつの神」と唱えます。近代の神学者がするように、神は原因がない存在、根元的な存在、存在の元になるなどの説明を加えません。私たちは「ただひとつの神」を信じると告白してから、それぞれ父と子と聖神について述べます。
私たちにとって神は至聖三者です。ですから神のイメージは「三位一体(三つなのにひとつ)」です。私たちが人のペルソナを理解する上で、それはどういう意味があるのでしょうか。
まず至聖三者について考え、それから私たち自身について考えましょう。
「神は愛です」(1イオアン公書4:8)。同じ章の少し後18節に「愛には恐れがない。完全な愛は恐れをとり除く」とあります。真の愛は独占的ではありません。本当の愛は嫉妬しません。開かれていています。閉じていません。
余談:学生時代に、聖書の引用による失敗談を思い出しました。友達が結婚式に祝電を打とうとしました。彼はこの1イオアン4:18の「愛は恐れがない・・・」という箇所を送りたかったのです。電報代を節約しようとして、1イオアン4:18と書きました。ところが、不運なことに電報局員が、冒頭の「1」を落としてしまいました。すると、イオアン4:18で、福音書のイオアン伝の4章18節になってしまいました。そこは井戸のそばでハリストスがサマリアの女に会った話で、「あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない」という箇所になってしまいます(爆笑)。電報に聖書を引用するときは全文を書きましょうという教訓です。
神は愛です。愛には恐れがありません。神は愛です。ひとりぼっちの愛ではありません。神の愛は自己満足を目的とする自己愛ではありません。神は閉鎖された個体ではありません。神は個体unitではなく一致unionです。神は分かち合う愛です。ひとつの中で三つのお方が互いに愛し合う愛です。4世紀カッパドキアの師父たちは神を表すキーワードとして「キノニア」ということばを用いました。「キノニア」とは仲間、交わり、関係を意味します。聖大ワシリーは『聖霊論』の中で、「神の一致はキノニア(交わり)のなかにある」といいました。ペルソナ間の相互の交わりのうちにあります。至聖三者の教義が述べているのはこれです。神は自己愛ではなく、分かち合う愛です。神は開かれたものです。交わり、連帯し、自らを献げます。
さて、これは神の像として創られた人間にもあてはめることができます。聖使徒イオアンは「神は愛です」と言いました。英国の18世紀の詩人ウイリアム・ブレイクは「人間は愛です」といいました。神は愛、しかも自己愛ではなくて、相互の愛です。同じことは人間にも真理です。神はキノニア、交わりです。それなら至聖三者のイメージで創られた人間も同じです。神は開かれ、取り交わし、連帯し、自らを捧げます。人間も同じです、神の像に従って至聖三者のように生きるときには。
最近ではあまり読まれませんが、とてもよい本があります。英国の哲学者ジョン・マクマレーの『関係としての人間Person in relationship』(1952)です。この本のテーマは、まさに今まで私がお話ししてきたことです。マクマレーは「関わり合うこと」は人の人格(ペルソナ)の根本だと言いました。少なくとも、互いに交わり合う二人以上の人間がいなければ真の人間ではありえないと主張しました。言い換えれば「私が私であるために、あなたが必要なのだ」ということです。マクマレーは至聖三者の教義には触れていません。もし彼がそうしていたら、彼の主張はより強固になったでしょう。
こう考えてゆくと、人間の特徴は「私」ではなくて「私たち」に表れます。もし私たちが年がら年中「私が」「オレが」と言い張るなら、真のペルソナを顕すことはできません。ウォルター・デ・ラ・メール(*)の詩『ナポレオン』に「戦さ人よ、この世界は何か、それは『我』。行軍するこの冬の雪、重苦しい空。荒野の戦さ人、それは『我』」実際にナポレオンがエゴイズムの典型であったかどうかはともかく、自己中心性は最終的に冷酷と孤独に陥るのは確かです。
(*Sir Walter Scottと思われるが、詩の出典は不明。)
昨晩「天主経(主の祈り)」についてお話ししました。ナポレオンの話と全く違います。「天主経」は神ご自身が教えて下さった祈りのモデルですが、そこでは私たちのあるべき姿が教えられています。そこでは『我等』が9回も出てきます。(英語ではus 5, our 3, we 1)でも一度たりとも単数の『我』はありません。「おばあさんとネギ」の民話*についてお話ししましたね。おばあさんが「これはわたしのネギだ」といった途端に、つまり「私たち」と言うのを拒否することで、このおばあさんは至聖三者のイメージを拒否したのです。
*(蜘蛛の糸と似た話。一本のネギをつたって地獄から天国に上がろうとしたおばあさんは、後から登ろうとする人たちに向かって「私のネギだ」と怒鳴った途端に、ネギもろとも地獄に落ちた。)
17世紀初頭近代哲学の始まりの時代、デカルトは「我思う、故に我在り。Cogito ergo sum」と言いました。それ以来この格言を模範に、人の人格(ペルソナ)性についての議論は自己認識、自己意識の観念を中心に論じられてきました。この格言の問題点は「関係」という要素を持たないことです。至聖三者を信じるキリスト教徒は「我思う」と言う代わりに、「我愛す、故に我在り。Amo
ergo sum.」と言わねばなりません。さらに「我愛される、故に我在り。Amor ergo sum.」と言わねばなりません。
現代詩で私が特に好きなイギリスの詩人キャスリーン・レインの作品に、まさに「我愛す、故に我在り。Amo ergo sum」という題名の詩があります。
私が愛するから、太陽は生ける黄金の光を注ぐ。海に金銀を注ぎ出す。
私が愛するから、シダは緑に育ち、草地は緑に、こもれびは緑に。
私が愛するから、一晩中川が私の眠りに流れ込み続ける。
万の生けるものが私の腕の中で眠る。眠りは目覚め、流れは憩う。
Amo ergo sum
Because I love
The sun pours out its rays of living gold 。
Pours out its gold and silver on the sea.
Because I love
The ferns grow green, and green the grass, and green
The transparent sunlit trees.
Because I love
All night the river flows into my sleep.
Ten thousand living things are sleeping in my arms,
And sleeping wake, and flowing are rest.
至聖三者のイメージとつながる人格(ペルソナ)の鍵がここにあります。それは孤独な自己認識でなく、相互愛の関係です。ルーマニアの偉大な神学者デミトリイ・スタニラウエ神父は「愛されない限り自分自身はわからない」と言いました。
私たちは神のイメージを、縦の次元だけでなく、至聖三者のイメージで考える必要があります。横の次元、つまり自分の仲間との関係です。人間という動物を一番的確に定義するなら「至聖三者の神のイメージに従って創られた、愛し合うことのできる被造物」でしょう。ここに私たちの人格(ペルソナ)の本質があります。「互いを互いのうちに分かち合うことができる」という天与の性質です。ハリストスが最後の晩餐の時に神・父に祈った祈りは私たちの人格(ペルソナ)理解のために重要です。「わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためであります。
わたしが彼らにおり、あなたがわたしにいますのは、彼らが完全に一つとなるためであり」(イオアン伝17:22-23)。神のお三方の互いの愛は私たちの人格(ペルソナ)のモデルであり、私たちの救いにとって大切です。私たちは地上において、限られた時間の中で、父と子と聖神のうちにある永遠へと続く愛を具体化します。
一致については、ある話を思い出しました。「上海とサンフランシスコの」聖イオアン(マクシモヴィッチ)大主教です。彼は数年前に在外シノド教会によって列聖されました。私は幸運にも何度かお目にかかることができました。これは彼の下で働いていた神父から聞いた話です。あるときその神父は、教区の経済的な問題に頭を抱えて、どうしていいかわからず、遅くまで机のそばに座りこんでいたそうです。朝方3時頃、突然電話が鳴りました。500キロも離れたところにいるはずのイオアン大主教でした。大主教は何も聞かずに「一晩中座って悩んでいても問題は解決しませんよ。もう寝なさい」とだけ言って電話がきれたそうです。「彼は真の主教さまでした。自分の牧群のためにいつも本当に心をくだいてくださいました。だから私が3時過ぎまで考え込んでいたのがわかったのです」。イオアン主教のような方は聖使徒パウエルが言ったように他人の喜びや悲しみを自分のことのように喜び悲しむのです。他の人の重荷を分かち合わねばなりません。それは人間にとって本質的で根本的なことです。
第一部の講演の最後に、エコロジーの観点にふれてみましょう。人間を「互いの愛を表すもの」と考えれば、人類と他の動物との間にはっきりした線引きができないと思います。デカルトは「我思う、故に我在り」と言い、人間の本質を意識的な自己認識や抽象的な推論の力と見ました。そのために17世紀以降、人間は他の被造物から切り離されてしまいました。そして生態学的に不幸な結果が起こりました。
キリスト教的に至聖三者のアプローチをしていたら、少し違っていたでしょう。人間だけが神のイメージとして創られたのは確かですが、もし人格(ペルソナ)の本質のひとつが相互の愛であるなら、動物にも互いの愛を見ることができるでしょう。自分たち人間を至聖三者の意味で考えるなら、人間は自然を支配するものではなく自然の一部であって、20世紀に私たちが行ってきたように自然を乱用したり略奪したりするのはやめるでしょう。自然を間違って使うことは創造主である神を冒涜することです。自然資源の乱用や動物虐待は重い罪です。キリスト教徒は「しもべ」だと教えられてきませんでしたか。自然とのつき合い方のために、もう一度キャスリーン・レインのことばを引用したいと思います。
「海が、木々が叫びを上げる。自然はあなたの自然。」
Seas trees and voices cry
Nature is your nature.